民主主義と学生運動


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第三部:民主主義運動の前進と学生運動


第一章 鈴木元氏の学生運動論


はじめに

 1966年から1969年に立命館大学で起こった学生運動の総括には、その当時の様々な資料や当時闘った当事者等から聞き込みを行い、総括されるべきであるが、私はその当時の学生運動の中心ではなく、部落問題研究会の一会員として参加していたに過ぎない。そういう意味では学友会執行部の動きや学校当局の動きなどを正確に把握している訳でもない。
 当時の私の問題意識は、「部落解放同盟」の理不尽な要求や「全共闘」の大学解体論(実際に校舎を破壊し、立命館大学の教学理念「平和」への象徴だった「わだつみの像」も引き倒した)から、京都の民主勢力の象徴でもあった「立命館」を守ることが日本の民主主義の発展(ひいては統一戦線の成熟)にとって重要だと思って参加していた。(注1)
 したがって、この章の学生運動論は、すべての学生の思いを吸い上げたものではない。私が「部落研の会員」として参加したり見聞きした学生運動論である。

注1:当時の学生運動の中で「部落研」が果たした役割は大きなものがあった。
  京都では高校生のサークルとしても「部落研」があり、日本社会に対して疑問
  や批判に目覚めてきた若者の多くは、「部落研」に集まってくるという傾向があ
  った。部落問題研究所の石田真一先生(高校の先生でもあった)がそうした高
  校生を束ね、交流会等を組織し、何百人が集まる集会が組織されていた。私
  もこの集会に参加していたが、綾部から参加した部落出身の女性二人の発言
  に非常に感銘したことを覚えている。これら「部落研」出身の学生が、大学で
  も学生運動に多く参加していくという流れがあった。
    京都大学、京都教育大学、立命館大学、同志社大学、同志社女子大、竜
  谷大学、佛教大学、大谷大学、京都女子大、府立看護短大、など京都の主
  要大学には「部落研」が存在した。そして京都大が田中地域、京都教育大は
  竹田地域、立命館は西三条地域に入り子供会活動などを行っていた。
      しかし、「部落解放同盟」はこれらの活動が気に入らず、「大学の部落問題
   研究会」は共産党だとの攻撃を加え、地域子供会から学生「部落研」を追い
   出していった。そんな中で立命館大学のみが引き続き西三条に入って子供会
   活動を行っていた。
      「部落解放同盟」が東上高志氏の「東北の部落」を差別だと言って立命館
   に乗り込んできたのも、この立命館部落問題研究会を西三条から追い出すと
   いう事も狙っていたと思われる。
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    現に、立命館百年史の編纂の為に集まった会議(川本八郎理事長、岩井教
  授など教授連と立命館大学の部落問題研究会のOB・OG(この中には三木府
  連の書記長であった塚本景之氏もいた。))の会議で川本理事長は「『部落解
  放同盟』が最後に突き付けた要求は、『部落問題研究会』の解散要求だった
  と話している。(この会議の内容については、(3)朝田理論を批判した「部落
  研」の指導者「H」氏の実力。本文:105ページ参照

 しかし、その当時の学生運動の最高指導者であった鈴木元氏の「再生を願って」を読んで、これは全く違う、こんな総括をされたら、あの当時青春をかけて闘った運動が冒涜されていると思い、どうしても異義を申し立てたくなった。
 私が今手元に集められる資料は限られているが、鈴木元氏が書いた、「立命館の再生を願って」、「立命館大学紛争の五カ月1969」(写真 小原 輝三)、「京都市の同和行政批判」と「立命館の民主主義を考える会のニュース」や自治会決議、並びに新聞(赤旗、産経新聞)の記事などを参考に、当時の事態の真実に迫ってみたい。

  鈴木元氏の論調は明らかに当時の我々の思いを踏みにじり、立命館大学での自己の立場(総長理事長室室長)を守るために学生運動論を展開している。この彼の主張を批判的に見ていきたい。

1.鈴木元氏の大学闘争の理論の根幹は何であったのかこの検証が大切

 
 「再生を願って」及び「写真集」を読む限りでは極めて特殊な論理になっている。彼はその時々で自分の主張を変えるためその本心は分からないが、「再生を願って」では自分がなぜ立命館の経営陣になる資格があるのかという立場から学生運動を総括している。
 「写真集」では、「全共闘」との闘い(ゲバルト)の記録を残し、自己の活躍を中心に述べている。
 「京都市の同和行政批判」(以下「同和行政批判」という)では、「部落解放同盟」や「全共闘」の役割を国家権力に踊らされ民主勢力の分断を図った運動と断罪している。
  それぞれの本でその主張を変えているのでその実像に触れる事はむつかしいが、以下いくつかのキーワードを見ていく中で、彼の主張の特異性を明らかにしたい。鈴木元氏の上記三冊の本を読むと、それぞれの本に幾つかのキーワードが隠されている。 
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(1)鈴木元氏の思想性を読み解く「キーワード」


【「再生を願って」では】
  @大学に協力して「立命館の危機を、命をかけて守った二人」つまり、主役は川本八郎氏と鈴木元氏いう主張が出てくる。さらにA学園の「民主化」でなく「正常化」が課題、B末川民主主義には弱点があった。その弱点は、「民衆は善、国家権力は悪」という思想、Cそのため、末川博先生は「朝田氏が率いる『部落解放同盟』や『全共闘』と戦えなかった」(むしろ手引きした)Dそれに対し、川本八郎理事長は「『全共闘』と闘った英雄であり『立命館大学の中興の祖』である」、E川本八郎理事長が「『中興の祖』になり得たのは『財政課の職員』であったから」というような鈴木元氏の考えが披瀝されている。

【「写真集」では】
  @上記「民衆は善、国家権力は悪」をさらに勧めて「学生は正義」で「警察は悪である」という捉え方は間違い(この鈴木元氏の思想は警察権力の導入の合理化に繋がる。A大学の自治を守るとうい主張は、「犯罪者容認の論理」に利用されている。B「大学に協力して」、学園の「正常化」を図ることが大切と、大学側の意向に沿った運動論を展開している、Cこの際、警察権力を使ってでも「全共闘」を追い出す、D当時の学友会指導部の相当数の者が毎晩、抜け出してやくざ映画かエロ映画を見にいていた(「写真集」122ページ)これについては、何故このような主張をするのか分からない。

【「同和行政批判」では】
  彼が京都府の共産党の専従の時代に書かれているので、「落解放同盟」や「全共闘」対して、民主勢力の破壊者との批判を行っている。(この本の内容については、第2章 京都の民主勢力と「部落解放同盟」(本文:185ページ)で詳しく述べる。)ただし、部落解放同盟の立命館学園に対する糾弾は触れていない。

(2)鈴木元氏が書かなかった「キーワード」に彼の本質が見えて来る。

 通常学生運動の本を書くなら、必要と思われるキーワードが欠落している。以下幾つかのキーワードを羅列してみると、

【「再生を願って」で】(本来書くべき「キーワード」は)
@学生の要求(「全共闘」だけでなく「学友会」)の主張がなんであったのか、A学生の利益を守る(大学の利益を守るではなく)Bこの運動を通して何を学んだのか、C立命館民主主義の意義と役割、D大学の自治を守ることの重要性、Eこの闘争は何を生み出したのか(何を勝ち取ったのか)、F学生や教職員の動き
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や声(「各学部自治会決議」や「「考える会」のニュース」)G民主勢力全体の中での位置づけなど、これらのキーワードが取り上げられていない。

【「写真集」で】(本来書くべき「キーワード」は)
 @「正常化」か「民主化」では当面の局面では「正常化」だと主張し、それを「大学に協力して」取り組んだとしているが、「正常化」を達成した後「民主化」の課題追求がどうなったかを書くべきである。

【「同和行政批判」で】(書くべき「キーワード」は)
 @「部落解放同盟」による立命館大学に対する不当な攻撃について書くべきである。
 これらの「キーワード」を欠落させてところに、鈴木元氏の思想性が現れている。私は鈴木元氏が見逃した「キーワード」こそが、立命館大学の学生運動を総括するには不可欠な「キーワード」だと思っている。これについては「5.立命館大学の学園闘争の総括の視点は何か」(本文:173ページ)で検討する。

(3)立命館大学紛争の概要と背景

  1967年、「平和と民主主義」を標榜する立命館大学が、水平社結成(1922年(大正11年)3月)以来差別と闘い続けてきた「部落解放同盟」からの糾弾で学内の意見が二分して混乱し、その収束がやっと図られようとしていた時、東京では、1968年1月29日東京大学医学部では登録医制度反対の無期限ストライキに突入し、日本大学では、4月2日「20億円の脱税」が明かるみに出、これを契機に大規模な民主化要求運動が爆発し、5月27日に日本大学全学共闘会議がが結成された。
  この頃から日本各地の大学で学費値上げや学生寮あるいは学生会館の管理運営権などを巡って紛争が多発し始めた。この学生の運動はアメリカ、フランスを始めとするヨーロッパなどの先進国の大学を襲った世界的な現象でもあった。
  さらに、この時代の学生を最も立ち上がらせたのは、アメリカによるベトナム侵略戦争であった。(1960〜1975年)世界の警察官であったアメリカ帝国主義が、ベトナムが社会主義国化すれば、アジア全体が社会主義国すると恐れ、この小さな国にありとあらゆる攻撃を加えたが勝利できなかった。ベトナム戦争をめぐって世界各国で大規模な反戦運動が発生し若者を中心に社会に大きな影響を与えた。(1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は終戦した。)

一方、中国では、文化大革命(1966年から1977)のもと紅衛兵(主に高校生や
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大学生の年代)が出現し、既存の権力の破壊の上に改めて新しい秩序を作るという(「造反有理」)の思想を掲げ、文化的遺産を破壊するなど、破壊活動を通じて既存の権力を否定し、新しい体制を求める動きが起きていた。
  これらの影響も受け、京都でも京都大学、立命館大学、同志社大学など主要な大学で、暴力行為を伴う学生運動が大きな潮流として浮かび上がってきた。さらに、あろう事か教授会の中からもこれらの策動を支持する者が現れ、既存の立命館民主主義に依拠してこれら暴力的学生に対応しようとしても、学部教授会そのものが混乱し、一体感を持って彼らに有効な対抗(対置)ができなかった。(注2)

注2:立命館大学の看板教授であった文学部の奈良本達也氏は、「平和と民主
   主義が、内実を伴わず、形式に流れていることに対する抗議である」と主張し
   て大学を退職。(Memento 第4号 師岡佑行「京都部落問題研究資料センタ
   ー発行」)、また奈良本氏が高く評価していた師岡氏もそれに追随して退職し
   た。

  師岡氏の退職は自主的な退職でなく、非常勤講師であったから、学内での発言が問題視され委嘱されなかったらしい。
  「師岡佑行非常勤講師が、「民青は非暴力主義を唱えながら、隠微な暴力をふるってサークル活動を圧殺する。学生諸君はすべからくヘルメットとゲバ棒でやれ」と講義した。この発言に対して、文学部・二部学友会が、教授会に、師岡講師の言動は立命館の「平和と民主主義」という教学理念に反するという公開質問状を出した。」次年度、師岡講師は講義を委嘱されなかった。
  彼は「全共闘」の1969年の6月13日の「勝利宣言」の集会(実際は敗北宣言の集会だが)に参加し講演を行っている。
(この点については、「案内サイト」の記事を参照した。)

  この二人は部落問題研究所の所員でもあり、奈良本氏は理事長であった。朝田氏によって、同じ研究所の所員であった東上高志が差別記事を書いたと攻撃されているのに、東上氏を守るのではなく、「部落解放同盟」の攻撃に際しては、朝田氏を支持する態度を表明した。
 ここまで書くと奈良本辰也氏は相当の悪者に見えるが、じつはあの当時中国の文化大革命(「造反有利」(謀反には道理がある))を掲げ、既存権力の破壊を行い、知識人に三角帽を被せ、多くの人民の前で糾弾する行為が公然と行われており、日本のマスコミ(赤旗と産経新聞以外は)はこれを素晴らしいことだと大々的に報じていた。そういう時代的背景の中で捉える必要がある。
  
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以下、主に「再生を願って」や「写真集」に載った学生運動論を鈴木元氏が主張した「キーワード」の誤りと、見逃した「キーワード」の重要性を見ていきたい。

2.立命館闘争の総括で鈴木元氏が重視したキーワードは何か


  鈴木元氏が重視したキーワードは、@「大学に協力して」、A川本氏と手を携え学内から「全共闘」を追い出し、B学園の「正常化」を図る!を見てみたい

(1)鈴木元氏の学生運動論の根幹は「大学に協力して」?

  「69年2月13日、一部学友会は臨時代議員大会を開催し、『中川会館封鎖の自主解除、入試の完全実施』の決議を行い、『全学友はこの行動に決起しよう』とのアピールを全学に呼びかけた。こうして13日の夕刻には入学試験の実現を訴える学友会の旗の下に1000名を超えるデモ行進が広小路キャンパスで行われた。入試前日のこの日の夜、「大学に協力して」入試防衛隊行動に参加する学生2000名以上が大学に泊まり込んだ。」(写真集:85ページ)
  鈴木元氏はあの当時の学生運動全体の位置づけを「大学に協力して」という基本的位置づけの下に語っている。この主張の無責任さを以下明らかにしたい。

@「大学」という抽象的概念は、何を指すのか?
  これは鈴木元氏の「大学に協力して」の「大学」は、非常に抽象的な曖昧な概念である。この「大学」とは何を指すのか「大学当局」と読むのか、それとも立命館大学内一部勢力(川本八郎氏など)と協力して読むのかよくわからない。あるいは、教職員組合を指すのかもしれない。(川本氏は副委員長であった。)さらには、この「大学」は、学校当局だけでなく「学生」も含む概念なのか、その点についてもよくわからない。以下「大学」とは何かを探りたい。
  まず、「大学」とは、立命館学園の「学校当局か一部勢力か」について検討する必要があるが、立命館大学の学校当局とは何かも難しい。この時代末川民主主義が徹底され、立命館大学の運営は全学協同方針を採っていた。そういう意味では、ほんのひとにぎりの理事を当局と呼ぶべきでなく、各学部教授会等も学校当局に含まれていると解すべきだと私は思っている。(注3)このような視点で、1969年1月22日の封鎖解除を見るなら、鈴木元氏が「学校に協力して」という表現に疑問を感じる。

  中川会館封鎖解除の実力行使が行われた未明、天野和夫教学担当理事、文学部
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の三役すなわち林屋辰三郎文学部長、山本幹雄学部主事、佐々木高明補導主事、そして名和献三経営学部長、橋本次郎理工学部長が辞任を表明した。一時的とは言え学園としての執行部体制は重大な困難に陥った。とりわけ文学部は林家辰三郎以下三役が辞任してしまったのであるから、学部としての執行体制が機能マヒ状態となった。」(「写真集」77ページ)これらの行為を見て私は、大学側(教授会)は「全共闘」支持だと認識し憤りを感じた。(私自信、冷静な判断ではなかったが)

 これらの事態が起きたということは、「封鎖解除」の方針は、学部教授会など全立命館の意思でなかったと思われる。(この教授たちの辞任は、解除に成功しなかったから辞任したのでなく、学友会が全学協同システム方針を破り、全学の意志の一致を図らないまま、封鎖解除という実力行使を行ったことに対する抗議の辞任だと思われる。・・ただしこの際、辞任を表明した教授たちから全共闘の封鎖に対する抗議がなく、この人たちの無責任さも明らかになった。)
  ここから分かることは、学友会は「大学に協力して」と言いながら、全大学人の真の意見に沿っていたのではなく、性急過ぎた封鎖解除行動が、その後の立命館の権力構造を揺さぶり、更なる封鎖が行われ、混沌とした状況が生まれてしまった。

注3:当時の10名の常任理事メンバーの内6名が学部長であり、文字通り学部長
   理事制度であった。鈴木元氏はこの10名と交渉したが、これらの理事が学友
   会側の意見を認めても、学部教授会に帰ればそれが否決され、「部落解放同
   盟」に屈服した発言をしたり、「全共闘」を擁護したりする発言がなされた。と書
   いている。さらにこの状態を捉え、心の中で「裏切り者」「信用できない」と思っ
   た。(「再生」:286ページ)とも書いている。
     鈴木元氏は、この状況を見て、学部教授会を基礎とする立命館の統治の
   不十分さを感じ取っており、全学協同路線では、「全共闘」の暴力的恫喝に勝
   てないと判断したと思われる。(しかしこの判断は、軽率であった。)

 次に「大学に協力して」は、学友会と教職員組合の共闘なら一番常識的でおさまりが良いが、「再生を願って」では、「『部落解放同盟」の攻撃の際は、教職員組合は闘いに立ち上がることはできなかった』と書いている。(「再生」:39ページ)「全共闘」の封鎖については、教職員組合について言及がなく分からないが、もし組合との共闘ならごく自然であり具体的に書いていたであろうし、闘かい方においても、お互いの激励会などがあり、教職員と共に闘っているという意識が育
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ったであろう。

A 鈴木元氏の「大学に協力して」の実態は?
  この「大学に協力して」と言う感覚が私には無かった。学友会の独自の行動としてこれが行われていると理解していた。学友会内部で、「民主化闘争」か「正常化闘争」かの議論が戦わされていたことも知らず、京都の民主主義の要である立命館大学を守ることが、京都の民主勢力を発展させることにつながり、ひいては日本の民主主義を守る闘いだと思ってに参加していた。
  しかし、鈴木元氏の言うように、これが民主主義を守る戦いでなく、単なる立命館大学の経営を守るために、「大学に協力して」行われたのであれば、大学側は我々の座り込みに激励に来るとか、差し入れを行うべきである。そのような事は一切なかった。(注5)
  当時この闘いに参加した者が、私のこの指摘に対して、「大学に協力して」は
自主的に闘ったのであって、大学側の支援を期待したものではないと主張した。
  この判断は正しいと思われるが、鈴木元氏が「二人で命をかけて闘った」と余りにも強調するから、「大学に協力して」の中身にこだわっている。

注4:「大学に協力して」という発想は学友会の幹部で意思統一したかもしれない
   がこの闘争に参加していた末端の活動家にはその説明はされていなかった。
   その状 況を表すエピソードを私の経験談として書き留めたい。
    私は、1月21日の中川会館封鎖解除の際、負傷したが、その負傷者を受け
   止める準備はされていなかった。女子学生が確かに救護班として待機してい
   たが、消毒薬とガーゼと赤チンぐらいの準備でしかなかった。私は「全共闘」の
   墓石攻撃で上から降りかかる石を避けるため、どこから落ちてくるのかを見極
   めようと上を見上げた時、顎に石を受けてしまった。
    そこで戦列から離れ、救護室に行ったが、誰も対応してくれず、たまたま「部
   落研」の後輩がいたので、その女性が気遣ってくれた。その時、私は怪我の状
   況を正確に掴んであらず、歯が折れたと思っていた。
    その女性と二人で夜の12時前後の街をさまよい、歯医者を探し回ったが、
   夜中のことであり、扉を叩けど出てきてくれず、何件か回って親切な歯医者さ
   んに当たり、診てもらうことができた。その歯医者さんは、「これは歯が折れたの
   ではなく顎の骨が折れて、歯一本分の隙間ができているのだと告げられ、私
   (歯医者)では治療できない。」と言われ、専門医を教えていただいた。
    この負傷に対しては、学校側からも学友会側からも確認の行為は一切なく
  (診断書等を出した覚えもない)、また金銭的にも一銭の補助もなく、貧乏
                            ―156―
    学生であった私には大きな負担であった。このような、状況が封鎖解除の舞
    台裏である。負傷者が出ることも想定せず、大学のためにやったにしては、学
    友会側も大学側も救護措置も何もとっていなかった。
     「写真集」89ページに、「京都の民主勢力による支援・共闘体制」とい項目が
    ある。「中川会館や存心館の封鎖解除のいずれの場合においても多くの負傷
    者だ次々と出た。そのとき、負傷した学生が保険証やお金を所持していなく
    ても『そんなことは後でいい』と受け入れてくれたのが京都民医連に属してい
    た病院・診療所であった。」と記されているが、私が主張したいのは、救護班
    の中に医者が配置され、その負傷の程度で仕分けしていくような手はずが組
    まれていなかった。(これだけの負傷者が出ることを想定していなかったので
    あろう。)

