資料集17  第4の分野:部落解放同盟(三木府連)


「朝田理論」は京都の部落解放運動をどこへ導いたか 塚本景之 1969年9月
解放運動の新展開(140〜163)  部落問題研究所
                             1989年10月20日発行に収録  一.省略 
二.四年前の参議院選挙のとき

 京都の部落解放運動と組織は、戦前、戦後をつうじて、つねに部落住民の生活要求と差別撤廃のねがいを実現するたたかいの中心となり、今日まで多くの成果をあげ、また、全国的な部落解放運動の発展をかちとるうえでも一定の役割をはたしてきました。

 そして、京都の運動と組織のなかで、朝田氏が指導的立場をたもってきた一人であることは周知のとおりです。

 しかし朝田氏のもっている「理論」が、部落差別を階級的、科学的にとらえることができないという重大な弱点をもっていたために、氏白身の「運動」指導は一貫した路線をつらぬけず、ときには「左」に、ときには右に偏向するという、きわめて動揺的な姿勢をみせてきました。

 結局のところ朝田氏は、部落差別を階級的な正しい立場からつかむことができないままに、むしろ自己の誤った「理論」を最上のものとして、それを「運動」に押しつけるという方向をつよめてきました。

 1965年5月の参議院選挙に松本治一郎氏(当時解同中央執行委員長・故人)が立候補したとき、氏の「部落排外主義」的な立場がはっきりとしたかたちであらわれました。

 彼はこの選挙にあたって「松本候補支持」を組織ぜんたいに押しつけて、共産党候補の支持を事実上圧迫する立場をとり、このときから部落解放連動を統一戦線の強化、発展という立場から前進させるのではなく、「セクト主義」の方向へみちびく道をはっきりとあゆみはじめました。

 朝田氏はこの参議院選挙期間に、京都府下の各地をまわり、とくに舞鶴市では解同地区協事務所で地区協役員にたいして、「この選挙のとりくみをとおして、解同内の共産党員を追放するのだ」と公言し、また他方では、綾部市などで,反共分子や融和主義者との結びつきをつよめました。

 さらに京都市内では自民党市政と癒着をふかめ、行政当局に圧力をかけて、
市内の各部落で大学部落研がとりくんでいた子ども会活動を、「学力向上至上主義」の官製「子ども会」につくりかえるために、「アカ」攻撃と暴力で指導者の学生を排除するなど、反共的な行動がつよめられていきました。

 そして、それらの行動は、朝田氏の「家父長的」指導と「部落排外主義」的な「理論」によってささえられ、府連組繊の正常な運営と全体のたたかいの前進をさまたげる、きわめて有害な存在として部落解放運動のまえにたちふさがるようになったのです。

 ところが朝田氏は、自らの反共と「部落排外主義」的傾向が、京都における部落解放運動に重大な困難をもたらせたことに責任を感じようとしないばかりか、逆に「特定政党に所属する一部幹部の党利党略による活動」と「同盟に対する政策のおしつけと機関占領による組織私物化」がおこなわれたなどと、なんら事実にもないことをデッチあげて責任のすりかえをおこない、部落解放同盟第20回全国大会を契機にして大阪の「日本のこえ」一派や反共分子と結びつき、公然と反共、分裂策動をくりひろげるにいたりました。

 そしてついには、「しつように一党一派の政策をおしつけ、混乱と分裂をもちこんでいる」(「1965年10月8日「三木京都府連副委員長、塚本書記長にたいする田中支部の態度」)とのまったく不当な言いがかりをつけ、「諸偏向を徹底的に迫及し、その責任者をあきらかにしなければならない」(前記「文章」)として、同年12月、朝田氏の縁故関係者をはじめ、支部員でない者を動員して「田中支部総会」をひらき、討議をさせず騒然としたなかで突然「除名は多数決で決定した」と一方的に議長に発言させるという、組織の民主的ルールをいっさい無視した手段で、同支部に所属する三木一平氏(府連副委員長)と私(同書記長)の「除名」を強行しました。そしてその直後にひらかれた府連執行委員会に「除名」をかくにんするようにもちこみ、多数決でそれが否決されたため自己の意のままにならないとみずから脱走そしてその直後にひらかれた府連執行委員会に「除名」を確認するようもちこみ、多数決でそれが否決されたために、朝田氏は委員長の立場を自ら放棄して執行委員会を退席しました。

 つまり朝田氏は府連執行委員会が自己の意のままにならないために、みずから府連を脱走して、解同京都府連を「分裂」にみちびく暴挙をおこなったわけです。

 このようにしてつくりだされた「分裂」の危機は、当然、京都における部落解放運動に大きな困難をもたらし、部落住民の統一と団結、民主勢力との統一を強化するとりくみにとって深刻な障害となったことはいうまでもありません。
三.省略
四.立命館大学にたいする暴挙
 立命館大学にたいする「差別糾弾」の直接のきっかけは、東上高志氏(部落問題研究所埋事)が月刊誌『部落』を、(1966年4月号)に書いた、ルポ「東北の部落」を、1967年5月ごろから朝田氏らが「悪質な差別記事」としてとりあげ、たまたま東上氏が非常勤講師をしていた立命館大学にもちこんだところにあります。

