資料集3


    産経新聞夕刊  (2002年4月3日)  
        立命館研究 3 ― 総長が投手、理事長は捕手 ―
                         皆川 豪志

−総長が投手、理事長は捕手−
 
 立命館は「平和と民主主義」を教育理念に掲げている。終戦直後の大学を立て直し、四半世紀近くの総長を務めた末川博(故人)が打ち出した、戦後立命館の原点ともいえる言葉である。
「大学の自治意識」に根底から異議を唱えた理事長、川本八郎(67)の改革路線は、こうした伝統的な理念とどう折り合いをつけていったのか。

「組織のないところに改革はない。日本の大学は学長や執行部が教授会で話すことができない。改革の意見を述べようにも足を踏み入れることすらできない。それが大学自治だという。こんなものは組織じゃない。だから大学は改革はできない」。川本の大学職員時代からの持論である。

 川本が理事長に就任したのは平成7(1995)年。それ以前の理事長職は、地元名士のOBが非常勤で務める名誉職の色合いが濃かった。「学問の自治」の立場から、数学と財政を分離する意味があった半面、大学経営に対する責任者は明確ではなかった。

 すでに川本は平成元(1989)年には筆頭理事にあたる専務理事に就いており、実際にはこの時から事実上の経営トップの役割を果たしていたことになる。このポストにしても改革路線を進めるため、初めて設置されたものである。 
平成3(1991)年に導入を決定した「産学協同」など一連の改革が動きだした90年代、その権限と責任は川本へと一気に集中していったのである。

 「僕は総長が投手、理事長が捕手のようなものだと思っている。受け手がいなければ、どんな球を投げようが試合は進まない」

 産学協同の導入時に総長を務めた大南正瑛(70)=現橘女子大学長=は言う。だが、立命館に初めてあらわれた“正捕手”の出すサインは、従来の大学の体質からみれば、きわどいコースが多かった。そして、大声で改革を叫ぶ迫力に、“選手”らが戸惑うことも少なくなかった。

 「大学教授はプライドが高い。批判されることに慣れていない。川本さんを快く思わない人がいたことも否定できない」。ある教員は語る。職員の中にも、物事をはっきり言う川本の性格に抵抗を感じる者もいたという。

 川本が立命館大を卒業後、大学職員に採用されたのは昭和33(1958)年。総長時代の末川とも十年以上重なっている。当時、末川が連日のように学生や教職員を相手に激論を戦わす場を目の当りにしていたという。

 川本は言う。「自分がかわいければ憎まれ口などたたかないほうがいい。僕がやったのは危機認識と内部矛盾を明確にしたことだ。その上で徹底的に議論して決まったことには従う。それが末川先生もいう民主的な組織ではないか」

 実際、一連の改革の中で、川本のトップダウンで決まった施策は一つもない。いずれも一般職員のレベルから議論を積み上げて数年単位の長期計画を設定し、学内の合意形成に膨大な時間とエネルギーを要している。

 「人の好き嫌いでしかまとまらない組織ほどもろいものはない。逆に政策でまとまった組織は強い。そのために議論が必要になる。僕は立命館は全国で最も会議の多い大学だと思っている。改革のスピードが速いといわれるが、それは外から見た理屈だ」。川本はそう語気を強める。

 産学協同導入の議論も実際には80年代半ばから幾度となく続けられたが、学内の合意を得るには至らなかった。

 「答えに迷ったら学生を中心に考えろ」。職員時代、課長を含め学生課に十五年間も籍を置いた川本ならではの口癖である。デモで捕まった学生の引き取りから、恋愛沙汰の処理、学費や生活費の相談など、川本には自らが体を張って大学を守ってきたという自負がある。

 ただ、そうした自身の「大学観」だけを前面に押し出していくつもりはなかった。そして、従来の理事長とは比較にならないほどの権力を持ったことを冷静に感じ取っていた。理事長に就任する際、川本はこう宣言したという。

 「大学で最も大事な教育、研究の最高責任者は総長だ。だから言いたいことは徹底的に言うが、意見が違ったら自分が辞める」