  この現状で、「大学に協力して」と言われてもにわかには信じ難い状況であっ た。

B 「大学」は学生も含む概念か
  さらに鈴木元氏がいう「大学に協力して」の「大学」が、学生も含む概念であるというのであれば、あの闘争は、4回生を卒業させ、同時に入試を行い、新入生を迎え入れるためであったと言える。しかし、これを学校経営の観点から見るか、学生の立場から見るかが決定的に違う。
 四回生を卒業させることは、学生の将来を保障する重要な闘いであるし、また入試を実施することは、全国で立命館を志望校にして頑張ってきた学生に対してその未来を保障するものとして重要である。鈴木元氏がこの視点で語るのなら、「大学に協力して」というフレーズを私は必ずしも否定しないが、鈴木元氏は明らかに、経営の観点からこのフレーズを使っている。
  鈴木元氏の大学闘争論は、学生不在の経営論であり、大学内部の一部勢力との裏面史である。大学存亡の危機を救った我々二人が立命館大学の運営(経営)を握る資格があるという結論に導くための学生運動論が鈴木元氏の主張だと思われる。

C闘いに参加した学生の思いは「大学に協力して」が主流であった。
 入試前夜、まさに大学に協力して、「入試防衛隊行動に参加する学生2000名以上が大学に泊まり込んだ。」(写真集:85ページ)
 この2000名の思いはなんであったのであろう。2000名という数は、学友会に日常的に結集している学生だけではない。多くの一般学生を含んだ数だと思われ
                    ―157−
る。私はその当時の学友会への積極参加していた学生数を把握していないが、核になっていたのはおそらく400〜500人ぐらいであろう。この2000人の多くは一般学生であった。
 その彼らがこれほど多く泊まり込みまでして、入試実施を支えたのは、鈴木元氏の言うまさに「大学に協力するために」集まったのであろう。彼らの思いは全共闘の大学解体(実際に校舎をボコボコに潰していった)路線に反対し、立命館大学を守るために立ち上げったのだと思もわれる。この彼らを決起させた最大のものは、「自らの学習権を守る」というのがその根底にあったのであろう。
 この自らの「学習権を守る」という思いこそが、まさに「学生運動の課題・原点」である。この当時こうした一般学生の思いに支えられながら、学友会に結集する部分はより政治的にこの問題を捉えていたきらいがある。私などは、京都における民主勢力の統一戦線を発展させることを最大の課題と捉え、この立命館闘争を闘っていた。
 そうした意味では、鈴木元氏のいう「大学に協力して」という位置づけは、2000名もの学生を決起させた闘いの位置づけとしてあながち間違っていないようのも思われるが、しかし私は鈴木元氏の主張は決定的に誤っていると思っている。
 なぜならば、彼はこの時決起した2000名の学生の思いとして「大学に協力して」を語っているのではなく、自分が立命館大学の重要な役職に就くための理由付けに使っているからである。
 鈴木元氏が52歳で立命館大学に雇われ、総長理事長室室長と立命館の組織の中に無い役職名で優遇され、しかも大権を振るっている姿を見て、「考える会」などから批判を受け(参照:ニュース15号)、「何を言っているのか、私は1969年の立命存亡の危機の際、『大学に協力して』2000名の学生を動かし、立命館の危機を救った救世主である。」と主張したいがために「大学に協力して」という言葉を使っている。
 あの日結集した多くの学生の思いが「大学に協力して」自らの「学習権を守る」ものであったことに異を唱えるものではない。その気持ちは正しいし、尊重されなければならないが、その気持ちを利用して、特定の個人の手柄話に利用されることに異を唱えているだけである。 

D 仲間が存在しない鈴木元氏の学生運動論
  鈴木元氏の大学闘争の記録は、鈴木元氏の指令で闘った多くの仲間と一緒に闘ったという記述が全くない。2000名が泊まり込んだ夜、私は多くの学友の顔を見た。その中には「あの人が」という人もいた(取り分けて通常は運動家でない司法試験受験者達がいた)、個人的には、何よりも「部落研」をやめていった多くの
                   ―158−
仲間がいた。「部落研」はやめたが、いざという時はみんな立ち上がってくれるのかなと思ったことを覚えている。

  また、鈴木氏の話の中に、「闘いによって学生の勉学条件が改善された」というような話が全くない。また、この闘いで負傷した者(注5)に対して、闘いを指導した者は、労いの言葉があってしかるべくだと思うが、彼の本にはそうした配慮も全くない。闘ったのは鈴木元氏と川本八郎氏の二人だけである。その他は、まさにその他大勢であり、彼の大学闘争にはまったく現れない。鈴木元氏の話は自分の利害関係の話ばかりである。

注5:「再生を願って」によれば、「全共闘」との闘いで負傷した者は
       1200名を数えるという(「再生」39ページ)、この数字は入試実施
     を貫徹するため泊まり込んだ学生が2000名(「写真集」85ページ)と
     されているが、この数字が「全共闘」との武力的対峙をしても立命
     館を守りぬく部隊の数字と仮定すると、参加者の6割は負傷したこと
     になる。私なども1月20日の中川会館で顎の骨を折る重傷を負いなが
     らも、その後も包帯を巻きながら、石が雨あられのように降ってく
     る存心館の攻防(2/18)にも参加していた。立命館の学内には負傷し
     た包帯姿の学生が相当数いた。
   私はこれだけ多くの学生が学友会の指導の下に、危険を冒してでも
     闘ったことに対して、鈴木元氏は責任ある立場から、これらの学生
     に対して感謝の気持ちを抱くべきだし、その当時の我々の思いを背
     負って活躍することが求められている。
   そうした視点かるすると、戦いの成果はすべて自分のもの、私
     は立命の経営者になる権利があるという「再生を願って」鈴木氏
  の主張だけは絶対に認めることはできない。

(2)川本八郎氏と鈴木元氏は、どのような共闘関係であったのか?

 鈴木元氏は、川本八郎氏が鈴木元氏と共闘関係に有ったから、あの戦いで勝利したように描いている場面があるが、以下検証したい。
鈴木元氏は川本八郎氏に、「いくら才能があっても財務課の職員で組合の中心的役員をしていなければ、あのようなイニシアティブを取れなかった。」(「再生」151ページ)と言っている。
 この文書をどう読むかであるが、財務課の職員と組合の中心的役割は並立的なのか、それとも「財務課の職員」であって「組合の中心的役員」であった、つまり「財務課の職員」であった事が決定的であり、より補強できる条件として「組
                    ―159−
合の中心的役員」が語たられているのかであるが、私は「財務課の職員」にポイントがあるように思えて仕方がない。
 ここから暗示されることは、封鎖解除に必要な費用の決裁を彼があげたことを指しているのではないかと想像される。
鈴木元氏が言う「大学に協力して」の協力した相手は誰か明らかにされなければならない。おそらく川本八郎氏だと思われるが、当時の川本氏は大学を代表していたと言えるのかは極めてうたがわしい。(この点を鈴木元氏は語るべきである)

二人(川本八郎氏と鈴木元氏)は、多くの負傷者を出したが、「全共闘」を学内から追い出すという点で勝利を勝ち取った。
  二人の戦略は見事に成功した。最終的(5/20まで)に1200名余の負傷者をだし、中川会館の封鎖解除は失敗したが(1月21日)、これこそが彼ら二人の戦術であり(?)、この負傷者を盾に警察の導入を図り、「全共闘」派の学生を大学から放逐し(2月20日、5月20日)、立命館に一応の平和が戻った。
  今から考えれば、我々に封鎖解除などできるはずがなかった。我々は、1月21日当日集められ、黄色いヘルメットとゲバ棒を渡され(ヘルメットもゲバ棒もこの時初めて手にした。ヘルメットは安物で「全共闘」の屋上から投げる石で穴が開いた。・・人命軽視の突入であった。)、封鎖解除に向かうと告げられたが、どのような形で行うのかの説明もなく、チエンソーのような解除の道具もなく、中川会館の前に隊を進めていった。すると「全共闘」は雨あられのように石を投げ、我々は単に彼らの餌食となっただけであった。(注6)(多くの負傷者をつくり、大学内外での支持を得る、(警察導入の世論を作る)これが二人のもともとの狙いであったのではと私は疑っている。

注6:この武装解除の方針は、東大闘争の経験を学び、導入したものと思
     われるが、東大闘争では、直前の全学連大会で「正当防衛権」を確
     認して、早稲田をはじめとする全国の大学から人員を集め、「都学
     連行動隊」(あかつき行動隊)を作り、臨んだ(突破者:184ページ
     秘密ゲバルト部隊)が、立命の場合は、そのような組織はなく、当
     日作った部隊によって封鎖解除に臨んだが、中川会館は完全に封鎖
     されており、全く歯が立たなかった。

(3)学園の「正常化」を勝ち取った。「正常化」とは何を指すのか?

     

   =この発想は、東大総長代行と自分の考えは同じと自慢=

 
 学友会は、この闘いの目標を「末川民主主義の擁護」でなく、「正常化」と位置
                 ―160−
づけた。確かに、あの立命館大学の学園闘争は、警察権力の導入で「全共闘」を全て追い出し(5月20日)、彼らは学内に立ち入ることすらできなくなった。学内には日常が戻り、表面的な平和が戻った。(注7)

注7:「全共闘」がデモ隊を組んで広小路学舎に入ろうとした際、学友会
     に結集する学生は石を投げて、その侵入を阻止した。私も比較的大
     きな石を力いっぱい投げて、「全共闘」に向けて投げた際、相手側
     にまともにあたり、「ゾッ」としたことを今でも覚えている。あの
     当時石を投げて追い返して喜んでいるものもおれば、私のように相
     手に危害を加えたことを恐ろしいと思った者もいたはずである。
      (私は個人的に、武力闘争と化した学生運動にはあまり共鳴してい
     なかった。)  

@朝田理論からの脱却は早い段階で取り組まれた(立命館)
  あの闘争は、「部落解放同盟」の介入や「全共闘」の破壊活動を取り除き、学園の「正常化」=「日常に戻った」を勝ち取ったが、民主的改革と言う点では、学内改革は進まなかったが、立命館100年史を見ると「部落解放同盟」の影響を排除する動きは比較的早くに起こった。(注8)

注8:1967年の「部落解放同盟」からの攻撃については、立命館は克服し
     ている。(参照:資料11-1、-2:立命館100年史 第三章「大学紛
     争」と立命館学園の課題)以下に一部引用
       しかし、立命館大学は、この「朝田理論」からの呪縛を取り払う
     努力を、その後一貫して取り組む。この点は他の大学とは大きく違
     う。先に引用した成澤榮壽論文は、この点について「「いわゆる
     『民主派』が多数を占めることとなった」昼間部学生で構成する
     「一部学友会」の活動を皮切りに克服されていく。その後の経緯を
     本書の叙述で示す。」と書いている。(参考:資料11-1)

【立命館大学のしたたかさ】 
イ.東上氏を「同和教育」担当非常勤講師として委嘱しなかった(理由)
    「同和教育」の講義を単元に分かって各専門分野から部落問題にせ
     まることとしたこと、及び同和教育に主体的に責任をもちうる研
  究・教育の共同体制をすすめるために専任教員が担当する(以下省
  略)
     1129 大学協議会議事録(昭和42年9月9日)
  ※ 「部落解放同盟」の要求(指摘)を受けたからとは書かれていない。
                   ―161−
ロ.同和教育の指針を朝田理論から決別している(参照:資料11-2「立命
 館100年史」)
    「大学教育と部落問題」第二次改訂方針 
1133 大学協議会議事録(昭和50年3月29日)
   ※この内容は「朝田理論」から脱却を図っている。

ハ.東上高志に連座して採用されなかった馬原鉄男氏は、その13年後  
 (1980年)立命館大学の経済学部教授として迎え入れられている。
  馬原 鉄男氏の略歴(wikipedia)から引用
   1980年 立命館大学経済学部教授
   1981年 全国部落問題研究協議会代表幹事
   1988年 立命館中学校・立命館高等学校長(〜91年)
   1992年 死去 

  1967年に朝田理論に屈服した立命館大学は、その8年後には朝田理論の呪縛から逃れるための基本方針を打ち出している。さらに13年後には、東上孝志氏に連座して、採用されなかった馬原鉄男氏(部落問題研究所所員)を立命館大学の経済学部教授として採用している。これは行政がその克服に40年以上かかったことをみれば、相当早いテンポで脱却を図っている。

A学内改革は、末川民主主義の否定の上での立命館の再生を行おうとした
  立命館大学は、「朝田理論」の克服には、比較的早く取り組んだが、大学そのものの改革には取り組めなかった。それはこの学園闘争を指導した川本八郎氏・鈴木元氏は、末川民主主義の成長・発展ではなく、末川民主主義の否定の中から立命館の再生を生み出そうとしたためである。
  鈴木元氏も川本八郎氏も、末川博先生が唱えた、全学協同路線や、学問の自由や大学の自治を優先する姿勢では、学校経営は成り立たないという基本思想を持っていた。(注9)この彼らの思想が、それ以降の立命館大学の運命を決定づけるものになっていく。我々は卒業し、立命館大学に日常的に注意を払ってこなかった。しかし風の便りで学生運動を闘った小畑力人氏や鈴木元氏が立命館に採用され、さらには、我々学生運動に理解のあった川本八郎氏が立命の最高権力に上り詰めたと聞いて、立命館は他の大学に比べ、学生本位の民主的な大学へさらに進化しているものと思っていた。

注9:本文:97ページ「(3)末川博総長の功績(末川民主主義)を否定する『川
                 ―162−
     本哲学』とは何か」(参照)
     基本的には、川本氏・鈴木元氏のコンビは末川民主主義の否定から
     大学改革を初めている。

  「再生を願って」を読んでこれらの期待が全くの幻想であり、立命館大学は他のどの大学と比較しても最も民主主義が欠如し、大学が特定の理事によって私物化され、権力争いと賃金闘争や退職慰労金問題でもめており、学園の主人公であるべき学生が、蚊帳の外に置かれた大学に変質し、末川博総長が目指した大学とは全く違った大学に変質していることを知った。
  「正常化路線」派は、20年後には、学内の実権を握り、80年代後半から産学共同路線に突っ走り大学改革は成功させたが、立命館民主主義は変質させられてしまった。(注10)

注10:「写真集」を読んでこのことがはっきりした。
  (写真集:83ページ)に「『さらなる民主化』ではなく『学園の正
     常化が愁眉の課題に』と目次を掲げ、我々の中には一部とはいえ、
     『学費値上げの事前阻止はしたものの、総長選挙の実施を含めて他
     の課題は実現していない』『さらなる民主化を追求しなければなら
     ない』という人もいた。」しかし、「事態は『さらなる大学の民主
     化』ではなく『学園の正常化』自体が愁眉の課題となっていたので
     ある。そこで学友会は入試防衛・実施を含め『学園の正常化』が当
     面する中心課題であることを明らかにした」。と述べている。

 私は鈴木元氏の言う一部とはいえの少数派であった。その時点ではこうした闘い(「民主化」か「正常化」の争点)があったことすら知らなかった。
  鈴木元氏の学園闘争論は現実路線であった。立命館という大学を守ったのである、その時点では正解であったかも知れないが、私は鈴木元氏この「現生利益的思想」が今日の弱点に現れていると思う。鈴木元氏の弱点は、当時は見えなかったが今から見ると学生時代からあったのではないかと思われる。

3.鈴木元氏の見失った視点は何か!


 それは、@学生の要求はなんであったのか、A立命館大学の誇るべき理念「平和と民主主義」を発展させたのかB大学の自治を守る事の重要性、C大学運営は、学生や教職員の声を大切に、D民主勢力全体の中での立命館闘争の役割などの総括が欠落している。
                     ―163− 

(1) 学生の要求は前進したのか

 鈴木元氏の学生運動論には、その当時の学生が抱えていた課題(要求について)何ら語れれていない。どちらかというと我々の学生運動は「要求闘争」中心主義であり、政治闘争が弱いと「全共闘」系の学生から攻撃されていが、鈴木元氏の「再生を願って」には学生生活上の要求・課題が全く整理されていない。(注11)
 
注11:「立命館大学第二次学園民主化闘争」の開始(写真集64ページ)
  ここで語られているのは、@学費値上げ事前阻止、Aアメリカのベト
     ナム侵略戦争反対・沖縄返還。B総長選挙規定の民主化、C「明治
     百年祭」反対、D大学管理運営臨時法反対・大学の自治を守れ、で
     あったと書かれている。(写真集65ページ)
   この民主化の課題設定は政治闘争に主眼が行われており、学生の具
     体的要求を把握しているとは思われない。学生は自らの学習権保証
     の立場から様々な要求をもっていた。例えば寮連合が八項目の要求
     を掲げているのに対して、寮のの改善要求が一切含まれていない。

  本来なら、立命館大学が暴力でもって物理的に破壊されている現状で、当面の課題として「正常化」を選択したことはやむを得ないが、「正常化」を勝ち取ったあと、さらに連続的に「民主化」の課題を追求すべきであったが、「民主化」を追求せずに終わってしまった。
 その原因は、「正常化」を優先した中でも、「民主化」の課題を明確にする努力が行われなかったこと(学友会の中心部分は夜に抜け出しエロ映画を見に行くような者たちであった(本文:172ページ参照))、さらには立命に民主化の旗印である「末川民主主義」に対して鈴木元氏を中心とする部分が意義を唱え始めており、民主化の「旗印」を立てられなかったことによると思われる。(「再生」46ページ)

(2)平和と民主主義は前進したのか

  鈴木元氏が、全く理解できていないのは、立命館大学の卒業生が何を誇りとしているかが分かっていない。それは末川博先生が唱えた「平和と民主主義」である。我々は、立命館で学んだことを、日本の「平和と民主主義」を守るために生かして行くことこそ、誇りとするものである。
 鈴木元氏の本を読めば、鈴木氏は立命館が1000億円もの内部留保金を持つ優良企業に発展したことを皆が誇りに思っていると勘違いしている。この勘違いがどこから起こるのか、それは学生の意見に全く耳を傾けていないからである。
                 ―164−
  この鈴木氏の状況は、大学時代の彼を知る者としては嘆かわしい限りである