 ルポ「東北の部落」は、部落解放運動のながい歴史と伝統のらち外におかれてきた東北地万の部落の現状と課題をあきらかにしようとの意図をもったものでした。
 しかし、このルポは、部落解放を目指す闘いのらち外にあって、いまなお屈辱的な差別の苦しみをおしつけている真の原因を知らされることなく、ひたすら耐えしのんでいる「東北の部落」の住民たちの生活のなかに潜在する解放へのエネルギーとたたかいへの展望を正しくひきだすという点で、十分に成功していない面がありました。

 しかし、このルポをとらえて「悪質な差別記事だ」とする朝田氏らの主張は、まったく誤った一方的断定でした。

 部落問題研究所とそのなかで活動している東上氏を含む研究者は、部落差別を日本人民の民族的、民主的諸課題のなかで正しく位置づけ、その解放への道筋を明らかにすると同時に、部落住民の差別にたいする深い苦しみとたたかいの足あとを自らの変革の課題としてとらえて、そのすべての活動をつらぬくという基本的立場にたっています。

  したがって、ルポ「東北の部落」が十分にその意図を生かせなかった点については、部落解放運動のいっそうの発展をかちとる立場から、適切な話し合いと討論によって、十分に克服することができる性格のものです。

 にもかかわらず、朝田氏らは東上氏や部落問題研究所に前むきの方向で問題提起をするのではなく、わざわざ立命館大学に「差別事件」としてもちこんだのです。

 そしてルポ「東北の部落」を「差別とみとめるか、みとめないか」、「東上氏を敵対的差別者としてみとめるか、みとめないか」を「踏み絵」にして、民主的な学者や学生のサークル、自治組織の「認識」の総点検をはじめました。

 朝田氏らは立命館大学「糾弾」にあたって「現実に、部落が差別されている生活実態があり、差別観念が、社会意識として存在している現在、その解決に東上氏のルポ『東北の部落』が否定的影響を与えるか、あるいは、肯定的影響を与えるかによって、差別であるか、差別でないかの規準が客観的に決定される」
 (1967年7月1日(差別キャンペーンを学生の手で徹底剣弾しよう」)との独断的な見解( これはけっきよく朝田氏ら「部落解放同盟」の反共幹部の運動に不利益なものはすべて差別であり、朝田氏らが「差別者」と判断するのが「差別者」であるという独断です )にもとついて大学当局(注 立命館大学)の「認識」を問い、その押しつけに屈服しない学者にたいしては、徹夜で「糾弾集会」にひきだしてつるしあげ、また自宅周辺に「差別者」とか「アカ」よばわりのビラをまいたり、ステッカーをはりめぐらすなど、大学の内外で「糾弾」攻撃をおこないました。

 学生にたいしては、暴力と脅迫行為をからませて攻撃をくわえ、そのためにはトロツキスト学生をも利用するありさまでした。

 とくに大学部落研にたいしては異常なまでの敵意をしめし、「民青」「アカ」などと
右翼まがいの中傷と攻撃をくわえて、あげくのはてに部落研が「差別事件」をひきおこしたとデッチあげ、さらに、「第二部落研」結成へのいとぐちとして、「立命館大学部落出身学生同盟」なる「組織」をつくったと称して、大学内で公然とサークル活動への干渉と分裂策動をはじめるという状況さえでてきました。

 朝田氏が、ルポ「東北の部落」の問題を立命館大学にもちこんだ真の意図は、「差別」認識についての朝田氏の誤った一方的断定を絶対的なものとして、東上氏を「敵対的差別者」にしたてあげ、立命館大学を「差別学園」ときめつけて、民主的な学者や学生の自治組織に主要な攻撃のホコ先をむけるなど「差別糾弾」と称して、その実は反共攻撃を大々的に展開するところにその本質があったということができます。

五.府職労、蜷川府政、京教祖への攻撃
  つづいて、朝田氏らの反共キャンペーンは、1967年9月から10月にかけて、「京都府職労と蜷川府政への差別糾弾」、「京都教職員組合への差別糾弾」と、意図的に拡大され、今日なおその攻撃はつづけられています。
 朝田氏が指導する「府連」は六七年9月2日 自民、民主、社会3党の府議会議員を紹介者として、京都府知事あてに「京都府に対する部落問題完全解決のための請願書」を提出しました。そのなかでとくに「府職員内に続発する差別事件」なる一項目をもうけ、いくつかの「差別事件」なるものを列挙しています。(後略)
 引用はここまで
 こうして朝田氏が率いる京都府連は、立命大学だけでなく、京都府職労、京教組と立て続けに糾弾闘争を重ねていきます。その特徴は水平社以来の戦いの歴史に背を向け、「差別でないものを差別」とデッチ上げ、糾弾闘争の相手方を権力側とせず、民主勢力側に求めてきたことに最大の特徴があります。
  この糾弾闘争を一番喜んだのは権力側であったと思われます。この糾弾闘争は社共の統一戦線を破綻に追い込み、日本の民主的運動に大きな負の遺産を残しました。