資料集12 第3の分類:「立命館の民主主義を考える会」(元教職員)のニュース



     ニュース39号 「須田論文」  
                                  2012年4月20日発行

(ア)申し入れから糾弾闘争
 (前略)1967年7月6日、大学は解放同盟との「話し合いを」(「百年史」の表記のまま)に応じた。教学担当常務理事、全学部長、二部協議会委員長、教学部長、各学部三役、総務財務担当常任理事、職員部長が参加。
 「今日は糾弾の場だ」と宣告する解放同盟は、まず産業社会部教授会の見解を「差別を容認し拡大するもの」と糾弾し、「差別拡大の場になっているとして学振懇という民主的体制まで糾弾。大学の姿勢は大きく後退した。その場で、産業社会部教授会が学外での話し合い(糾弾会)に応じる約束をさせられるまでに至った。」

 7月7日、6学部長と二部協議会委員会委員長との連名で「告示」が出され
7月3日の学振懇が差別意識を露呈し拡大する場になったことに教育責任を痛
感する。東上ルポは客観的には部落差別の意識を再生産し、社会的に拡大するものと考える。「告示」の趣旨はこうだった。
 7月11日、15日、産業社会部教授会が文化厚生会館で糾弾集会に出席させられ、21日から24日かけて全学部の教授会も「話し合い」をもった。
 7月26日、大学は「同和教育の総括と今後の方向」を教学担当常任理事名で発表。
 8月5日、大学は7月6日と同じ出席者で「部落解放同盟」との「話し合い」を持った。僕の記憶では、この席だったと思うのだが、同盟側の一人が「またこんなことをやりやがったら殺したるぞ!」と罵声をあびせた。
 僕には衝撃であった。が、同盟の責任者からも誰からも、「いましめる」言葉は吐かれなかったし、大学側も誰も抗議することはなかった。沈黙していた僕はずっと慚愧と痛恨を抱き、脅迫や威嚇に屈服した人間という烙印を自らに押す悲哀をいまなお消し去れずにいる。この一言で、部落解放同盟朝田派という集団の正体が反民主主義・非人道主義・暴力的排外主義の暴力団でしかないという確固たる認識に僕は到達したのであるが、教育者・研究者として失格者とされても弁解の余地はないと思っている。
 8月22日、総長末川博名で部落解放同盟中央執行委員長朝田善之助宛ての書簡による返答がなされた。
 7月26日の教学担当常任理事名の文書もそうであったようにこの総長名の告示を踏襲したもので、同盟の1966年5月23日付申し入れを形式的に大学の自治・学問の自由と対置する傾きがあったことを反省するし、学生運動内の対立とも絡んで、部落問題についての誤った認識、差別意識を再生産する事態を招いた。このことに産業社会部教授会の見解の内容が一定の影響をもったことは否定できないし、大学としてこれからの見解を是正する時宜を得た措置を取れなかったことに共同の責任を負う、というものであった。
 『百年史』は、これら一連の大学文書は、当時「朝田理論」と称された「論理」をほぼ全面的に採り入れたものとなっていた、と記している。つまりは、「追随」し、「屈服」したのだ。

(イ)学内で朝田理論への批判が強まる 
さて、7月10日に新しい執行部体制になっていた一部学友会の要請で、学振懇が9月14日に再開された。7.7学部長告示や、7.26教学担当常務理事文書は大学の解放同盟への屈服だと学友会は批判。無断で入室していた解放同盟員が抗議した学生に暴力を振るうという事態も加わって学振懇は中断した。
 学友会の見解は学生の間で支持広げ、教職員の間でも解放同盟の一方的糾弾や「朝田理論」への批判が強まり、「大学としての自主性を求める声が次第に広がっていった」と『百年史』は述べている。
 『百年史』はさらに記述する。「大学はいかなる社会運動に対しても科学的精神に基づき、自立性・自主性を守って教育・研究を推進していかねばならない。しかし、この時期立命館大学は、大学としてのこうした役割を十分に発揮することができず、『解放同盟は(略)民主運動の全国組織である』前掲「大学告知」1967年6月24日」との前提に立ち、解放運動の一方の側に組織された糾弾の前に、先に見た様な部落解放運動における『朝田理論』をほぼ忠実に反映した総括を行うこととなった。
 教育・研究の自主性を一時的にではあれ見失ったことは、立命館大学にとって貴重な教訓となった。この教訓は、続いて起こった『大学紛争』に当たっての全学的取り組みに大きく生かされていくことになる。
 1975年5月に『大学教育と部落問題』第二次改訂版発刊。「ここでは、第一次改訂版にあった「@差別意識の問題に偏重しているA部落解放への展望が不十分であるB部落差別原典論=基底論についての再考C基本的人権、民主主義の問題全体との関連が不十分であるなどの問題点を主要に改訂」(「大協議事録」1975年3月29日)するとし、ここに学内における「朝田理論」による差別認識や部落解放論を基本的に是正したことになった。」『百年史』はこのように記述するに至った。

(ウ)立命館100年史は、朝田氏の攻撃下の立命館大学が描き切れてない
 要するに、「朝田理論」による大学介入や糾弾集会や脅迫的言辞に対して、立命館大学は一時期、屈服したのであった。そして、産業社会部教授会の「見解」は、「朝田理論を巡る状況について認識の甘さがあり…糾弾を誘発した」と非難 された。」
 だが、そうであろうか。なるほど。「67年同和教育問題」を総括する際、「朝田理論」の差別認識や部落解放論を誤りと指摘するには至らなかったけれども、大学自治論に基づいて大学の人事への不当介入に抵抗した産業社会部教授会の見解は、「科学的精神に基づいていた」「自律的・自主的」な「見解」であったのではないか。
 「朝田理論」のウサンクササを嗅ぎつけていたからこそ産社教授会は、大学自治論に則して反撃したのであり、「『百年史』はこの点に先見性を認め、敬意を表すべきではないのか。「書簡」や「告示」や「声明」などを「教育・研究の自主性を見失った」例として反省するなら、せめて産社教授会の討議資料の「見解」を肯定的に評価すると記述すべきでないか。僕はこう考えるのだ。
 あの心身を摩耗した数ヶ月間、当時学部主事として矢面に立たれた奥田修三教授が、今ご存命であればと思うや切だ。奥田先生が物言えぬなら、僕が言うしかない。『百何史』のこの部分を綿密に読む人は極少数にちがいない。それでも、言っておかなければならない。奥田先生初め産社教授会がまともだったから、大学全体も過誤を克服できる力を温存できたのだ。そういう誇りを僕はもっている(引用文)(後略)