 「再生を願って」の中に鈴木元氏が末川民主主義の弱点について語っている場面が多々あるが(「再生」30〜31ページ)、「末川民主主義」に欠陥があるという鈴木氏の主張が、その当時の学友会の指導部の共通の意識であったのか全くわからない。
  鈴木元氏は今になって自分の位置づけのために、「末川民主主義」を批判し、末川博先生では闘えなかった。あの当時「末川民主主義の弱点」を認識していた川本八郎氏と鈴木元氏がタッグを組んで立ち上がったこそ、立命館は「全共闘」との闘いに勝利したと本気で語っているのか、それとも、中川会館の封鎖解除が学友会の暴走であり、立命館民主主義の根幹を脅かしたという批判に対抗するためこの話をしているのか、よくわからない。
 少し話は飛ぶが、例えばあの当時毛沢東の「実践論・矛盾論」には問題があるとの指導は受けたが、末川民主主義には弱点があるとか、ましてや部落解放同盟の立命館大学に対する攻撃は、末川博先生と朝田善之助氏があらかじめ示し合わせて行なわれた問題だとの主張も、今回の「再生を目指して」で初めて知った。
 我々に、生命の危機さえある武力行使を指導しておいて、こうした中心的論理が全く語られていない。私はもし鈴木元氏の主張が、末川民主主義へのへ攻撃や朝田氏と結託しているというものであるなら、あの闘争に積極的参加をしていなかったと思われる。この話を聞いておれば、学友会指導部に対する不信感を増幅していたと思われる。
 鈴木氏は、これらの論理を最近でっち上げたのか、あの当時からこう思っていたのか明らかにすべきだし、その内容について、なぜあの時点で説明しなかったのか、その理由を明らかにすべきであろう。
 立命館民主主義が死滅したのは、学友会の中心部分があの当時から裏切っていたのか、それとも鈴木元氏だけの裏切りかぜひ明らかにしてもらいたい。

(3) 大学の自治は前進したのか

 私が出した文書を見て、鈴木元氏はおそらくいろいろ弁解するでろう、あるいは攻撃をしかけてくるかもしれない。しかし鈴木元氏がいくら弁解しても弁解しきれない問題がある。
 それは1966〜1969年の学生運動を通じて、末川博先生の唱えた「平和と民主主義」「大学の自治」が、どれだけ前進させたかが彼の文書からは一切出てこない。彼は「大学の自治を守れ」という主張に対して、「犯罪者を擁護するのか」という形で反論している。(「再生」43ページ)
                    ―165−
誰も犯罪者を守れと言っていない。国家権力(機動隊)の学内介入を避け、大学で起こっている問題は、大学内で解決しようという提案であり、その重みを理解せずに、安易に実力での封鎖解除を決行し、学友会の学内での支持を失っていく。
 しかも彼は大学の自治を守ることをその後も大切にせず、学内民主主義の徹底の意義を認めず、川本八郎理事長の独断専行体制を支えて行く。
 大学の自治を守れは、「犯罪者擁護の主張」という立場についても彼は学生運動との関連で再度説明する責任がある。

(4)学校運営の主役は「学生や教職員」これが末川民主主義

 末川氏は一貫して、大学の運営に対して、自己中心的な運営は行わず、全学協同方式を採用し、各学部の教授会に権限を持たせ、さらには、学生の代表にも立命館のあるべき姿について、参加する権限を与えていた。
 「部落解放同盟」からの糾弾闘争があった際に、その対応をどうするかは、我々学生代表が参加し、さらには多くの学生が傍聴しているなかで会議が行なわれた。
 しかしこの会議に部落解放同盟員が殴り込みをかけ、暴力でもって会議が流会するという不幸があった。このことが末川民主主義を窮地に陥れた。この時の状況を高野悦子は日記に記載している(本文:12ページ「4.『部落研』の会員として成長した姿が見える」参照)

(5)民主主義運動全体の中で総括していない

 これについては(本文:173ページ「5.立命館大学の学園闘争の総括の視点は何か」)参照

4.「写真集」小原輝三氏の写真、鈴木元氏「解説」への疑問


 ここで、立命館大学紛争を扱った「写真集」の問題点にふれておく。写真につては総じて迫力不足(これは素人の限界かもしれない)鈴木元氏の解説には大きく分けて5点の弱点があると見ている

【写真の迫力について】
 小原輝三氏の「写真集」の件でも、なんで迫力が無いのか、ここまで書いて気が付いた。警察権力の導入の際、例えば1969年5月20日、早朝、機動隊が恒心館に強制調査に入った。「全共闘」は何ら抵抗することもなく退去した。しかしその後、約二百数十名がヘルメット・ゲバ棒姿で現れ、機動隊に付き添われるよう
                    ―166−
にして広小路キャンパスに侵入し、破壊行動を開始した。彼らは「わだつみ像」にロープをかけて引き倒した。その際、気が狂わんばかりに泣いていた学生が沢山いた。(とりわけて女子学生)その姿が描かれていない。写真原本を知らないから何とも言えないが、警察権力の導入賛成の立場から見ていれば、そうした写真の重要性は出てこない。
 我々には「学友会は警察権力の導入に賛成だ」とは知らされていなかった。警察が入り、わだつみの象が我々の見ている前で「全共闘」に引きずり降ろされた時、我々は平和のシンボルであるわだつみ像の破壊(警察の包囲の中で)に相当のショックを受けた。この「写真集」での、「破壊されたわだつみの象を運ぶ学生」には、悲壮感が無く、笑顔すら見えるような気がする。
  私の見た光景は(記憶は)イラク戦争でフセイン象が倒された時と同じような状況であった。彼らは引き倒したわだつみ像を引き回し、気が狂わんばかりに喜んで叫んでいた。この姿を相当の挫折感を持って見ていた自分(阻止できなかった)が思い出される。
 
【鈴木氏の解説について】

(1)立命館大学に学ぶ学生の要求は何であったのか

    この点に触れていないのが彼の運動論の第一の弱点
 立命館大学に学ぶ学生の最大の要求は、「良好な学習権の保証」であった。その当時立命館大学は学費が安く我々貧乏学生にとっては魅力があったが、勉学条件は最低であった。700〜800人位が入る大教室で、先生はマイクをもって喋り、その教材は先生の書いた本であった。毎年魅力のない講義を自分の本を売るためにやっているのかと思うほど魅力のない授業であった。私は入学後数ヶ月で授業にでなくなった。(これは「部落研」というサークルの方が楽しかったからでもある。)
  寮連合の出した八項目の要求もその立場に立ったものであったのかは確認できていないが。多くの学生は寮連合の取った方針(要求実現のために中川会館を封鎖することは反対であったが)、八項目要求自体には完全には反対でなかったのではと思われる。
 学友会は最初から、寮連合の八項目要求はマヌーバーと捉え、封鎖そのものに目的があると判断した。この見方は正しいが一般学生は必ずしもその考え方はとっておらず、「要求は正しいが、闘争方針は間違っている」と捉えていたのではないか。(注12)
 学友会は二〇日に五者共闘で「封鎖解除」1万人集会を成功させ、実力で封鎖
                       ―167−
解除できる条件は揃ったと判断したが、その判断に誤りがあった。(結果論ではあるが)一般学生は全共闘の封鎖には反対であるが、学友会が実力で封鎖解除することにも反対であった。(注13)
 これは、「全共闘」の出している要求は我々の願いでもあるという思いと、実力で封鎖解除することになれば、学生運動の潮流間の戦いになり、学校は荒廃し、結局は警察権力の導入を招く結果になるという思いがそこにあったことを学友会は軽視した。

注12:立命館大学「全共闘主催」の立命館闘争勝利大報告集会は、6月13
     日(金)午後2時から、京都大学本部キャンパス法経第1教室で開
     かれた。(全共闘の終焉を示す集会?)
   高野悦子さんの二十歳の原点にはこの6月13日の集会について、何
     ら感想を述べていない。ただ6月14日の日記に、13日「立命館闘争勝
     利報告集会。後 亀井さんらと話す。京大Cバリに泊まる」とだけ
     書かれている。
   (高野悦子氏はこの時点ですでに「全共闘」に幻滅を感じている。)
 当日の集会で何が報告されたか、「案内サイト」の記事から一部引用する。 
  「わが全共闘の戦列は、党をあげた反革命日共民青とのかつてない激闘を通じて、帝国主義者の従順な先兵=立命館民主主義解体の闘いを革命的に貫徹してきたことを。『革命は、それが引き出す密集した反革命を打ち破ってのみ強化される』(マルクス)─わが大学闘争は、個別大学内での矛盾の激成という次元にとどまることなく、その闘いを通じて、今や沖縄闘争と共に、日本帝国主義の屋台骨を根底的に揺がす70年安保粉砕闘争の巨大な支柱・火柱としての任務を更に鮮明にしている。安保・沖縄・大学闘争の不可逆的な進撃を何よりも恐怖する帝国主義者の破防法・大学立法をはじめとする露骨な弾圧治安攻撃をみよ!反革命日共民青の憎悪にみちた武装反革命を見よ!」
 「一切の反革命・敵対者に対する我々の解答はこうである。─大学闘争・沖縄闘争の更なる爆発をもって、安保粉砕・日帝打倒に勝利せよ!帝国主義大学秩序を破壊せよ!弾圧には更なる反撃を!大学立法・破防法を全国大学バリケードで粉砕せよ!立命館闘争勝利!全学奪還!永続バリ貫徹!日共支配体制粉砕!勝利にむかって突き進め!」
「安保粉砕!沖縄闘争勝利! 立命館「民主」体制解体! 武藤日共体制実力打倒! 「改革案」粉砕! 全学奪還!武装バリ貫徹! 大学治安立法粉砕!」(「案内サイト」から引用)

                    ―168−
  この報告から明らかなように、「寮連合が出した八項目の要求」については全く触れられていない。彼らは「寮連合の八項目の要求」は封鎖の口実に利用したに過ぎない

注13:1万人集会で末川博総長が訴えたのは
  「中川会館のなかにいる寮生諸君に訴えかつお願いする。」
  わが立命館大学では、2万有余の学生諸君のうちの数百人の寮生諸  
     君との話し合いが封鎖された会場でなされなければならない理由
     は、どこにもない。しかも、その話し合いはすでに数日にわたって
     行なわれたのであって、学寮委員としては最大最善の協力をせられ
     たのである。このように考えて、私は、今日は全く無意味になった
     封鎖を直ちに解除してもらいたいと訴える。
  (略)
   直ちに封鎖を解いて、お互いの前に横たわる平和と民主のための闘
     いに、腕をくんでいくようにしていただきたい。これが老いた私の
     悲痛な訴えであり切実な願いである。 立命館総長 末川 博(写
     真集13ページ)

 末川博総長は、あくまで寮連合(「全共闘」)に対して封鎖解除をお願いした。しかも、末川博総長は重要なキーワド「お互いの前に横たわる平和と民主のための闘いに、腕をくんでいくようにしていただきたい。」と呼びかけた。
 この末川博総長の呼びかけに、寮連合(「全共闘」)がどう対応するか見るべきであった。
学友会は、末川博総長を担ぎ出した、儀式は終わった、即封鎖解除だと判断したが、これは総長に対して全く失礼な行為であった。この辺が一般学生の反発を招いた。さらにこの時末川博総長の呼びかけた、「平和と民主のために」という立場を学友会は軽視した。(注14)

注14:「再生を願って」の中に、鈴木元氏が「平和と民主主義」に対して
     どう考えているかが、良くわかる記述がある。
   「文化大革命や部落解放同盟についての報道についても同様であっ
     た。第二次世界大戦を賛美したマスコミが戦後、けじめある反省も
     示さず「平和と民主主義」を説いた。これも同じ体質を引きずって
     いたのである。(「再生」46ページ)
  
 立命館大学は、単に経営者のものでなく、そこに学ぶ学生すべてのものでもある。学生運動の潮流間の争いは、直接的には一般学生に関係なく、「我々の学ぶ権
                    ―169−
利を保証してくれ」といういう「一般学生の要求・思い」の軽視が「学友会」にあった。
 相手が何百で封鎖しているなら。それ以上の学生を集めれば封鎖解除できるという単純化で戦いを挑んでしまった。(一般学生の思いが横におかれてしまった)
 このことが判るのは、「全共闘」の入試粉砕行動阻止には2000名もの学生が泊まり込んで阻止したことにも現れている。この闘いは一般学生の気分感情とも一致していたと思われる。それは自分の「学ぶ権利」を守る戦いであると参加者が確信できたからであると思われる。

(2)我々が戦った相手(敵)は誰であったのか

「写真集」には「大学に協力して」というフレーズに象徴されるように、国家権力との闘いという視点が全く欠如している。「全共闘」と我々の陣地戦である。  
  あの狭い広小路学舎で彼らと我々の武力闘争でどちらが勝ったかという総括でしかない。さらにその総括の中心は鈴木元氏が如何に活躍したが中心となっている。しかもその勝利は国家権力に守られた中で勝ち取られた。我々は自力で中側会館を封鎖解除したわけでもない。無残に敗れたのである。確かに存心館は奪い返したが、武力闘争では必ずしも勝利していない。彼らを立命館から追い出してくれたのは、基本的には機動隊である。(注15)

注15:鈴木元氏の次回作(出版予定)は学生運動論であると聞いている。
     その題名が「ノーパサラン『奴らを通すな』」という題名らしい。
     ここに彼の思想性が現れている。(宮崎学の「突破者」と同じ発想
     である。)この名前そのものが「フランコ反乱軍に対する闘いの合
     言葉であり」、「全共闘」との武力対決で彼らを立命館から叩き出
     したことをメインにしていると思われる。 

  総括の基本は、立命館大学の教学理念である「平和と民主主義」が守られたのか、大学の自治を守り、より国民に奉仕する大学としての立命館大学を作り上げることができたのかを問わなければならない。彼には、その視点が全く欠如している。

  私は、我々が戦った敵は、第一義的には「部落解放同盟」(注16)第二義的には、「全共闘」、第三に大学当局という文書を書き、当時の鈴木元氏に近かった人にその原稿を読んでもらったら、次の二点で私の主張は間違っていると指摘された。
 それは、「民主化」か「正常化」では、あの当時は「正常化」が課題であった。
                   ―170−
  さらに学校当局は味方であり、敵とは認識していなかったと言われた。私はこの評価に異論を持っている。

注16:この時点で第一の敵を「部落解放同盟」としたのは、同対審答申に
     魅せられ利権獲得に目がくらみ、民主勢力の分断を図ってきた国家
     権力の意思に嵌った運動勢力という意味で、「部落解放同盟」を捉
     えて言っている。

  次に大学当局を「敵」と捉えるか「味方」と捉えるかは重要である。なぜ鈴木元氏の学生運動論は闘う相手として「大学当局」が消え去るのか? そこには学生の持っている「学ぶ権利の保障」という課題を欠落させているからである。
  彼が指導した学友会は、一般学生が持っていた要求「学ぶ権利の保障」、より具体的には、「学費値上げ反対や、学長選挙の民主化、マスプロ事業の解消などの課題」の重要性を認識せず、学園から「全共闘」を追い出せば全てが解決するという短絡的な学生運動論になってしまった。
 また運動に参加した者がそれぞれどう捉えたかは分からないが、私は大学闘争の中で教授会等の果たした役割に接して、大学当局の腰の座らない対応を見て、彼らは「部落解放同盟」の理不尽な要求に屈し、「部落研」に解散を求めて来た状況を見て、大学は信頼できない、「敵」だと思った。
 鈴木元氏の主張のおかしなところは、「部落解放同盟」の不当な介入は末川博先生と朝田氏の出来レースと指摘しながら、大学当局は「敵」でなく「味方」だというとらえ方である。おそらく鈴木元氏のいう大学当局とは末川博総長や学部教授会や学審懇の当事者ではなく、裏方の川本八郎氏を中心とする勢力を大学当局と捉え、正規の機関を無視した形で川本八郎氏の個人的判断に基づく「全共闘」排除派方針に協力したものと思われる。

(3)鈴木元氏の総括に「政治的課題」を全く欠落させた総括にも疑問を感じる

  鈴木元氏の「再生を願って」や「写真集」での学生運動の総括の中に、政治的課題が全く欠落している。よく見れば政治的課題だけでなく、学生の基本的要求も欠落している。結局は、「正常化路線」からの総括でしかない。
  学友会は、1968年9月以降、立命館大学第二次学園民主化闘争」を開始した。その要求は、@学費値上げ事前阻止、Aアメリカのベトナム侵略戦争反対・沖縄返還。B総長選挙規定の民主化、C「明治百年祭」反対、D大学管理運営臨時法反対・大学の自治を守れ、であったと書かれている。
政治情勢も含む大学内外の学友会の闘争の開始であった。(写真集64〜65ページ)
                   ―171−
  しかし、寮連合(「全共闘」)による中川会館封鎖が行われ、立命館の学生運動は、「全共闘」とどう戦うかが主要な闘いになってしまった。学友会執行部は、入試防衛・実施を含め、「学園の正常化」が当面する中心課題であることを明らかにした。(写真集83〜84ページ)しかしこの議論は、学友会の執行部内で議論され、「民主化」か「正常化」かと二者択一の議論を行い、「正常化」を採用してしまった。
  「全共闘」が学園を封鎖するという緊急事態での判断であり、やむを得ない面もあるが、当面の課題は「正常化」であるが「正常化」が達成された段階で連続的に「民主化」を達成するという確認を怠った。
  さらに、五者共闘で開催された封鎖解除要求集会で末川博総長が述べた「お互いの前に横たわる平和と民主のための闘いに、腕をくんでいくようにしていただきたい。」という発言の重要性に学友会は無関心であった。

 一方「全共闘」はこの闘いをどう捉えていたのか? 闘争の最終版に開かれた「全共闘」の「勝利集会」(6/13)では(実態は敗北を期して、集会を京大でやらなければならないほど落ち込んでいるが)何が語られたのか?
  この日の集会にどれほどの人間が集まったのかは分からないが、高野悦子の日記には、5月30日愛知訪米阻止の立命館集会に京大に時間に行くが15、6人しかおらず(「原点」161ページと)書かれており、封鎖を解除された時点で「全共闘運動」は基本的には終わっている。
  先に6月13日の全共闘の勝利集会の総括の内容を一部引用したが、その内容は、極めて政治主義で、学生の要求が全く不在である。(本文:167ページ注12参照)これを見ている限り全共闘の運動が衰退するのは当然だと思われる。ただ、経済闘争と政治闘争両面から運動を見ていくという観点については学ぶものがある、

(4)やはり鈴木元氏は、警察の導入を第一義的に考えていた。

   2月20日約1800名を超える京都府警機動隊が「全共闘」の暴力行動に対する強制捜査を理由に広小路キャンパスにはいった。学友会と教職員組合が中心となって、「警察の大学侵入に抗議する」として約900名が座り込んだが、機動隊の入校を阻止するような対応はしなかった。そして警察は捜査の一環として中川会館に入り封鎖のバリケードを撤去した。
 鈴木氏は中川会館の封鎖解除に失敗し、けが人がたくさん出たことから、学生による自主解除から、機動隊の導入による解除に方針転換している。(「写真集」88ページ)
                             ―172―
  鈴木氏は、全立命館人に依拠して戦う方針を放棄し、東大闘争などを物まねし、大学に協力してというよりは川本八郎氏と協力(共謀)して警察権力の導入によって「全共闘」の武装解除を行い、学園闘争を終わらせようとした。(注17)

注17:東大闘争は、全学連の「正当防衛論」に基づき、「都学連行動隊」(あかつ
    きの行動隊)を構築していた。(突破者上:幻冬舎189〜190ページ)
      これに対して、立命館は、ゲバルト部隊は組織されておらず、実力で「全共
    闘」追い出すことは困難であった。
      そこで鈴木元氏が考えたのは、東大の総長代行の加藤一郎氏が、69年1
   月16日に「全共闘」の行為を犯罪行為として警察に要請し、1月18日19日に排
   除させたことを高く評価し(写真集89ページ)この方法を立命館大学にも適応
   することを考え、警察権力の力で「全共闘」を追い出した。(2月20日、5月20
   日)

  この功績が認められ、30年後に、「全共闘」を学園から叩き出した男(英雄)として、立命館において、総長理事長室室長という権力を勝ちとる根拠を与えることになった。

(5)当時の学友会執行部の実態(堕落)を描いている。

 学友会の執行部のメンバーについて当時の状況を「毎日のように実力行動を行っていると異常になってくる。当時、学友会の執行部のメンバーなどは研心館の地下ボックス、3階や4階の大教室に泊まり込んでいたが、その内相当数の者が毎晩、抜け出していた。どこへ行っていたかというと大概は深夜のオールナイトの映画館で、やくざ映画かエロ映画を見に行っていた。暴力は人間を荒廃させる。
  そんな中でも切り替えて勉強する人々がいた。」(写真集:122ページ)と書いている。一緒に泊まり込んでいた私は、こんな事実があった事を全く知らない。多数派はやくざ映画かエロ映画を見に行き、少数派は勉強していたというような表現にはあきれ返る。
  鈴木元氏がどのような意図で、このようなことを書いているのか、全く不明であるが、この文書は、当時、大学や学友を思い全共闘と真剣に闘っていた仲間を落とし込め、冒涜するものである。    
 この話、何か橋下大阪市長の論調に似ている。暴力が人間を荒廃させるというような一般論で自らの退廃を合理化する手法だ。鈴木元氏の言っていることが本当に真実であったのか、共に闘った仲間に聞いてみたが、みんな怒り心頭である。(注18)

                           ―173−
注18:先に宮崎学氏の学生運動論は、ヤクザの論理であり、鈴木元氏の学生運
    動論にも似たところがあると指摘したが、泊まり込みの活動家の姿の描き方
    は、宮崎学氏の「突破者」の方が真面目に書かれている、以下引用する。
      「夜の過ごし方にしても、いたって品行方正だった。議論をしているか本を
    読んでいるか、北京放送やモスクワ放送を聞いているか、あるいは血の気の
    多い奴らは寒い校庭で殴り合っているかである。女子学生が混じっていても
    色模様などは毛ほどもなかった。」(突破者上:幻冬舎153ページ)
   
  一方では彼は「全共闘」の学生運動を見た評価だと思われるが以下のような状況も書いている。
  「『昭和残侠伝』『緋牡丹博徒』などのヤクザ映画ですっかりヤクザかぶれした連中がいっぱしに険しい目をしてうろうろする。朝まで営業のジャズ喫茶や酒場で学生運動の活動家やアングラ演劇の役者、チンピラやヤクザが入り乱れて喧嘩や議論を繰り返すといった有様で、内外の荒っぽい若者の梁山泊の観があった」
  「この連中や酔っぱらいが騒動に加わったこともあって、新宿駅一体はまったくの無法地帯に化した。そのために政府は深夜零時過ぎに騒乱罪を」適用、2000人近い学生・市民が検挙された。重軽傷者は警官だけでも800人に及んだ」とも書いている。(「突破者」上 186ページ)
   
 なぜ敢えて、当時の学友会執行部の人たちの士気の高さでなく、思想的に退廃していたように描いているのか、鈴木元氏の思いが全くわからない。宮崎学氏の「突破者」はヤクザ路線ではあるが、共に戦う学友に対しては尊敬の念があることがわかる。

5.立命館大学の学園闘争の総括の視点は何か


(1)立命館民主主義を暴力で破壊した「全共闘」と闘うには、暴力でなく、全


立命人が団結して、既存の「立命館民主主義」を守ることで跳ね返すべきで


あった。


 私は、五者共闘会議(本文:124ページ:注1参照)による「封鎖解除」1万人集会を成功させた段階で、実力(暴力)をもって打って出た行為は誤った行為であったと思っている。(結果論で事後的判断ではあるが)事実1月20日の封鎖解除1万人集会には、「全共闘」を除くすべての立命館人が集まったかのような盛り上がりをみせ、彼らの封鎖の不当性を糾弾した。この力に依拠して闘いを進
                                   ―174−
めるべきであったが、実力で封鎖解除に突入しようとした際、体育会系の学生に阻まれ苦労したことからもわかるように、学内はどっちもどっちという意見が急速に広まり、闘いは一部の戦闘的な部分だけが担うようになる。
 
 この段階で必要であったことは、暴力に対して非抵抗では無いが、最低限の防衛に努め、立命館大学の民主主義の砦である、各種機関を有効に活用し、全学の学生・教職員の団結を強める運動が必要であった。(封鎖解除は、明らかに過剰防衛であった。)
 暴力に対して、実力で対抗したため、末川博総長が築いてきた立命館民主主義は機能せず、民主的な話し合い、言論の無力さのみが露呈し、学園闘争終了後も、再び全学協同路線の復活強化がなおざりになり、今日の一部幹部の独走・私物化を招いてしまったと思っている。

(2)立命館民主主義は機能していなかったのか(そうではなく、理解できな


かった)

 なぜ、この段階で学友会は実力での封鎖解除方針を採用したのか、その最大の理由が、入試が迫っていたからである。(2月14日から16日に実施される)つまり鈴木元氏がいう「大学に協力して」は、闘いのスケジュールが決められていた。
 結果論ではあるが、入試試験の会場は他大学(他府県も含めて)を確保して行うとかそういう議論がなぜ起こらず、入試実施を勝ち取る、そのためには、それまでには「全共闘」の封鎖解除を行うという短絡的な方針を出したのか疑問が残る。
 学友会幹部は「全共闘」以外は全ての立命館人が結集したこの集会の意義をどう捉えていたのか、疑問が残る。単なるアリバイ主義、あるいはスケジュール闘争として捉えていなかったのではないか疑問が残る。
  五者共闘会議で封鎖解除一万人集会を成功させたことは、他大学と違い立命館大学が誇る「全学協同方針」が機能した姿であった。何よりも末川博総長が、封鎖している学生に対して「お互いの前に横たわる平和と民主のために闘いに、腕をくんでいくようにしていただきたいこれが老いた私の悲痛な訴えであり切実な願いである」と訴えられたことの意義は大きかった。(ここに立命の進むべき道が語られていた。)
  この集会の成功の意義をもっと正確に分析しておれば、立命館は、実力行使で封鎖解除に向かうのではなく、圧倒的な世論で彼らを粉砕することが可能であったと思われる。(鈴木元氏や学友会執行部は、全学連大会の「正当防衛論」や東大
                           ―175−
闘争などを無批判に学び、同じようなゲバルト路線を採用したのではないか)
 入試実施を固定的に捉え、この日を外せないという前提で取り組んだために、実力行使という戦術に行き着いたと思われる。

(3)川本八郎氏と鈴木元氏の共闘(命をかけた闘いの)接着剤は何か。

 鈴木元氏の「再生を願って」を読んで一番引っかかるのは、「川本八郎氏と鈴木元氏の二人がが命をかけて闘った」という立命館大学闘争の総括であろう。この総括のおかしさは、「全共闘」の総括のおかしさを上回る。全くその当時学生の思いを踏みにじり、闘いに参加した多くの人達を侮辱するものである。
 なぜ「この二人は命をかけて闘った」とまで言える関係なのか?これは鈴木元氏の片思いか川本八郎氏も共通した思いなのか知りたいところである。ただ、川本八郎氏が立命館学園の理事長になるやいなや、鈴木元氏を訪ね、立命館大学に招請し、総長理事長室室長という役職を与え、川本八郎理事長の「一の子分」として使ったところを見れば、相思相愛関係と見られる。
 この二人がどこで「引っ付く」のか、それは権力欲かお金か、それとも立命館大学を改革したいという思いなのか、いろいろ想定されるが、この文書をここまで書いて気がついたのは、二人の共通点は「末川民主主義の否定」であることが分かった。
 川本八郎氏は、「本文:97ページ(3)末川博総長の功績(末川民主主義)を否定する「川本哲学」とは何かで書いたが、「末川民主主義」疑念を抱いていた。(2002年4月3日産経新聞)さらに日本経済新聞(2003年5月25日)で、「戦争中は戦争になびき、戦後になった途端に現実社会を見ずに国家権力になびいたことだけを反省し、『あつものに懲りてなますを吹き続けていたのが従来の大学の姿です』」と語って「末川民主主義」を揶揄し否定している。
 また鈴木元氏「再生を願って」を読んでいるといたるところで、「末川民主主義」を批判している。例えば、(「再生」45ページ)で「第二次世界大戦を賛美したマスコミが戦後、けじめある反省を示さず「平和と民主主義」を説いた。これと同じ体質(末川民主主義は)を引きずっていた。」( )内は筆者が補記。
  この鈴木元氏の「平和と民主主義」に対する批判は、川本八郎氏の批判と同じ思想性のものであり、現在の産経新聞の朝日新聞に対する批判と同じ発想である。
  学友会に結集し学生運動を闘った我々は、学友会の中心部分がこのような思想で学生運動を指導していることを全く知らなかった。我々は「封鎖解除」一万人集会で末川総長が寮連合(「全共闘」)に呼びかけた「お互いの前に横たわる平和と民主のための闘いに、腕をくんでいくようにしていただきたい」という気持ちで参加していた。
                        ―176−
 立命館大学の学園闘争は、「暴力」の前に、立命館民主主義がなぜ機能しなったのかの総括こそが必要であり、「平和と民主主義」に弱点があったという総括を行うべきでない。「立命館民主主義」のどこを改善すれば、学生を主人公にした大学運営が行われるのかの点検こそが愁眉の課題であった。
 しかし、立命館大学の運営権を握った川本八郎氏、小畑力人氏、鈴木元氏は立命館民主主義の強化ではなく、大学を経営の視点で捉え、学生を顧客としか捉えない大学に変えてしまった。

 私はこの原因は、大学闘争を立命館民主主義の充実を図る視点から取り組まず、学園の「正常化」路線で取り組んだため、自分たちがこの大学を守ったと言う自負心だけがふくれあがり、後日、独裁化の道を歩ませたと思っていた。
しかしそうでは無く、勝利した二人は両方とも当時から「末川民主主義」の批判者であったことが大きいことが分かった。(小畑氏については分からない。)

  「正常化」路線派は、「全共闘」を追い出し、入試が行なえ学生も確保できたことで満足しているが、立命館での闘いを教訓にそれ以後の「部落解放同盟」との闘い、日本における民主主義の発展にどれだけ貢献できたかが問われていることに気づくべきだ。(注19)
  そして川本八郎氏・鈴木元氏の運動論の間違いは、40年後に明確になる。我々が立命館の「正常化」を成し遂げた。だから我々は立命館からその報酬をもらう権利があると勘違いして暴れまわり、現在ひんしゅくを買っている。これが川本八郎氏・鈴木元氏(命をかけて闘った)の最終章である。
 立命館大学が守るべきものは教学理念「平和と民主主義」であり、庶民の大学と言う立場性である。決して1000億円の積立金(内部留保金)の大きさではない。今の鈴木元氏と立命とトップ陣との闘いは、まさにこのお金をめぐる闘いに見え、見苦しい限りだ。

注19:鈴木元氏は、学生運動をその当時の日本を取り巻く情勢の中で見ていな
    い。多くの立命館大学の関係者は立命館大学の学生運動と言えば、寮連合
    (「全共闘」)による中川会館の封鎖を想い浮かべるであろうが、本当に重要
    な闘いは、実は1966年〜1967年に起った東上高志の「東北の部落」が差別
    だという「部落解放同盟」京都市協議会からの申し入(1966年5月23日)れで
    ある。(京都における部落解放同盟の分裂・・1966年1月朝田善之助氏は新
   たな府連を立ち上げ)この申し入れは、朝田氏が率いる京都府連が、部落
   解放同盟内での基盤の確立を画策し、更には全国的に朝田理論による解放   同盟の変質を企んだ闘いであった。
                            ―177−
       これは学内外に大きな衝撃を与えた。学生運動では様々な潮流の闘いが
    あったが、日本の政治の世界では、社共共闘が進み、革新自治体が多く生
    まれ、革新勢力の高揚の時期であった。この朝田氏の問題提起(差別論)
    は、育ちつつあった社共共闘を破壊していく大きな楔になった。
      立命館大学においては、その後、全共闘に結集していく学内の各潮流は、
    「民主派」を除きすべての潮流が朝田氏の差別論を支持し、「民主派」との大
    きな対立軸となっていき、「民主派」は逆にこれを契機に学友会で多数派を
    握ることになる。
      立命館においては、「朝田理論」は学生の多くを掴むことには成功しなかっ
    たが、その後日本の政治の世界では社共共闘の破壊には大きな役割を果た
    し、地方自治体の多くを屈服させ政治的には一大勢力として君臨していくよう
    になる。
       1967年に部落解放運動の先覚者松本治一郎が死去する。その後の部落
    解放同盟委員長に朝田善之助が就任。朝田善之助を中心として分裂した
    京都府連に続き、各地に同盟内の分断・排除の動きが広がり始める。以降、
    朝田派が主流派となり、その解放理論は徐々に本部内にも浸透し始め、1970
    年の第25回全国大会で全面的に取り上げられることとなる。

      朝田氏がなぜ立命館を狙ったのか、それは立命館が京都の民主勢力の
    ひとつの象徴のような役割を占めていた。早くから社共共闘が組まれ蜷川革
    新府政がすでに大きく定着していた。(日本でもっと共産党の政治的影響力
    が大きい地域であり、部落解放同盟の運動の中心も京都であり、朝田善之
    助氏の地元でもあった。)朝田氏は解放同盟内の共産党支勢力を追い出
    し、自分が実権を握ることを画策し、この成果を上げる必要があった。彼は立
    命館闘争、京都府職、京教祖と相次いで攻撃し成果を上げ、1967年22回全
    国大会で部落解放同盟中央執行委員長になった。
       朝田氏の狙いは、大学の先生方は世間知らずであり、「差別」だと脅かせ
    ば落とせると彼らは判断していたと思われる。さらに立命館大学が、朝田氏が
    押し進めようとしていた「差別論」を認めたという事に成れば、社会的影響力
    が大きいことも計算していたと思われる。

6.宮崎学氏の「突破者」の比較から見えてくるもの


  グリコ・森永事件で容疑者として疑われ有名になったキツネ目の男、宮崎学(全
                               ―178―
  学連早稲田の行動隊長)の「突破者−戦後史の陰を駆け抜けた50年−」(1996年10月 南風社刊)という本がある。
  この本も1969年の学生運動(早稲田・東大)を扱っているが、彼の思想はまさにヤクザの抗争である。鈴木元氏の学生運動論もこれに近いところがある。(風の噂では最近は友達関係にあるとも聞く)この本と一致している面と違う面がある。(以下比較しながら見ていきたい)

★一致している面、
  ヤクザの抗争的学生運動論。宮崎学氏は、鈴木元氏より明確に政治闘争は武力闘争での勝利なくしては勝ち取れない。「ヤクザと同じ」とはっきり名言している。(「いくら綺麗事で飾っても、これらのことは基本的にはチンピラの喧嘩やヤクザの抗争と何ら変わるものではない。」突破者上(幻冬舎版)201ページ)

★一致していないところ、「突破者」の主張・視点
 ・早稲田闘争では、革マルや青解と共に戦っている。(緩やかな共闘路線) 
 ・警察権力の導入による解決を全く考えていない。(東大闘争)
   その代わり、運動そのものに「都学連行動隊」(あかつき行動隊)が存在し、
  革マルや青解よりも武力闘争の力量が上回る。(訓練された組織部隊=秘密
  ゲバルト部隊の存在) 
 ・「突破者」には、「大学に協力して」というフレーズがない。
  (このことから想定されるのは、「大学に協力して」という方針は、全学連全体の
  方針ではなく、鈴木氏が指導した立命館大学だけが採用した方針だと思われ
  る。)

(1)機動隊の活用で「学園の正常化」は汚点が残る

  鈴木元氏は、当時の教職員や学生の意識、「『全共闘』の封鎖には反対だが、『警察権力の力で解決することも反対』という意識」を過小評価し、入試実施のためには、警察権力を使ってでも、学園の「正常化」を獲得することを最大の課題としていた。
  この鈴木元氏の発想がそうであることを実証する発言が「写真集」89ページにある。「東大の総長代行の加藤一郎氏が、東大全共闘の行為を犯罪行為として警察に要請し、1月18日・19日に排除させたのである。明らかに法治国家の下の大学として正々堂々と毅然とした態度を取ったのである」と書き、鈴木氏の考えの正当性を主張しているが、加藤氏は日本の官僚制度維持に必要な日本一の国立大学の総長代行である。明らかに国家権力の代弁者としての発言である。
                            ―179―
  この東大の総長代行の加藤一郎と私の考えは同じだから私の考えが正しく、末川博先生は大学の自治論にとらわれ、これを決断ができなかったと批判しているが、鈴木元氏はすでにこの当時から、権力を肯定する考えがあったことを示している。
  機動隊の導入で「全共闘」圧殺、宮崎学氏の「突破者」にはこの理論が全くない。そういう意味では「鈴木氏の方針」は全学連の方針とは思えない節がある。

(2)大学の自治を守れは「犯罪者容認の理論」(鈴木元氏)

  宮崎学氏は、武力闘争で常に勝ってきたと主張しているが、鈴木元氏は「大学の自治を守れ」というスローガンは、「犯罪者容認の論理」に利用されている。
今日的状況では、警察権力を利用して「全共闘」をたたきつぶす。(知能作戦で「全共闘」を粉砕)と主張している。(「再生」43ページ、「写真集」88ページ)一見正しい主張のように見えるが、この考え方は、民主主義の大切さを理解しないものは、自らが権力を握った時に独裁化することにつながることを示している。
 

7.鈴木元氏の学生運動論を当時の情勢との関連で批判


(1)国家権力は日本の民主勢力の中での「部落解放運動」をどう見ていたのか

 昭和33年12月4日―「世界人権宣言」―第10周年記念日にー『部落解放運動の最近の動向』(自民党同和問題議員懇談会)」のまとめがある。この報告書は、36ページのパンフレットに過ぎないが、「はしがき」において「この2・3年の間に、いわゆる部落の問題が、再び世間の注意をひくようになり、社会的にも、政治的にも大きな関心が寄せられている。しかし、いまあるがままの姿は、人権擁護の国、民主主義日本の名に価しないものである。恥ずべく、憂うべきことといわなければならない。・・・その立場におかれている人達のためにも、国家社会のためにも、一日もすみやかによき日の来らんことを念願してやまない。」としている。
 また、「部落解放同盟の動向が次第に『統一戦線の一貫としての共同闘争』として進んでいることが何より危険だ」と認識している。「解放同盟は同盟独自の運動としては、全部落民を団結して、部落民の生活と権利を守る、行世闘争、清治闘争の運動方針を推し進めると共に、その反面においては、左翼政党をはじめ、労働者、農民の団体やその他の民主団体と統一戦線をしいて、勤評反対、軍事基地反対、原水爆禁止等の運動を活発に行う方針をハッキリ打ち出した。」
勤評反対闘争について解放同盟13回大会(昭和33年)では、「和歌山県における勤評反対闘争は、全国民に部落問題に対する関心を呼び起こす上大きな役割をはたした。また、この闘争は部落解放運動はじまっていらいともいえる。他団体との大衆的な闘争であり、画期的な意義をもたらした」と述べて、その効果を極めて高く評価している。
 自民党はこの大会決定を見て「この意味にでは、少なくとも統一的な大衆行動に関する限り、解放同盟の考え方は、共産党の方針にちかいのではあるまいか。」と総括している。
 『勤務評定反対』のような社会運動、政治運動等の権力闘争において解放同盟が統一行動に結びつき、高められていくことに強い警戒感をもっている。さらに部落解放同盟が日本共産党の部落対策路線に接近しつつあることも着目している。しかし、全体としては「統一戦線は、それほど強固なものではないと思われる。」(注:20)強力な運動体になる前に先手を打つべきだ。」としている。

注20:33年8月1日日本共産党第7回大会の共産党野坂参三氏の報告に触れ、
   「最近の和歌山県の勤評反対闘争における部落住民のたたかいをみても
  (統一戦線の重要性が)はっきりわかることである。この分野におけるわが党の
  立ちおくれは、とくにはなはだしい。しかし部落解放闘争の下部において、その
  中心において、わが党員が多数いることを思えば、それを党の政策の下に結
  集することによって、党の立ちおくれは急速に克服できるものと確信する。」

 この審議会は錚々たるメンバーで構成されており、河本敏夫、三木武夫、竹下
                              ―180―
登、原健三郎など自民党の衆参両議院約100名で構成・・自民党の本気度が伺われる。)

(2) 革新自治体つぶし(統一戦線破壊)と「部落解放同盟」の役割

  また、日本の革新勢力(統一戦線勢力)は、1960年代後半から1970年代前半にかけて、都道府県知事・市町村長選挙において、日本社会党と日本共産党を主とする革新勢力の統一協定が結ばれ、革新自治体が誕生した。全体として政治戦線において大きな高揚期であった。
  この現状に対して、自民党は、革新統一派の中に「部落解放同盟」が参加していることに危険性を感じその分断を模索する。彼らは、「部落解放同盟」が必ずしも一枚岩でなく、日本の「民主化」の中に解放運動を位置付けるより、自らの要求を前面に闘う方が有利だという勢力が存在することに目を向け、同和対策審議会答申1965年(発表)をテコに、部落解放同盟を統一戦線から離脱させる戦略に打って出る。それに呼応したのが、朝田氏が率いる「部落解放同盟」であり、京都府連の三木一平氏や塚本氏を除名し(1865年12月地元田中支部で、その後府連執行委員会で除名の確認を行おうとするが反対多数で否決され、朝田氏は1966年1月自らを委員長とする府連を結成)、部落解放同盟内で勢力を伸ばし、全国の部落解放運動を朝田氏の理論で組織化していく野望を持っていた。
 その実現のため朝田善之助氏の地元で民主主義派の拠点である立命館大学、京都府職労、京都教職員組合(1967年9月〜10月にかけて)へと差別糾弾闘争を拡大していく。朝田氏はおそらく部落解放同盟内の共産党の影響力を排除して統一戦線を破壊すれば、権力側から優位な立場が部落解放同盟に与えられると読んでこうした行動に出たと思われる。
  もっとも、それともそんな高尚なことは考えず、常に共産党系に抑え込まれていた今までの自分に対する仕返しの意味でやったのかも知れない。運動全体としては、共産党をたたき、自治体にすり寄れば「部落解放同盟」としての要求が実現していくことを実践的に学んだのだと思われる。
 国家権力の側は、「部落解放同盟」が行政闘争において相当理不尽な闘いを行っていることを知りながら、これを許容し彼らの蛮行を後押ししていた、それほど「部落解放同盟」の民主主義に対する挑戦は、権力側から見れば、大きな成果を上げた。
  「部落解放同盟」の立命館大学への攻撃は、東上高志のルポ「東北の部落」が差別論文であったからではなく、「差別」だという理屈は、豊臣家を倒すために家康が仕掛けた方広寺鐘銘事件と同じで明らかに言いがかりであった。

                            ―181−
  しかし「部落解放同盟」は、これを差別だと言い張り、みんなを屈服させることに最大の狙いがあった。それは朝田理論の根幹である差別思想が根底にある。朝田氏は「日常、部落に生起する問題で、部落にとって、部落民にとって不利益な問題は差別」だと主張した。だから何が差別かは、差別されている部落民が差別だと感じたらそれは差別だと主張した。足を踏んでいるものは足を踏まれている者の痛みが分からないと言う論理で、闘い、多くの人を屈服させていった。(注21)
 
注21:区別と差別の違いは、差別は差別されている人の心が痛む事と主張する
    人がいるがこれは間違っている。この論理で言えば何でも差別になる。
     例えば、お祭りの「ポスター」で「よっ」という掛け声が差別と言われたり
    (1996年四日市が大四日市祭に四日市のマスコット人形「大入道」が描か
    れ、その横に「よっ」というかけ声が書かれていた。「部落民とは何か」藤田啓
    一編 3ページ)、ちあきなおみのヒット曲「四つのお願い聞いてよ」が差別と
    言われ1980年代後半から1990年代にかけてはCDなどへのベスト盤へは収録
    されず、放送も自粛されていた。差別の客観的認定が必要である。

 最近で言えば「セクハラ」問題で、女性がそう感じたら「セクハラ」だという人がいるが、これも危険である。やはり客観的基準が必要である。(部落差別の朝田理論と共通した発想である。)
  1969年同対審答申が具体的実施段階に入って、この朝田理論を掲げて行政と闘えば、連戦連勝し、朝田理論は次第に「部落解放同盟」の公式の理論へと昇華していった。
 「部落解放同盟」のこの闘いは、裏では国家権力側が糸を引いており、「部落解放同盟」の攻撃対象は、基本的には共産党の影響力の大きな組織に向けられており、この「部落解放同盟」の奮闘で、「部落解放同盟」を支持する社会党と「部落解放同盟」に批判的である共産党はその後共闘が取れなくなり、社共共闘は急速に潰れていき、同時に革新自治体も多くは覆されるという運命になって行った。

 例えば大阪府では、1971年の大阪府知事選挙に日本社会党と日本共産党の支持を受けて(告示11日前までもめたが)黒田了一氏が当選したが、同和行政を巡っては社会党との軋轢が激しく、1975年府知事選では、社会党は反黒田で公明党と共に桃山学院大学学長の竹内正巳を独自候補として擁立し、自民党も左藤知事での副知事だった湯川宏を擁立するが、45万票の大差で黒田氏が再選された。
                          ―182―
史上初めて日本共産党単独与党の知事が誕生した。
 その後も舞台裏では反黒田陣営が形成されて「部落解放同盟」と親しい関係   にある社会党が与党を離脱したことにより、2期目末期の1978年3月末日をもって窓口一本化が解消するなど、公平・公正な同和行政が実現するに至った。  
  1979年の知事選では自民・新自クが中心となり、自治省出身で黒田氏の下で副知事を務めた岸昌氏を反黒田統一候補に担ぎ出していく。社公民・社会民主連合もこれに乗るが、結局、黒田氏は共産党と革新自由連合の推薦で再選を目指し、前回よりも18万票伸ばしながらも僅差で岸氏に敗れた。
  東京では、1970年代後半に、「部落解放同盟」の抗議運動などをきっかけに革新都政が動揺を来たし、社共の不和が目立ち始め、例外を除いて多くの地方で社共共闘は解消された。
  1980年の「社公合意」で社会党と共産党の決裂は決定的なものとなり、その後社会党は社公民路線を経て相乗りオール与党体制に取り込まれていき、この路線は社会民主党・民主党にも引き継がれている。共産党は「平和・民主・革新の日本をめざす全国の会」(全国革新懇)に参加、無党派との共同を主眼とした独自の革新共闘構築の路線を歩んでいく。
  部落解放運動は行政闘争では大きな成果を挙げながらも、その暴力的手法と部落排外主義的思想は、多くの不祥事も派生し(注22)、次第に国民的支持を失っていった。(大衆団体と割り切れば、それでいいのかも知れないが、例えば大阪では組織内候補であった社会党のT氏は、その後自民党に移り、さらには維新へと移るという政治的節操が全く疑われる動きをしている)「物取り主義」思想の落ち行く先のように見える。

注22:これについては、第二章 京都の民主勢力と「部落解放同盟」2.朝田理
   論がもたらした数々の罪悪(補論)(本文:193ページ)参照


(3) 立命館大学の学生運動の意義

  立命館大学の学園闘争は、日本全体の民主主義運動の発展をかけた闘いの先鞭をつけた闘いであり、「部落解放同盟」の攻撃を完膚なきまで叩きのめすことはできなかったが、完敗でもなかった。(産業社会部教授会の闘いなど)なぜならその後闘われた他大学の差別事件では、解決策として、大学の講座の中に同和教育を入れることを認めさせられ、その講師は「部落解放同盟」から推薦や派遣されるという事態を招いたところがほとんどである。
  これを行政で言うならば、多くの市町村が、「部落解放同盟」の同盟員を優先的
                           ―183―
に採用するとか、「部落解放同盟」の方針を支持するものが幹部に登用され、政策が歪められ、例えば教育現場では運動会の徒競走が否定され、お手手繋いでゴールするようなことが生まれた。(注23)

注23:京都市は、同和地区住民の現業部門への雇用を同和対策の一環として    位置づけ、現業部門の選考採用にあたって同和地区住民を優先的に採用
   している。この結果京都市内の同和地区住民の内京都市に就職しているも
   のは約二千二百名。これは同和地区の全就業者のうち30%を占め、40歳以
   下では40%になっている。(1977年)(同和行政:64ページ)
     また、1983年1月19日京都市左京区養正地区体育館建設を巡って、元京
    都市改良事業室長・鳥居茂らによる公金詐欺(三億円)事件が明らかになっ
    た。
   
  公判では「同和行政上、必要な資金操作のためにやった」「当時、市は特別の業務について予算化も公表できない多額の支出が予定されており、職務上、その資金を捻出しなければならなかった(「部落解放同盟」側に渡した?)、―--これらの事情は市当局も土地開発公社の関係者も知っている」と陳述している(同和行政:154ページ)( )内は筆者が補記

  立命館の大学闘争は、基本的には学生自治会を「全共闘」などから取り返し、勝利したのである。「部落解放同盟」の指摘した東上高志のルポ「東北の部落」の決着は曖昧で、講師採用が取り消されたという点では敗北であったが(注24)それ以外は、例えば学生のサークルである「部落研」の解散などの馬鹿げた要求は跳ね返しているのである。

注24:立命100年史[「同和教育」の専任教員担当]1967(昭和42)年9月9日
    第393回大学協議会議事録(抜粋)
     末川議長から、本年度後期開催の教職科目「同和教育」の担当者として
    は、単元「社会保障と部落問題」については、経営学部坂寄教授、産業社会
    部真田(是)教授、単元「部落史」については、文学部衣笠専任講師がそれ
    ぞれの教授会において推薦された旨報告(中略)
      ルポ「東北の部落」を差別事象の問題としてとりあげたが、人事にはかか
    わらせないという考え方であった。東上氏を「同和教育」担当非常勤講師とし
    て委嘱しなかったのは、「同和教育」の講義を単元に分って各専門領域から
    部落問題にせまることにした。(後略)

                            ―184― 
  立命館大学としては公式には、「部落解放同盟」の要求に基づき東上高志を不採用にしたのではないと主張している
   
 鈴木元氏の総括は、単に警察権力を利用して、「全共闘」を学園から追い出し入試ができたという、立命館の当局側の視点のみの総括に終わっている。それは、自分が52歳で立命館大学に採用された正当性の主張のための大学闘争の総括にしか過ぎない。
 この立命館大学の闘争は、日本の民主主義運動の未来を切り開くものとして極めて重要な闘いであった。にもかかわらず、この運動を指導していた張本人がこれだけ重要な闘いであったことを理解していなかったという事は、お笑いでしかない。鈴木元氏の運動論は「全共闘」の批判そのものであり、立命館闘争を闘った多くの学生や教職員を侮辱するものでしかない。(注25)

注25:以下の文書は「全共闘」のビラからの抜粋であるが、鈴木元氏
   の述べる学生運動論であれば、この指摘が案外当たっている気が
   する。
 
<6・13立命館闘争勝利大報告集会! 立命大全学共闘会議>
 全立命の全ての学生院生教職員諸君!全京都の労働者学生高校生市民諸君!全共闘圧殺のみを狙った三度にもわたる権力機動隊の導入、国家権力 ─学内暴力集団=日共民青行動隊による大学武力制圧、かかる暴力支配を唯一の存立基盤とする武藤日共体制の露骨な確立、その下における辞任日共教員の無条件復帰、「講義」強行等々の「秩序」回復策動の全面開花。そして一方では、全共闘に対する許し難き告訴、反革命テロル・リンチの公然たる横行という形で、立命館闘争は、当局=日共の片手に「改革案」というアメをもち、片手に反革命暴力支配の強化というムチによって、闘争勃発以前の反動的姿が再び擬制的によびもどされようとしている。

 このビラの内容は、立命館大学の学生運動を、学生不在の「当局=日共」と「全共闘」との闘いに矮小化し、あたかも政治的対決が運動の本質のように描いている弱点はあるが、「『秩序』回復策動の全面開花」、「闘争勃発以前の反動的姿が再び擬制的によびもどされようとしている」という指摘は、学園の「民主化」でなく「正常化」を掲げた鈴木元氏の学生運動論をまさに言い当てている感がある。鈴木元氏の学生運動論は、立命館大学での自分の立場(総長理事長室室長)の正当性のため語るから、「全共闘」と同じく、当時の学生の姿が全くなく、薄汚れた理論となる。
                    ―185−

第二章 京都の民主勢力と「部落解放同盟」


はじめに

 
 鈴木元氏のあの当時の学生運動の総括が、京都の民主運動全体の中で総括されていない弱点に気が付き、第三部「第一章 鈴木元氏の学生運動論」(本文:148ページ)で、当時の情勢の中で学生運動を総括できず、自らの正当化のためのみ学生運動を利用しようとしている」とういう項目を起こし鈴木元氏の学生運動論のおかしさの批判を行った。
 それを書き上げてみて、やはり京都の民主運動の中で「部落解放同盟」の果たした役割をもう少し書いた方が、「再生を願って」の批判には必要ではないかと思い、鈴木元氏の「京都同和行政批判」という本が読みたくなった。さっそくインターネットで検索し購入して読んでみてびっくりした。この本はまともである。鈴木元氏は自分の立場・立場で自由にものを書くことが出来る天才だと気が付いた。
 この章では、鈴木元氏の「同和行政批判」の立場を基本的に支持し、その立場から見れば、「立命館の再生を願って」は、全く違った立場から書かれていることを実証しようとしている。
 そこで、私のこれまでの文書(第三部第二章まで)と、言葉の定義が異なるものがある。以下その例示をしめしておきたい。
 ここまでの文書では、朝田善之助氏が率いる部落解放同盟を「部落解放同盟」としていたが、この章では「同和行政批判」、の引用の際は、「朝田解同」あるいは「朝田一派」または「解同」と呼んでいる場合が多々ある。
 また三木一平氏率いる京都府連に対しては、三木府連と呼んでいたが、「全解連」(注1)あるいは、「『解同』府連」と呼ぶ場合がある。なぜならばこの章では鈴木元著作の『同和行政』からの引用が多く有り、引用にあたって、原文に忠実であるためである。

注1:「全解連」とは部落解放同盟内部において、同対審答申の評価
   などを巡って内部で見解が別れ、大阪府、京都府、岡山県、山口
   県などの解放同盟支部が1970年6月、部落解放同盟から追放される
   形で分裂・結成した部落解放同盟正常化全国連絡会議(正常化
   連)が前身である。

 1976年、この「正常化連」が改組する形で「全国部落解放運動連合会」(「全解連」)が部落解放同盟とは完全に袂を分かつ形で結成された。

                    ―186−

1.「部落解放同盟」は京都でどのような役割を果たしたのか


(1)鈴木元氏の「同和行政批判」の原稿執筆時期と出版の経緯

 この本の発行年月日は、2007年3月30日である。鈴木元氏が立命館大学の総長理事長室室長で活躍している時期である。さらに一時金問題が発生し、退職慰労金問題が顕在化する直前である。しかしこの「同和行政批判」は非常に優れた本として出来上がっている。最もこれは鈴木元氏の過去に発表した文書を再編集した物であり、第一章「京都の同和行政のあり方について」が1981年、第二章「京都の同和教育行政を批判する」が1987年、第三章「京都におけるエセ同和行為とそれを生み出した政治構造」が1987年、第四章「同和施策、いま『継続か終結か』が問われている。」が1996年書かれた論文である。すべてが立命館大学に就職前に書かれた論文であり、共産党京都府委員会専従職員としての立場から書かれたものと思われる。
 この本の「発刊にあたって」では、この辺のことを「連載原稿の草稿を毎回、「全解連」の複数の幹部にも見せ、何回となく議論した。そして同和問題と「全解連」に理解のある人間の個人論文という形式で発表するとの了解を得て発表していった。 
 もちろん「全解連」が組織として了解したということでなく、「全解連」の幹部の一人としての了解であったが、私と彼等の間ではむしろ理解が深まっていった。」(同和行政:9ページ)と書いているが、この論文の掲載が第一章、第二章が京都民報社、第三章が部落問題研究所、第四章がかもがわ出版であり、この内容は共産党京都府委員会も了解していた文書だと思われる。
 第四章が、かもがわ出版であり、しかも1996年というのも面白い、この年の12月には立命館大学に鈴木元氏は就職しており、その前の就職先はかもがわ出版であったから、かもがわ出版での最後の仕事ではと思われる。
 (インターネット上では、この文書を書いたのは鈴木元氏でないという批判もあるが、それについては全く分からない。)

(2)「同和行政批判」の主張は全面的に賛成であるが、疑問が残る。

  =立命館大学に対する「部落解放同盟」の攻撃が語られていない=

 鈴木元氏はこの本の中で「部落解放同盟」が京都の民主運動を如何に破壊していったかを相当克明に書いているが、その最初の闘いであった立命館闘争に触れていない。この「部落解放同盟」の本質が初めて暴露された最も重要な立命館大学の当事者(学振懇の学友会側の実質的代表者)が一番彼らの蛮行を詳しく解明できたはずなのに、なぜこれに触れたくないのかが最大の謎である。
 彼は「発刊にあたって」の中で唯一「1966年から1967年にかけて、全国で始
                  ―187―
めて「部落解放同盟」が立命館大学に攻撃をかけたことに端を発し、「部落解放同盟」のやり方に賛成できず、それと闘うことになった。」と触れているが、「部落解放同盟」の立命館大学に対する蛮行を具体的に描いていない。
 「同和行政批判」では、「第四章 文化厚生会館問題等」として取り上げ「1965年12月の部落解放同盟京都府連大会で、朝田氏が主張する部落解放の運動論を批判していた三木一平氏が委員長に選ばれると、朝田氏らは、1966年1月に分裂大会を開催、そして『部落解放同盟』中央の名で『朝田委員長の府連を正当とする』決定を行った。『部落解放同盟』は、1966年1月22日文化厚生会館を襲撃し、『自分たちが正当な府連』と称し、三木一平氏を委員長とする部落解放同盟京都府連(今日の全解連京都府連の前進)の幹部を追い出し、京都府連事務所を占拠した。さらに、それにとどまらず『研究所』や『全同教』の人々も追い出し、全会館を不法占拠するという蛮行をはたらいた。」(同和行政:54ページ)と書いている。(注2)

注2:「研究所」は、「公益社団法人部落問題研究所」の略称、日本
   の部落差別問題研究団体である。奈良本辰也氏や東上高志氏が在
   籍した組織である。
   「全同教」は、「全国同和教育研究協議会」の略称で、(1953結
   成)被差別部落の教育条件の改善を主要目標に掲げ、教育の民主化
   を目指して闘った運動団体。

(3)立命館大学は、「部落解放同盟」の糾弾闘争とどう立ち向かったか

 「部落解放同盟」が行った立命館大学に対する糾弾闘争は、1966年5月23日の「部落解放同盟」京都市協議会からの申し入れを末川博総長宛てに行ったことから始まる。
 「考える会」のニュース39号(参照:資料12)ではこの糾弾闘争の状況が生々しく再現されている。

@立命館100年史の編纂について(「部落研」の主張等が削除されている)
 すでにこの点については、(本文:105ページ(3)朝田理論を批判した「部落研」の指導者「H」氏の実力。)で述べた。
 我々「部落研」の立場から発言させてもらえるのであれば、「部落解放同盟」からの「部落研」の解散要求を跳ね返した実績の評価がされるべきである。「部落解放同盟」からの攻撃はあったが、「部落研」は一切の動揺がなく、むしろ団結を固め跳ね返した。その後の「部落解放同盟」の糾弾闘争が他大学に行われ連戦連勝していったことからみれば画期的なことであった。
                  ―188−
A産業社会学部の奥田教授は、「我々の『見解』こそが正しかった。」
「立命館100年史」は東上問題発生の際の産業社会部教授会の取った行動に対して批判しているが、奥田教授は、「我々の『見解』こそが正しかった。」と主張されている。以下その内容を見てみる
 立命館100年史によると、1967(昭和42)年8月22日付けで、立命館大学側から部落解放同盟中央執行委員長宛に末川書簡を出している。
その中で、「本年5月以降本学が招いた事態に、産業社会学部教授会が中間的に出した5月2日付けの「見解」の内容が一定の影響をもったことを否定し得ない。」という記述がある。
 しかし、この「産業社会部の見解」は中間的見解であり、内部資料であって公開されたものではなかった。それを文学部のN教授が不当に持ち出し、「部落解放同盟」側に持ち込んだものである。この「見解」がこのような不正な手段で持ち出されたことを問題にせず、さらには結果的には正しい主張であったにもかかわらず、当時の誤った判断のまま、「立命館100年史」に公表された。
 奥田教授は、「考える会」ニュース39号で、「大学の自治をまもるとの一点では『部落解放同盟』の不当な要求を跳ね返したという誇りを持っている。立命館も今日の時点にたって産業社会部の『見解』を再評価すべきだ」と主張されている。

(4)「部落解放同盟」の京都の民主勢力の中での位置づけ

 「同和行政批判」と「再生を願って」とでは、「部落解放同盟」の京都の民主勢力の中での位置づけに違いがある。これは、「同和行政」出版にあたって共産党京都府委員会及び「全解連」の事前点検があったからであろうと思われる。
 「再生を願って」では、鈴木元氏は「部落解放同盟」の蛮行を捉え、「住民運動=善」、「国家権力=悪」と言う捉え方が時代遅れになった。このことは末川博先生も気付いていなかったと、自画自賛し、アジア太平洋大学(APU)の工事に入った際、革新系の市民団体が反対運動を起こしたことを、『住民運動=善』という単純な認識がこの大学にあったことは否めないと語り、住民運動は=善と言う幻想を打ち破り権力行使を行う路線を取っていった。(参照:資料4)
 つまり鈴木元氏は「部落解放同盟」を利用し、住民運動必ずしも善であるとは限らないまでならまだ許せるが、さらに理論を発展させ「権力が必ず悪でない」と主張して権力にすり寄っていく自分の姿の合理化に「部落解放同盟」の蛮行を利用した。
 ところが20年から30年以上前に書かれた同和行政では、この「部落解放同盟」を京都における革新統一戦線破壊の為に、自民党などの保守勢力に取り込まれて
                   ―189−
行った。つまり権力に育てられた物取り主義集団と決めつけている。
 この二つの捉え方は決定的に違う。「再生を願って」では、「住民運動=善」は間違い、「同時に国家権力=悪」も間違いとしてしまい、階級的視点を投げ捨て、何が善で何が悪かを分からなくしてしまい、鈴木元氏の現在の立ち位置が「善」だという身勝手な理論を打ち立てたご都合主義な考えを述べている。
 これに対して、「同和行政」では、敵権力側が高等戦術を使いだした。民主勢力の中の弱さに目をつけくさびを打ち込んで来た。同和対策審議会が1965に答申を出し、1969年から実施される段階で、行政闘争を強めれば物が取れるという事を「部落解放同盟」に見せつけ、日本国民全体の統一戦線の中に「部落解放の課題」を位置付けようとする共産党から、「部落解放同盟」を引きはがし、統一戦線を破壊し、日本における民主主義的闘争のつぶしにかかってきたと書かれている。
 鈴木元氏は自分の立ち位置を権力側に置くために「部落解放同盟」の蛮行を例にして意識的に「住民運動=善」、「国家権力=悪」と言う考え方には落とし穴があるという倒刹論を打ち立てた。しかし、彼は共産党京都府委員会専従の時は、明らかに「部落解放同盟」を敵権力の回し者、国家権力が泳がせていると捉えていた。

 ここに鈴木元氏の大きな裏切りがある。「部落解放同盟」については公知の事実、国家権力の「泳がせ政策」(注3)を、適当に自分の都合のよいようにつくりかえ、末川博先生もこの本質に気が付いていなかったと主張し、自らが最大の民主主義の旗手のような顔をしているが、既に民主勢力から逃げ出した人であることをこの珍論を主張することで自ら語っている。

注3:「反動勢力は部落解放運動に現れた反市民的な利権行動に対し
   て、批判する日本共産党と容認する態度をとっていた社会党の矛
   盾に目をつけ『社共共闘』の分断、革新自治体解体のために「解
   同」などの無法と利権策動を泳がせた。」
    「1980年代中期になって、全国的に革新自治体が崩壊、『社共共
   闘』解体がほぼ決定的にとなり、反動勢力は保守勢力からも批判
   が強かった『解同』泳がせ政策を改め、また歪んだ同和行政の是
   正に乗り出した。しかし、選考採用などによって行政の内部に膨
   大な『解同』人脈が構成されており容易なことではなかった。」
   (同和行政212ページ)

(5)権力の手先となり民主勢力の分断に果たした「部落解放同盟」の役割

 この確認が最も大事であり、このことを抜きに立命館大学闘争は語れない。鈴
                    ―190−
木元氏は、このことを百も承知なのに、このことに口を閉じて立命館大学闘争を総括している。
 それでは鈴木元氏の出版した本である「同和行政」を引用しながら、「部落解放同盟」の果たした役割を見ていきたい。(この点については186ページ「(2)「『同和行政』の主張は全面的に賛成であるが、疑問が残る。」ですでに述べた。)
 ここでは、その内容を年表形式で説明する。
年月日 事件等 説明
1960年60年 安保闘争 日本史上で空前の規模の反政府、反米
運動とそれに伴う政治闘争である。
1965年8月11日 同対審答申 「国民的な課題」であり、「国の責務
である」
1965年12月 解同京都府連大会 三木一平氏委員長に選出される
1966年1月 朝田府連結成 中央本部朝田府連を認める
1966年5月23日 朝田解同申し入れ 立命館大学:ゆるしがたい差別
1967年1月22日 文化厚生会館襲撃 三木一平氏らを暴力で排除
1967年7月 立命館糾弾闘争 産業社会部教授会等
1967年 解同京都府連(朝田) 京都府職労糾弾
1967年 解同京都府連(朝田) 京都教職員組合糾弾
1967年9月14日 学振懇(民主化
後)
「部落解放同盟」への屈服と学友会が
批判
1967年 富井革新市政誕生 統一の課題:同和問題は保留
1969年 「矢田事件」 これを踏絵に組織の改編を図る。(糾
弾闘争が他府県にも波及していく)
1969年 同和対策事業開始 10年間の時限立法
1971年 舟橋革新市政実現 日本社会党と日本共産党の推薦
1975年 舟橋市政2期目 自民が参加
1978年 林田自民党府政 蜷川府政が敗れ、府政と解同癒着
1979年 市長選相乗り 自民・公明・民社は1975年から3回の
1983年 市長選相乗り 市長選で相乗りし変質をはかった。
1985年 今川市長 共産党絶縁宣言

 この年表から分かることは、「部落解放同盟」の立命館大学に対する攻撃が、たまたま東上高志ルポ「東北の部落」があったから立命館大学に攻撃を仕掛けたのではなく、朝田善之助という稀代の天才が、同和対策答申を受けて、これから同和対策事業が行われることを見越し、この利権を一手に手に入れるため、三木一
                ―191―
平氏の主張する日本の全体の「民主化」の中で部落問題の解決を図るというようなまどろこしい方針よりも、部落問題に特化し、差別されてきた我々は、国から施策を受ける権利があるという闘争の方が自分たちに取って有利だと判断し、民主主義を求める統一戦線から自らを切り離し闘うことを宣言したのが立命館に対する攻撃の真相である。
 おそらく権力側から、朝田氏に社共の統一戦線を破壊してくれれば、貴方たちの要求に答えていく用意があるとの誘いを受けていたのだと思われる。(注4)

注4:この間の事情について、全解連大阪府連の生みの親の一人である和島為 太郎氏は、「『同対審答申』はわしら(部落民)の問題を部落と一般というかたちでとらえている。排外主義が底に流れてんねや。それに便乗して、わしらと部落外を分裂させるために同和対策を打ち出したんや。わしは、警察がわしらを懐柔しながら、一般との分裂をはかるために肚に一物ある職務執行をしてるいうことがようわかった。自民党が暴力学生を泳がせて、反共攻撃と民主勢力の分断に利用したのは安保闘争のときやったが、これと同じ期待を政府は朝田君らに懸けてんねや。そこにわしはこの問題の謎を解く鍵がある思う」
それに応えて、車(三谷秀治?)は、「部落の要求をある程度受け入れながら、『解同』をいっそう右寄りなものにつくりかえていって、解放運動全体を官制のものにしようと狙てんねや」また、「『同対審』の運動側の代表者であった北原泰作さんの話では、『共産党とさえ手を切ってくれるなら同和対策に金はいくらでも出そう』という誘いが、いろんな筋からあったということや」「もちろん北原さん(水平社創立時からの運動家)は耳をかさんかったが、朝田善之助がこれに乗ってしもたということや」という会話が書かれている。(「火と鎖」和島為太郎伝 三谷秀治著 438ページ)
 ★参考1:三木一平氏が率いる京都府連書記長塚本景之氏の
「朝田理論」は
 「京都の部落解放運動をどこへ導いたか」があります。(参照:資料17)この文書の中には、「立命館大学に対する暴挙」もあります。


(6)この辺の情勢(経過)を鈴木元氏はどのように語っているか

 「同和行政」では、「第三部 京都におけるエセ同和行為とそれを生み出した政治情勢」の「第二章 同和対策事業特別措置法の制定と『解同』の変質」に以下の文章がある。
 「戦後の民主主義の高揚を受けて部落問題も新しい段階に入り、1965年に同対審答申が出され、1969年には財政的裏付けをもった事業法である同和対策事業特別措置法が施行された。ここに同和事業は、国の特別法に基づく、財政的裏付け
                  ―192−
の下に行政施策として行われる新しい段階に入った。」(同和行政:161〜162ページ)として以下のような分析を行っている。

1.同対審答申の歴史的背景を、戦後の民主主義の高揚を受けて、日本の民主運動が部落問題の解決を政治の課題として位置づけさせる段階に到達したこと、そういう国民的合意が得られる状況になったという点で画期的であった。
2.同時に、同対審答申と同特法の制定は「部落解放同盟」の変質をもたらす「分岐点」ともなった。
3.朝田善之助をはじめとする当時の「部落解放同盟」一部幹部は、この同和行政(同和予算に目をつけ)、同対審答申、同特法の手前かってな解釈を行政当局に押し付け、同和行政に群がった。
4.彼等は、「部落解放同盟」内部からこれを批判するものを排除していった。
 ★京都においては、1965年に少数派となった朝田一派が「解同」朝田府連をデッチあげ、さらに、1966年には部落問題研究所の文化厚生会館を襲撃し、部落問題研究所ならびに「解同」(三木)府連などを追い出し占拠、私物化するという暴挙を行った。(カッコ内は筆者が補記)
 ★全国的には、1969年「矢田事件」(注5)を起こし、これを踏絵に、「解同」、の分裂、変質を決定づけた。その後、彼らが部落排外主義にもとづき、全国の自治体行政当局に無理難題を押し付けた。
5.また社会進歩、部落問題の正しい解釈の立場から、彼らの部落排外主義、利益主義を批判する日本共産党を「差別者」として攻撃する反共・利権集団に転落していった。

注5:1969年、大阪市住吉区の中学校に勤務する教諭が、大阪市教職
  員組合の役員選挙に立候補した際の挨拶状を、部落解放同盟矢田
  支部が差別文書であるとして糾弾を決定。同教諭と関係者に過酷
  な糾弾をおこなった。

 この「同和行政」を書いた時の鈴木元氏の主張はすべて支持する。しかし「再生を願って」では、全く違った主張になっている。
 自らの利益のために京都の民主勢力の分断を図った「部落解放同盟」の蛮行の端緒である立命館大学に対する「攻撃=糾弾」が、実は末川先生とあらかじめ打ち合わせて行われたように描かれている。(本文:123ページ「2.川本八郎独裁体制を支えた四つのキーワード(鈴木元氏が行った事)の第二のキーワード『東上問題』で末川博総長を朝田氏の手先と描き出したこと」で詳しく述べた。)
この彼の立場は京都の民主勢力の統一戦線を守り発展させる立場からの発言
                   ―193−
でなく、「部落解放同盟」の狙った民主主義の分断に手を貸すものである。

 鈴木元氏の現在の行動は、「部落解放同盟」の利権獲得ための闘い方、詭弁の弄し方を学び、自らの立命館という優良経営の会社の利益にありつくために利用する最後のあがきに見える。
それを実現するために書かれたのが、「再生を願って」という本の狙いでにあると思われる。


2.朝田理論がもたらした数々の罪悪(補論)

はじめに

 ここまで書いたら、朝田理論の果たした功罪、取り分けて「罪」についてもう少し立ち入って書きたくなった。ほぼこの理論は克服されたと思っているが「セクハラ論議」や朴槿恵大統領が、三一節(独立運動記念日)記念挨拶で「加害者と被害者という歴史的立場は1000年が過ぎても変わることは出来ない」「日本は、(韓国の)同伴者になるには、歴史を正しく直視する責任ある姿勢を持つべきだ。」と主張し、「日本政府は積極的な変化と責任ある行動をしなければならない」と言う発言の中に朝田氏の思想の片鱗が読み取れる。
 この演説は、加害者と被害者という関係で日韓関係を位置づけ、その関係は1000年が過ぎても変わらないとしている。朝田氏が指摘した差別するものと差別されるものと国民を二分し、何が差別であるかの決定権は部落民にあり、差別撤廃の闘いにおいては、一緒に闘おうとする者も単なる同伴者(随伴者)に過ぎないとしてきた論理に近いものを感じる。
 この論理の中では日・韓の友好的な発展はどのような形で行われるのか見えてこない。もしこの朴槿恵大統領の発言が、日本からさらなる賠償金をせしめることを目的としているなら、朝田理論に極めて近いと言わざるを得ない(注5)
 (ただ安倍首相による日本の右傾化という状況下の発言ではあるが)
 これに対して過去の中国は、1972年、日中共同声明発表翌日の『人民日報』は、「中日関係の新たな一章」と題する社説を掲載した。また、戦争の責任は日本の軍国主義者にあり、一般の日本国民もまた被害者であるとの中国政府の立場がここでも明らかにされている。という主張を載せた。これが正しい立場だと思われる。

注5:在日作家 金石範さんの講演を「部落とは何か」藤田敬一編の
  中で住田一郎氏(「部落解放同盟」大阪府連合会住吉支部支部
  員)が紹介されている。その部分を引用すると
   「在日朝鮮人と日本人の連帯について」という演題で、「日本
  人と在日朝鮮
                   ―194−
人が連帯する上でいちばん大きなネックは、日本人の中にある在日朝鮮人に対する贖罪論である。1910年から1945年まで36年間、日本帝国主義は朝鮮を支配してきた。そのツケをずっと負わなければならないということで、良心的な人であればあるほど贖罪論を持っていた。
 「贖罪論を仲立ちした関係で、一方は跪いている。その関係のなかで人と人との対等な連帯ができますか」と彼は主張した。

 「加害者側」に位置づけられた我々がこれを言うと居直りだと指摘されてしまいそうだが、この論理こそが、朝田氏の差別論(被害者、加害者論)を乗り越える論理だと思われる。住田氏の部落問題に対する取り組みはこの思想の延長線上で語られていると私は見ている。(彼は大谷大学の「部落研」の仲間であった。)
セクハラについては、(2)のセクハラ議論と朝田理論で述べる。

(1)民主勢力の中での朝田氏の主張の位置づけ・・・旧社会党の弱点


 =朝田氏と真っ向から戦わなかった末川博先生は、朝田氏と通じていた?=

 また、「同和行政」の「第三章 富井、船橋革新市政の誕生と社会党の弱点」で、「京都においては『部落解放同盟』の変質、分裂が全国的となる1969年より前の1967年に富井市政が誕生した。この時点で京都レベルにおいては、先にのべたような朝田一派の変質は明瞭であったが、全国的には民主運動内における偏向の表れを批判し、克服するという段階であった。そのため、社会党も入った『明るい民主市政の会』の政策協定において、日本共産党は『部落解放同盟』に対する窓口一本化をはじめとする不公正な同和行政是正の課題を主張したが、社会党が反対したため不一致点は外すということで政策協定には入れられなかった。また、組織協定においても『分裂したいずれの側も入れない』という措置がとられた。」と書いている。(同和行政:163ページ)
 この鈴木元氏の主張は重要である。この時点で京都レベルにおいては、先にのべたような「朝田一派の変質は明瞭であったが、全国的には民主運動内における『偏向の表れを批判し、克服する』という段階であった。」と彼は書いている。
 なぜ重要かは、彼は「再生を願って」では、立命館に対する攻撃は、朝田氏と予め末川博氏とで話がついていた(出来レース)と末川博先生を誹謗し、「部落解放同盟主催の第一回部落解放研究会で末川博先生が記念講演を行ったことと、1969年に発行された朝田善之助著「差別と闘い続けて」(朝日新聞社)の帯に推薦の言葉を寄せている」ことを証拠として挙げているが、朝田氏が民主勢力の敵対人物だと全国的に認識されたのは、もう少し後のことであった。したがって末川博先生にも当時はまだその認識がなかった。「同和行政」の中では、鈴木元氏
                  ―195―
自身が、朝田氏の差別論、運動論を民主勢力の中で克服するには時間がかかったことを認めている。
 このことからも、末川博先生が朝田氏と予め話がついていたという、鈴木元氏の主張は悪意に満ちた独断であることが分かる。
朝田氏の差別論は部落排外主義であった。しかし「部落の人が差別と言えば差別だ」と言う主張は、ある意味では説得力を持っており、この理論が極めて危険な理論であることを見抜くには時間を要した。(注6)たとえばセクハラ問題でも、未だに朝田理論そっくりな理論が主流を占めている。しかもその主張をしている人は、そのことに何も疑問を感じていないのが現状である。

注6:その当時の部落問題の入門書には、部落と言われる地域に入っ
  て地域の現実から学ぶことが最も大切とされていた。たとえば地
  域の子どもは仲間意識があり優しいとか、地域にこそ本来の人間
  の姿がある。と主張されていた。 

 私なども中学時代に体験的に地域に入り、大学時代は、週3回は地域の子供会に参加して、「地域の実態から学ぶ」を大切にしていた。また夏休みは、京都府下の農村へ入り子供会を組織してきた。部落問題の取り組みは、部落の人に寄り添いそこから学ぶことが原点であった。(この点を藤田敬一先生は、随伴者でなく、お互いに乗り越えることが大切と言われているのだと思っている。)
これを基本にしていた人間が、「部落解放同盟」が間違っているとは、なかなか踏み出せなかった。この考え方(思想)が多くの人を捉えており、その本質を見抜くのに時間がかかったのではないかと思っている。

(2)セクハラ議論と朝田理論

 「セクハラ問題」では、職場では「セクハラ」だと女性が声を挙げれば、それが認められ、名指しされた者は処分されるという傾向がある。私が勤務していた市役所には出先機関がたくさんあるが、そこで、管理職は館の環境整備の仕事を引き受けている場合が多かった。例えば、敷地内の雑草を抜いたり、植栽の剪定をしたりする仕事を行って館の維持管理に努めていた。
 そして夏に館の外回りの環境整備を行い、汗だくになって部屋に帰り、ワイシャツを脱ぎランニング姿になっていたところ、これを見た女性職員がセクハラだと訴えた。これがセクハラと認定された。
夏の暑い時期に、管理職が館の美観の維持などおよそ管理職の仕事とおおわれない業務を行い、第一線で働いている職員の負担軽減を図っている点が考慮されず、汗だくになり、汗を抜くためワイシャツを脱いだからセクハラだという認定
                  ―196―
には私は納得いかない。女性職員が不快に感じたという主観が、その認定に決定的要素になっている。私は、これは「部落解放同盟」の理論「部落にとって部落民にとって不利益なことは一切差別だ」、「部落の人間が不快に感じれば差別だ」(注7)という主張の焼き直しだと思っている。それぐらいこの問題は難しい議論だと思っている。

注7:部落の人が不快に思えば差別との事例は、四日市の祭りのポス
  ターの事例「よっ」という掛け声、あるいは、ちあきなおみのヒ
  ット曲「四つのお願い聞いてよね」をすでに示した。(本文:181
  ページ)の注20参照

(3)末川博先生の弱点はあの当時の民主勢力全体が持っていた弱点を共有していたにすぎない。

 「部落解放同盟」が立命館に攻撃をかけた際も、「差別でもないものを差別」と言ったが、民主勢力の内部の多くの人は、その運動を担っている人が「差別」だと主張しているのだから「差別であろう」、自分は、個人的にはしっくりいかないが、当人たちが「差別」と言っているのに、それを「差別でない」と反論すれば、差別者としての烙印が押され、今後研究者として生きていくことが出来なくなる恐れがあると思い、しぶしぶ「差別」を認めたと思われる。
 ニュース39号(参照:資料12)で、須田 稔教授はこの辺の心の動きつまびらかに明らかにされており、その当時の先生方と心情が分かる貴重な史料である。
 この記録は、「部落解放同盟」の糾弾に参加した多くの教職員の気持ちを代表していると思う。この無法な暴力集団とここで闘うことは必ずしも正しくなく、口惜しさは残るが、この時点の対応としてはこれで「仕方がなかった」と思われる。
 何が言いたいのか、それは鈴木元氏が末川博先生はあらかじめ朝田氏と打ち合わせを行い立命館を攻撃させたと主張しているからである。確かにあの時点で末川博先生が朝田善之助氏の攻撃に一歩も引かず、戦っておれば、その後の情勢は変わったかも知れない。しかし末川博先生という老学者にすべての責任をかぶせるのは酷である。末川博先生の弱点はあの当時の民主勢力の多くがが持っていた弱点を共有していたにすぎないのである。

(4)朝田理論の差別論を行政などが克服できるようになったのは

 行政もマスコミもすべてが朝田理論に屈服してきた歴史がある。これを本格的に打ち破ったのは、2006年の飛鳥会事件、「部落解放同盟」の支部長を兼任する財団法人飛鳥会理事長が業務上横領と詐欺で大阪府警に逮捕された事件。奈良で
                 ―197−
の解放同盟員の就業実態が明らかになったことが大きかったと思っている。(注8)

注8:@社団法人飛鳥会は財団法人になると共に、1974年以降、同和
  対策事業の一環として大阪市の外郭団体から西中島駐車場の運営
  を独占的に業務委託されていた。1983年からこの飛鳥会の理事長
  を務めていた小西邦彦氏は、(山口組系金田組の組員であり「部
  落解放同盟」飛鳥支部の支部長でもあった)年間2億円の収益を
  7000万円に過少申告し、差額を横領することにより不正な利益を
  得ていた。その他、小西邦彦氏は2003年9月、大阪市立飛鳥人権文
  化センター(旧・飛鳥解放会館)館長と共謀して山口組系暴力団
  の元組長らのために健康保険証7枚を不正取得していたことも発覚
  した。不正に得た収入の使途は、小西当人の趣味のコインや紙幣
  の収集、スポーツ・国技観戦、自分のために作った総檜の豪華な
  棺桶の支払い(470万円)、年間1億円と豪語していた飲み代、愛
  人に渡す生活費(月額30万円)などであった。
  
 これに対して「部落解放同盟」大阪府連は、2006年12月、新聞各社の大阪本社に公開質問状を出した。飛鳥会事件の報道について「差別を助長、再生産」したと非難し、「これほどまでに大きな紙面を割いた理由は何か」とと問い糾した。
 産経新聞は「飛鳥会事件についての報道で、影響が出ているとするならば、根本的には、差別解消に取り組む団体の支部長がその肩書を悪用して犯罪行為を行い、組織もその支部長の不正を、結果的に長年にわたって放置していたことが、差別解消に向けた取り組みに大きな影響を与えているということではないでしょうか」
 「支部長という立場の人間が、反社会的な私利私欲による犯罪行為や組織の肩書を悪用して巨額の利権を得る行為を行ったことは、市民や、部落差別解消に向けて真摯に取り組んでいる人々をも裏切る行為であり、十分なニュース価値があると判断しました。組織内部の要職にあった彼が行った行為こそ、差別を撤廃する側ではなく、間違いなく差別を助長、再生産する側にあったと考えます。厳しく社会的に指弾する報道をすることは当然のことであると考えます」と回答した。

A2006年奈良市役所で発生した「奈良市「部落解放同盟」員給与不正詐取事件」とは病気を理由に休み続け、5年9カ月の間に出勤8日で給与を満額受け取っていた奈良市役所男性職員(42歳)の他に、同じ環境整備部に所属す
                    ―198−
る男性職員4人についても休暇と休職を繰り返しながら給与を満額受け取っていたことがわかった。市役所自らが「(不適切な勤務職員は)他にも存在しているのではないか」と話しており、不正はこの部署だけでなく、市全体に拡大しそうだ。
「この職員が頻繁に市の建設部などに出入りしていたほか、「部落解放同盟」奈良市支部協議会副議長として、部課長らとのセクション別交渉や担当課との協議など、公式の場にたびたび出席していたことが分かった」という報道があり、男性職員は実は元気で、ほかの仕事をしていたことになる。
 しかも、高級外車の所有が目撃されている。J-CASTニュースが奈良市役所人事課に聞いたところ、担当者は、「休職中に市役所に白いポルシェで来ていたのを何人もの職員が見ています」 と証言した。

 これらの事件について、京都産業大学教授の灘本昌久(2000年から2004年まで京都部落問題研究資料センター所長)は、たとえば「飛鳥会問題」は、「部落解放同盟」の支部長が駐車場の使用料(年間数百万円)を着服していたばかりでなく、顧客獲得で学校教育現場に食い込みたかった銀行と持ちつ持たれつの関係をつくりながら、暴力団に数十億を融資させ、それが三十億円以上(一説によれば五十億以上)焦げ付いたというものである。また、奈良市では、市職員であった「部落解放同盟」の幹部が、十数年間にわたってほとんど仕事をせずに、市役所内を徘徊して談合や職務強要を重ね、妻の経営する建設会社に仕事を受注させた。
 今回明らかとなった不祥事の問題点は、こうしたことが引き起こされたこと自体もさることながら、それらの事象が長年多くの人に認識されていながら、放置されてきたことである。たとえば飛鳥会事件の小西邦彦氏は、一九八五年の暴力団抗争で射殺された組長に、愛人用のマンションを提供していたことが明らかとなり、事件後、「部落解放同盟」大阪府連の委員を辞任したと聞いていたが、よもや支部長として居座っていたとは、開いた口が塞がらない。(注9)便所の差別落書きでさえ、その施設管理者の責任を「差別体質」として厳しく追及してきた運動団体ならば、自らの「腐敗体質」として猛省・改善してもらわなければならない。(灘本昌久「部落解放の新しい道」、「部落解放同盟」に近い側からも公然と批判が出た。)
 
 この記事には灘本氏の解説がついている。彼によると「以上の文章は、1年前の2008年1月に、ある新聞社 の依頼で書いたものであるが、その後、ボツになったものとみえ、音沙汰がない。捨てて しまうのももったいないので、ここに掲載しておく。」と書かれている。これだけの事件がおこってもま
                   ―199−
だ、彼の記事の過激さに驚いた新聞社があったことが分かって面白い。それほどまでも「同和問題」はタブーであった。

注9:1985年1月27日に四代目山口組組長竹中正久が愛人宅で射殺され
  た時には、小西氏が現場となったマンションの名義人として浮上
  し、「部落解放同盟」大阪府連の委員を辞任。しかしその後も
  「部落解放同盟」から除名されることはなく、飛鳥支部の支部長
  として留任した。

 これ以降、マスコミは堰を切ったように、類似事件の報道を続ける。今まではこれらの事件がなぜ発覚しなかったのか、それは報道すれば「差別」だという言葉が返ってきて、マスコミや行政はそれに対抗できなかった。この報道を見た多くの市民はなぜこんなことが市役所でまかり通るのか不思議だと思われたと思うが、市当局、マスコミ、警察などが一体となって彼らの蛮行を見て見ぬふりをしてきた結果である。
 おそらく日本の国家権力は、日本における革新統一戦線を崩壊させることはすでに成功した。このまま「部落解放同盟」を泳がしておくことは、かえって自らの権力維持に役に立たないと判断し、「部落解放同盟」を切り捨てたと思われる。マスコミの対応が「奈良での職員の不正就労事件」、「飛鳥事件」を境に変化してきている。

(5)同和行政の見直しが多くの市町村で始まっている。

京都市の桝本市長は、過去に行っていた優先雇用の実情について、「運動団体に振り分けそれぞれが各支部に下ろす。各支部が諸般の事情を考慮し推薦する」と語った。
 そのうえで、「採用された職員の中には、市役所よりも運動団体に雇用されたと勘違いする人もいた。日常の服務指導に大きな影響を与えてきた」と答弁した。
 また、「運動団体にも一定の問題があったことは否めないが、市の主体性と責任が欠如していた」「不祥事を起こしたのはほんの一握りであり、多くの現業職員は誠心誠意、仕事に取り組んでいる」とも述べた。
 市総務局によると、同和地区住民への優先雇用は、生活改善や就労機会の保障などを目的に一九七三年に導入された。九五年度から段階的に縮小され、二〇〇一年度に廃止された。九五年以降の七年間で二百五十六人を優先雇用しているが、それ以前は「記録がない」(同局)としている。京都新聞 (2006年8月29日). 2010年10月16日
                    ―200−
 「同和行政」では同和採用枠で採用された職員数は、現在、京都市の同和地区住民のうち、京都市に就職しているものは2千2百名、これは同和地区全就業者のうち30%を占め、40歳以下では40%となっている(1977年)(同和:64ページ)
 明らかに異常な同和行政は収束に向かっている。私の個人的感想から言えば私が役所に勤めて辞めるまでのおよそ40年の月日が経過して「部落解放同盟」の唱えた差別論が部落の側から見れば、「功」もあったが、明らかに間違っていたことが、マスコミや行政も含めて共通認識になりつつある。
 この理論の克服に40年間も時間を費やした。長かった。この「部落解放同盟」を全面的に支持していた社会党は社民党と名前を変えていたが、ほぼ日本の政界での足場を失った。また社民党から多くの人が民主党に流れたが、その民主党も先の参議院選挙で再起不能の完敗を期した。

(6)なぜ朝田理論の克服に40年もの時間を必要としたか[1]

 その基本は国家権力を担っている者が、日本における民主主義運動の統一がなされその戦線が拡大することを恐れ、意識的に彼らを泳がせ利用してきたことに主要な原因があるが、同時に民主主義的な思考を持つ人の中に反共主義的な思想を持つ人も多くおり、「部落解放同盟」が共産党と敵対しているという事だけをもって評価する流れもあった。また良心的な部分の中には、差別されている人に寄り添って運動を行うことが最も正しいという思いから、「部落解放同盟」の行き過ぎがあっても、これは長い間差別されてきたことによる結果なのだから、彼らが悪いのではなく、差別が悪いのだという理論に引きずられる人も多くいた。
 私は行政の中でこの40年間を暮したが、本当に今の同和行政が正しいと思っている人に、出会ったことが無い。(自治労系の組合役員の中にはいたが、・・・これも組合の勢力闘争の観点から引きずられての発言かもしれない)にも関わらず、行政はなぜ40年間もこんな誤った政策を推し進めたのか。
 やはり行政には議会があり、議員たちの力関係が大きな役割を果たす。共産党以外は「部落解放同盟」の要求は不当だとの認識を持ちながらも、共産党だけが主張していることを正しいと認めれば共産党が伸びるという警戒感があったと思われる。
行政内部では、間違いと知りながら、これについていけば行政では出世できるという者が三分の一ぐらいおり、次に黙っている事、黙認することが自分の役所での生活が安泰に暮らせると思っていたものが三分の一ぐらい、他の三分の一位はこれではダメだと思って消極的抵抗を行っていた。その根拠は組合の役員選挙を行った際に、同和行政のゆがみを指摘した勢力に三分の一位の得票数があった
                   ―201―
ことから伺われる。しかし、多くは「さわらぬ神にたたりなし」であり、知らん顔を決め込んでいた。
 同和行政がほぼ終焉を迎えようとしている現在、議会内でも同和行政の縮小廃止は「不当だ!」「差別だ!」と主張する者は見つからない。(組織内議員は別だが)そういう意味ではほとんどの人が時の流れに乗っていたと思われるし、その流れは現在では、同和問題の終結に流れが変わっていると思われる。

(7)なぜ朝田理論の克服に40年もの時間を必要としたか[2]

 朝田氏の理論はなぜ40年間も人の心を捉えたのか。それは彼の主張した理論が、人間が持っている弱点をうまくついており、さらに暴力に対する恐怖も相まって彼の理論に公然と立ち向かうことが出来なかった。

 彼の理論の特徴は、
 @社会意識としての差別観念は、一般的普遍的に存在し、人は空気を吸うように受け入れる
 A「日常生起する問題で部落にとって部落民にとって不利益な問題は一切差別だ」と主張した。
 B市民的権利が「一般市民には保障されていて」部落住民には不完全にしか保証されていない」
 C世の中には差別する人と差別される人がいる。この差別する人は差別される人の気持ちが分からない。これを「足を踏んでいるものは足を踏まれている者の痛さが分からない」と言う言葉で表現した。
 D「ある言動が差別にあたるか否かは、その痛みを知っている被差別者にしか分からない」 (差別か否かの決定権は部落側に或る。)
  これらの論議をうまく兼ね合わせ、貴方は差別者であると糾弾して暴力的威圧も行いながら相手の人格を破たんさせていった。

 日本国憲法が保障する、言論の自由や、内心の自由にまで立ち入り相手を差別者であると追い込んでいった。この恐怖と立ち向かえなかったため(注10)に多くの学者や自治体の幹部や教職員は白旗を上げてしまった。それだけなら良かったが、「部落解放同盟」の論理に意識的に共鳴し自らの出世の道具に使おうとする人間が多く表れたことも悲劇であった。

注10:「同和はこわい考」の主筆者である藤田敬一先生(元岐阜大学
  教授)は、若いころから部落問題に真剣に取り組まれ、朝田氏の
  指導も受けておられた
                    ―202−
方だったが、自分が糾弾された時の思いを、「わたしは身体中が熱くなった。動悸がするのがはっきりわかった。暴力に対する恐怖だろうか、どうもそうとはいえない。自分の全存在が揺り動かされるような恐怖感とでもいえば近いかもしれない。おそらく、それは「自己責任の無限性」へのおののきだった」(同和はこわい考)
 立命館大学名誉教授の須田先生は、「沈黙していた僕はずっと慚愧と痛恨を抱き、脅迫や威嚇に屈服した人間という烙印を自らに押す悲哀をいまなお消し去れずにいる。」(ニュース39号)(参照:資料12)に書かれている。

 何故、朝田理論を大学や行政あるいはマスコミは克服できなかったのか、それは論理と暴力が一体となって構成されていたからである。さらには、人間の持っている弱点を巧みについていたからである。彼らが言うようにほぼ全ての人は多かれ少なかれ差別者である。(注11)この内心の心の弱さを暴かれることを恐れたため、彼らに服従してしまった。

注11:人権問題等について、「部落解放同盟」の大幹部であった大賀
  正行さんが雑誌で対談した内容が、「部落解放同盟」の正体を知
  る上で参考になる。
   20年前の記事だが、部落解放同盟中央執行委員等を歴任した
  大賀正行さんが対談で次のようなことを語り、自組織の問題点を
  指摘した。(『こぺる17』1994年8月 15ページ)
   「支部長クラスのものが『ちんば』とか『めくら』とかいうて
  る。女性差別の話を平気でしゃべっている。知らん人は、部落解
  放同盟は人権に詳しい人の集まりと思っている。実態を知った途
  端に失望するわな、「何やと。こんな人間が部落解放とか人権を
  叫んでいるのか」と。だいぶバレてるとは思うけど(笑)。」 
   措法以後(「同和対策事業特別措置法」1969年制定)の運動は
  解放運動かいなと思う。」(参照:資料6)

 大賀氏の発言の中に、「だいぶバレてる」とは思うけど(笑い)と言うのがあるが、しかしまだまだ、行政は「この突っ込み」は入れられない。「差別だ」という逆襲に「無限のおののき」を持っている。
大賀氏が暴露した「部落解放同盟」内の人権意識の実態がこのようなものであることは、我々も薄々は知っていた。しかし、この指摘を我々が指摘すれば、「差別者だ」として糾弾される事は火を見るより明らかなことであった。だからこの事を共産党以外は誰も追求しなかった。
                   ―203−
 しかし大賀氏が指摘したように、彼らも含めて差別者であり、お互いに足を踏み合っているというのが現状である。「部落解放同盟」の差別論のズルさは、自分たちは一切差別をしない聖人だという位置に置き、あなたの心の奥にある差別を暴き出してやろうと迫ったことである。
 まず彼らは、差別する者と差別されるものに線引きをする。次に空気を吸うように差別意識は採り入れて行かれる。(注12)部落にとって部落民に取って不利益なことは差別である。差別か差別でないかは、部落民にしか分からないと設定した土俵にはめられる。
 そこで議論をしても、貴方は「差別者である」と指摘され、「その件は差別でない」と答えても、差別の苦しみは差別されているものにしか分からない、貴方は差別者の側にいる。これを暴力的な脅かしを背景にやられたら黙るしかない。(注13)

注12:マルクスは、「ドイツ・イデオロギー」の中で次のように述べて
  いる。「支配階級の思想は、いずれの時代でも、支配的思想であ
  る。」この主張を悪用した物である。知らず知らずのうちに、一般
  国民は差別者になっている。
   我々が差別を取り除いてあげる。「除霊」してあげる。「追及
  している貴方自身はどうか」という突っ込みが必要であったが。
  暴力的威圧の前では言えなかった。

注13:ニュース39号(参照:資料12) 須田稔論文では、「またこ
  んなことをやりやがったら殺したるぞ」と罵声が挙げられたとい
  う。今日ではこのような発言が行われれば、その場で会議を中断
  し、警察に告発していくシステムが確立しつつあるが、この時点
  ではこのような発言を平然と許して会議が行われていた。

 これが、行政側との闘いで連戦連勝した理由である。彼らの論理は多くの誤りがあるが、これを暴力的威圧の前では打ち破れなかった。
 例えば差別する者と差別されるもの、あるいは足を踏んでいるものと足を踏まれている者という彼らの主張は誤っている。本当はお互いに足を踏み合っているのである。部落問題に限定すれば、当事者とそれ以外と言う意味ではそれなりに当たっているが、差別には民族差別も、女性差別(参照:資料6)もあり、部落の人は一切差別をしない聖人君主の集まりではないのである。私の経験からすれば、むしろ民族差別や女性差別においては、部落の人々の差別意識は相当あると見ている。(先に述べた大賀氏の発言がそれを物語っている)
                   ―204−
さらには、部落差別そのものは、歴史的に人為的に作られたもので、時の権力者が人民の支配に利用してきた面が強く、そうした面から、捉えるべきであったにもかかわらず、敵を取り違え、民主勢力に楔を打って出た。今日においても時の権力者に利用される役割を担ってしまった。
 要する「部落解放同盟」は、「そこどけ、そこどけお馬が通る」的な活動を行い、行政を屈服させることに成功したが、部落問題を真摯に考え、その取り組みを行おうと思っていた多くの味方を蹴散らし、経済的な低位性は打ち破りながらも、新たな差別の再生産を行ってしまった面がある。今日の差別は昔あった「穢れ意識」みたいなものはほぼ克服されたが、同和行政で見せた物取り主義的側面(不正腐敗が生まれる温床になった)に、少なからずの国民が忌避意識を抱く状況を生み出している。
 この克服こそが喫緊の課題である、そのためには、差別するものと差別される者という国民の中に分裂を持ち込む差別論でなく、国民と共に歩む部落解放運動でなければならない。

 これら彼らの詭弁が40年間も行政内部で通用した。この契機となったのが立命館大学に対する糾弾闘争であった。大学の教授に勝てる我々は無敵だとおそらく思ったであろう。彼らの理論の誤りは早くから分かっていたが、彼らの策動を誰もそれを糺すことができず、統一戦線の破壊に利用され、日本における民主主義的な運動を40年間の長きにわたって分断してきたのである。
 しかし私は40年間役所で働いて、同和地区出身の方々の中にも優秀で仕事にまじめに努力されている方が多くいることも知った。おそらくこうした人々は、「部落解放同盟」が蛮行を繰り返すことを、逆に迷惑と捉え、「部落解放同盟」から離れていったのではないかとみている。現在部落解放同盟の役員ですら多くは地区外に出ており、「部落解放同盟」の役割とは何なのかが問われる状況にある。
 皮肉な言い方をすれば、同和施策によって役所に採用された多くの人たちは、地域を捨てて地区外に住宅を求めている。地域を拠点とする「部落解放同盟」の運動から遠ざかっているのが現状ではないか。
 最近の「部落解放同盟」が良く主張する、「同和地区の住宅を購入しますか」という質問を行政の行う人権意識調査で設問に入れ、「買わない」と答えた人を、同和地区に忌避意識を持った人と捉え差別者と捉えているが、同和地区出身者で役所に勤め生活が一定安定してきた人たちが、同和地区から他の地域へ居住を変えている現状をどう見ているのか分からない。「部落解放同盟」の幹部自体が同和地区以外に住居を求めている現状で、他の市民が「同和地区内の家を購入しない」と答えれば差別だという主張に説得力はない。
                  ―205−
 しかし、今現在、多くの市町村の行う人権意識調査には、必ずと言ってよいほどこの項目が設問に入っている。市町村はまだまだ朝田理論から完全には脱却できていないのが現状である。

(8)朝田理論克服の動き(「部落解放同盟」の周辺から)

 最後に、同対審答申以降の「部落解放同盟」の闘いが様々な問題を内包し、既に破綻している現状及びその問題点について、内部から克服を目指す動きがあったことをふれておく。
 1987年6月20日(26年前)発刊された「同和はこわい考」地対協路線を批判する。阿吽社 藤田敬一氏は、以下のような目的をもって発行された。

「両側から超える」努力を説く
1.八六年の地対協「部会報告書」「意見具申」、八七年の地対室「啓発推進指針」は、いわゆる自然解消論・部落責任論・部落更生論をとなえ、部落解放運動の存在根拠を否定している。しかし運動側の批判は地対協の主張が市民に受け入れられやすいことを見落としている。
2.運動は好むと好まざるとにかかわらず、「同和問題はこわい・うるさい・面倒で避けた方がよい問題」「またか」「うんざり」といった市民の根強い意識を直視すべきである。
3.この間の運動、事業、教育・啓発の前進にもかかわらず、なぜ差別事象が頻発するのかという問いに、これまで部落問題解決のために取り組んできた者は真摯に答える責任と義務がある。ところが、いっこうに議論が起こらない。それは部落解放運動が「差別・被差別」の共同の営みになっておらず、対話がとぎれ、関係がゆがみ、ねじれているからではないのか。

4.「差別・被差別両側の隔絶された関係」を生み出している。
一方では「差別する側」と自己規定する人びとの「被差別側の体験・資格・立場」への拝跪があり、他方では、「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」「日常部落に生起する、部落にとって、部落民にとって不利益は一切差別である」との差別判断の資格と基準をめぐるテーゼがある。

5.この隔絶された関係を変えるには
                    ―206−
「差別・被差別の両側から超えて、差別・被差別関係総体を止揚する共同の営み」としての部落解放運動を創出する以外にはないのではないか。
藤田敬一先生は、「この問題提起を行ったのは人びとの意識の中に『同和問題はこわい同題』『面倒な問題』『避けた方が良い』というのがあると、わたしは感じ続けていたからです。」と語られている。

 この本のもう一つの見どころは、巻末の前川む一氏と藤田敬一氏の往復書簡です。前川氏は「部落解放同盟」京都府連合会専従という、まさに運動の内部の人です。何よりも待たれた内と外との率直な応酬が、この公開の場ですでに始まっているのです。

 反発、留保、ためらい。そして前川氏はいう。
「貧しさはもう御免だ。差別ももう許せない。しかし、物を要求するときだけ『部落差別をいう』心のいやしさと怠惰はもっと許せない」
 しかもそれには、重い問いが、へばりついている。「私たち被差別部落の兄弟が、肩をいからせて、世間を歩くようになったのは、一体いつからのことで、何がそうさせるようにしたのだろうか」と。
 さらに彼はいう、「我々は肩を怒らせて歩くのではなく、胸を張って歩かなければならない」と。
私はこの前川氏の発言が「部落解放同盟」京都府連合会専従の立場から出たことに驚いている。まさに朝田理論の弱点を鋭く批判し、部落解放運動の本来あるべき姿を指し示している。
 この「同和はこわい考」を出版された藤田氏(元岐阜大学教授)は学生時代から解放運動とかかわり、その体験に照らして、被差別部落の出身ではない自分が抱いた「こわい」という意識の考察から始めて、「被差別」の側の対応に言及する。そして「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしか分からない」というテーゼに含まれる「批判の拒否」を、批判している。
 藤田氏は“部落解放運動は、他を糾すだけでなく、自らをも糾す思想が求められる”と述べ、また「被差別」側の一部の対応や部落解放運動においていまなお生命力をたもっている二つのテーゼをしている。(注14)しには「共同の営み」としての部落解放運動は創出できないし、したがって地対協の攻勢には対処できないと指摘されている。

注14:@部落に取って部落民にとって不利益なことは一切差別であ
    る。
   Aある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている
    非差別者に
                    ―207−
しか分からない。
    藤田氏はこの具体例として、蛍光灯の電気が切れた場合、こ
   れを行政側に交換させる。(差別の為にそのような事を学んで
   こなかった)あるいは、子どもが、私が勉強できないの、差別
   のせいだと言いきった子どもの姿を批判されている。
   
 この指摘(蛍光灯が切れれば自分で変える)が出来なかった。藤田先生の「同和はこわい考」はこれら一般的社会的常識を身に着けていくことの重要性を語られている。お互いに両側から超えていくことが必要だと。
 この「同和はこわい考」の周りに多くの研究者や、活動家が集まり始めている。「敵」だと思っていた人と味方が入り乱れ初めている。たとえば、立命館大学闘争で「全共闘」や「部落解放同盟」支持の立場から立命館を去って行った文学部の講師であった師岡 佑行氏は、既に亡くなられたが、晩年は、この「同和はこわい考」周辺で活躍されていた。
 また、部落問題研究資料センターに2005年6月1日秋定嘉和さんが就任された挨拶を読めば、多くの学者の名前が出てくる。これを順番に拾っていくと、創設に参加された井上清先生、奈良本辰也先生、渡部徹先生、初代所長の先輩師岡佑行さんや二代目の灘本昌久さん、委員仲間の土方鐡さん、森谷尅久さん藤田敬一さん、中田直さん。運動側から故駒井昭雄さんや西島藤彦さん。また研究の立場は違ったが故藤谷俊夫先生、先輩の東上高志さん。取り分け馬原哲男さんの思いでは強い。ついで事務局の山本尚友さん平野貴子さん。と書かれている。
 これを見ていると、研究者の中ではすでに、歩み寄りが可能なところに来ているのかと思われる。(注15)
 私自身は2代目所長の灘本昌久氏や、同和はこわい考の藤田敬一さんや解放同盟の活動家である住田一郎氏(部落解放同盟大阪府連合会住吉支部支部員)の発言に注目している。さらには秋定嘉和さんの文書には出ていないが奈良の部落解放同盟「奈良県連合会」委員長の山下力さんの発言にも注目している。

注15:「駒井昭雄」さんは、朝田理論の実践の戦闘部隊と認識してい
  たが、「部落解放同盟」の歴史を見れば、駒井氏や西岡氏が意見
  書を出している。
   1981年12月(30年前)に中央執行委員の西岡、駒井両氏が中央
  本部に「意見書」を提出した。当時、北九州市における土地ころ
  がし事件に「部落解放同盟」の幹部がかかわっていることを『赤
  旗』だけでなく、『朝日新聞』も報じ、大きな社会問題となって
  いた。これにたいし、作家の野間宏氏らも憂慮をかくさなかっ
  た。西岡、駒井両氏は、これを「戦後最大の危機としか言い
                 ―208−
  ようのない事態」ととらえ、北九州の事件など三つの事例をあげ
  て、腐敗が構造的にすすんでいることを指摘するとともに、処分
  が濫発されていることをも警告した。(同和はこわい考インター
  ネット通信 敗北の歴史から――『紅風』の停刊をむかえて 師
  岡佑行 部落解放中国研究会 『紅風』第100号 1989年3月掲
  載)の6「部落解放同盟」の腐敗と「西岡・駒井意見書」から引
  用

 これを見ると、中国の文化大革命もそうであったが、間違った運動の流れは、一定の時間を要しても、大衆のねばりつよい闘いの中で何時かは克服されて行くものだとつくづく思う。朝田氏が指導した「部落解放同盟」の中からこうした再生の芽が出てきていることは注目に値する。時代の流れの中でそれぞれの運動の潮流の中から、新たな思考が生み出されていることが分かる。再生に向かって研究者の大同団結と同対審答申以降の部落解放運動の歴史を総括し、新たな部落解放運動を主導する強力なリーダーシップが求められているのだと思われる。


                 ―209−
最後に鈴木元氏に送る言葉

1.黙って「立命館の再生」から手を引くべきです

 鈴木元さん、冷静に考えてください。貴方はもう立命館に関わらない方がいいですよ。ここは黙って立命館から去るべきです。
 貴方は立命館大学の学園闘争のリーダーでした。我々の英雄だった人です。貴方は十分名を成しました。52歳からの立命館に対する就職ですが、おそらくあなたは立命館のためを思い全身全霊をかけて闘われたと思います。その姿に多くの人が感銘したと思います。
 しかし今のあなたのやっていることは見苦しいすよ。貴方は「立命館の再生を願って」という本を出されました。しかしこの本には、どこにも再生の処方箋が書かれていません。
 この本を読んで分かるのは、我々が愛した立命館大学がいつの間にか変質してしまっている。立命館の教学理念であった「平和と民主主義」「庶民のための大学」でなくなっている。そして立命館の特徴であった「全学協議会」がその機能をはたしていない。
 そしてトップが立命館大学を私物化して権力争いをしている。これらの点は良くわかりましたが、その解決の処方箋が見えてきません。なぜなら「再生を願って」では鈴木元氏だけが正しく、他の人はすべて能力が無く、ダメな人ばかりだからです。どこに再生の力があるのかが書かれていません。
「考える会」のニュース19号は、立命館に学ぶ「学生」こそが再生の力の源泉だということを明快に述べています。(参照:資料15)
       

2.「再生を願って」の欠陥は・・・鈴木元氏以外はすべて馬鹿という人物評価

 まず鈴木元氏の再生案には、上記「全学協議会」路線は見えてきません。この参加者である、教職員や学生の役割については全く言及がありません。
 次に立命館のトップはすべて無能だと書かれています。それなら誰が再生の担い手になるのか書かれていません。
 この本の中で優秀なのは鈴木元氏しかいないのです。その鈴木元氏は今立命.をすでに去っています。その鈴木元氏が外野から、立命館の人材はすべて無能だと叫ぶことは、混乱に拍車をかけるだけだと思います。
 この「再生を願って」を読んでみて、どうしても納得できないのは、まずこの筋書きです。私(鈴木元氏)以外は無能だという縦軸が全体の基調になっている点です。立命館大学には沢山の教職員がいて、さらに多くの学生を抱えていて、すべてが無能だとは信じられません。もしそうなら潰れても仕方がないのではな
                   ―210
いでしょうか?
 しかし私には鈴木元氏のそうした人物評価を信じることはできません。なぜなら鈴木元氏は俺が俺がという人であり、周りが見えていないのだと思っています。失礼ですけどこの本を読んで、鈴木元氏はもっと偉大な人だと思っていましたが、全くの俗人だということが、よく分かりました。
 上記五十川論文は、学生の力を信じています。この視点が鈴木元氏にはありません。自分以外はすべて馬鹿と言われれば、子どもが良く使うフレーズで「バカというやつがバカ」というのが当てはまる感じがします。
 鈴木元氏が今後とも立命館に対して建設的な意見を出されようとされるなら、まず自分以外はすべて馬鹿だというこの論理を撤回されない限り、誰も鈴木元氏の提案を支持する人は無いと思います。

3.立命館の混乱の原因はどこにあるのか・・「お金本位主義」にかぶれた事

 私は全くの部外者で、当面する立命館の危機がどこから生まれたかは、科学的に分析することはできませんが、しかしこういう場合は立ち止まって考えるのが、一番だと思います。
 立命館の矛盾は、他の私大に追いつき追い越せと産学共同路線で無理をしすぎたところに原因があるとみています。大学運営を、「経営=利益」に変えてしまったことが、混乱の原因だと思います。
まさしくお金に目がくらんだのです。「再生を願って」でも2005年1時金カットと2007年の退職慰労金から立命館はおかしくなったと書いていますが、まさに立命の経営者が、利潤をできるだけ幹部が多く取り、労働者の賃金はできるだけ少なくするという資本の論理を持ち込んだからです。(小泉・竹中路線)
 「再生を願って」でも川本八郎理事長が日産のゴーン氏を例に出して、その経営理論を学んで運営すると言ったと書かれていますが、立命館のトップがそろいもそろって、お金に目がくらみ、日産のゴーン氏が年収9億円も取るという、実態をうらやましく思い、少しでもそれに近づきたいと思ったことが、教職員や学生から反発を喰らい、立命館を混乱に陥れたのです。 
 立命館の良さはどこにあったのか。これも「再生を願って」にも出てきますが、他の私大に比べて、学費が6割に抑えられていたことや、末川博先生が退職時電話交換手の退職金より少なかったという話こそが立命館の良さであったのです。そして全学協議会ですべて決定して学校運営を行っていくという立命館民主主こそが誇れるものでした。
ここを押さえておけば、全学は団結できるのです。それをどうとち狂ったのか今までの教学理念の真反対の、お金儲け路線に走り、お金は1000億円も貯めこ
                  ―211−
み、この貯めこむ魅力に取りつかれ、教職員の一時金をカットしてさらに貯めこみ、同時にこれだけ貯めたのだから我々トップは少し位これをもらってもよいだろうとお金の魅力に取りつかれ、川本八郎前理事長に1億2000万円の退職慰労金を出すことを決めたのだと思もわれます。
 これは川本八郎氏だけでなく、これからやめる人は前例踏襲で同じようにもらえるから賛成したのです。(みんな川本八郎氏の為に手を挙げたのではなく、これが前例となれば、私もこれだけもらえると計算していたのです。)
 これを教職員や学生は、おかしいと言っているのです。これは当たり前の感覚であり、これがおかしいと思わない人は、すでに感覚のずれている人です。 
 立命館の拡張主義がいつの間にか、みんなをお金の亡者に変えてしまったのです。
 「立命館の再生を願って」は「再生を願って」と書きながら、貯めこんだ1000億円を、茨木に使うか京都に使うかの違いの議論をしているだけです。(注1)この論議は、この間の立命館の犯した間違い、学校運営を経営の視点から捉え、そのトップがいつの間にか日産のゴーン氏を尊敬するという間違いを犯したことの反省が全くないところにあります。

4.立命館が再生できるカギは何か・・「お金本位主義」から「学生本位主義」に戻ることです。

 それは末川イズムに戻ることです。「平和と民主主義」を掲げ、「庶民の大学」に徹することです。この末川イズムの原点は、学生を基本とした学校運営です。川本八郎理事長が良く語られた言葉、「学生が見えなくなれば学園を去れ」(参照:資料16)この言葉の中にすべての含蓄があるのです。立命館は何時からこの言葉の大切さを見失ったのか、川本八郎氏が最も大切にしておられた言葉を葬ったのは誰かが問われているのです。

 この理念貫徹のため、立命館大学の教職員の給料がたとえ他の私大より安くても。教職員は歯を食いしばっても頑張れる要素(大義)はありますが、1000億円も貯めこみ、幹部はその分け前を手に入れながら、教職員は他の大学よりも安くせよ(日産のゴーン氏に学ぶ経営方針)で全学が団結できると思う、幹部は、全くの政治的音痴であると思います。(共産党の府委員会の専従職員であった鈴木元氏がこんなことも分からなかった事にはあきれ返るばかりです。)
 鈴木元氏は、一時金カットにも、退職慰労金にも賛成しながら、そのことで混乱し始めると、いち早くその批判者の立場を取っているようにふるまっているが、鈴木元氏のこれらに対する反対が教職員組合などと同じものか否かの分岐点は、
                  ―212−
鈴木元氏は末川イズムに帰れと言わないところにあります。貴方は、これを清算主義と批判し、今日までの拡大主義・産学共同路線推進を評価しています。
 しかし、立命館の混乱は、明らかに学校運営を「お金儲け」として捉えたところに最大の問題があります。儲けるためには搾取の論理が働き、同時に経営者が利益を独り占めにするという思想が現れる。川本前理事がゴーン氏を評価するのがその典型です。この悪の循環を断ち切らねばなりません。そのためには拡大主義を一度とめ、再度、学校運営を金儲けの手段としないことを、再確認する中でしか再生はありえないと思われます。
 鈴木元氏はなぜ末川イズムに帰れないのか、それは、末川イズムを否定する中で川本八郎前理事長の神格化を行ったからです。やってはならないことをやり川本八郎氏を日産のゴーン支持者にまで堕落させたのは、鈴木元氏自身だと私は思っています。
 最後にもう一度言います。鈴木元氏は、もう立命館から手を引くべきです。これ以上立命館に介入を行えば、晩節を汚すだけです。

注1:この原稿を書いたのは昨年の10月頃であったので、茨木か京都かの闘いに言及していますが、現在はすでに茨木市で建設工事が進み、この論争は意味のないものになっています。鈴木元氏の主張した京都案は完全に敗北したものと思われます。