鈴木元氏


                               ―90−

第二部:「立命館の再生を願って」は一体何を狙っているのか?


<はじめに>

 立命館大学の学生運動のボス[一部学友会執行委員(理論・政策担当)]であった鈴木元氏の「立命館の再生を願って」(以下「再生を願って」という。)という本が物議をかもしだしている。なぜならこの時代(1966年から1969年)を一緒に生きた者(闘った者)には納得ができない筋立てになっているからである。(私はこの4年間立命館大学法学部に在学し、「部落研」に在籍していた。)
 「再生を願って」の基本的な筋立ては、1966から1967年にかけて朝田善之助氏が率いる「部落解放同盟」京都府連(以下「部落解放同盟」という。)からの大学の自治の破壊を目指す攻撃と闘い、立命館大学は、表面的には屈服したが、全面的な敗北は期さなかったこと。
さらに1969年、「寮問題」を契機に「全共闘」系の学生の「大学解体策動」に対して、真っ向から闘い立命館大学を守ったのは学生代表の鈴木元氏と、当時学生課の一職員で教職員組合の副委員長をしていた川本八郎氏であったように描かれている。(「再生」:9ページ)
その後の「立命館の改革」においても二人で奮闘し(注1)、まさにこの二人こそが「立命館中興の祖」(注2)であるから(「再生」:1ぺージ「C川本八郎氏の歩んできた道」)大学運営の実権を握る正当性があると主張されているからである。

注1:1995年、川本八郎氏は理事長になり立命館のトップに上り詰める。最高権力
  を獲得した、川本八郎理事長は、嘗ての大学紛争当時の学生側の実質的な
   トップであった鈴木元氏を訪ね、1996年、52歳の鈴木元氏を立命館に迎え入
   れ、「総長理事長室室長」という役職を与え、二人で立命館大学を牛耳って
   いく。

注2:「再生を願って」にはさすがに川本八郎氏を「中興の祖」と書いているが、
   (「再生」:151ページ「C川本八郎氏の歩んできた道」で)、鈴木氏自身を「中
   興の祖」とまでは書かれていない。しかしこの本の全体の流れを読めば、現在
   の立命館を握っている『四天王』(川本八郎前理事長と、その川本体制を支え
   た森島常務理事、長田理事長、川口総長をさす。)が、すべて能力が無いと
   罵倒し、川本顧問以外の三名の退陣を迫っていることが見てとれる。(「再
   生」:147・296ページ)

  なお、この退陣要求は、後述する「立命館の民主主義を考える会、(元教職員の会)」も同様の主張をしていると思われる。
                                     ―91−
  これらの主張を読めば、鈴木元氏自身が立命館学園のトップに立つべきだと訴えているとしか私には思えない。

 事実、川本八郎氏は「部落解放同盟」の不当な策動に対して、大学当局側からその問題点を指摘し、校内の学生運動とも連帯し立命館の「正常化」に努力した功績はある。おそらく川本八郎氏は、大学の危機存亡に際して、大学当局、教職員組合等がすべて不甲斐ない対応を行ったさい、「部落解放同盟」の不当性と闘い、また「全共闘」の「大学解体策動」から大学を守ることの大切さを訴え続けたことが、学園内部の権力関係で有利な側面をつくりだし、最高権力まで上りつめたと推測される。(私も学生当時、川本八郎氏は学生の味方だという噂は聞いていた。)
 しかし権力を握った川本八郎理事長は、末川博総長の目指していた「平和と民主主義」の理念を掲げた立命館ではなく、学園を経営の観点から捉え、拡張主義に徹し、立命館学園の学生数を2万足らずから5万人に拡大し、授業料の自動的値上げシステム等を確立し(1979年)、1000億円の積立金(社内留保金)を持つ健全経営へ仕立て挙げた。(参照:資料3)
  川本八郎理事長の権力は絶対的に見えたが、川本八郎氏を除く「四天王」(90ページ注2参照)の三人からクーデター的裏切り(2008年7月18日)(「再生」:161ページ)で「相談役」から「顧問」に格下げされ、その翌年度(2010年3月)鈴木元氏も立命館を実質上追放された。
  追放された鈴木元氏は、「川本理事長を含む『四天王』が、立命館学園を学生本位の運営でなく、一部幹部の独断先行を横行させ、退職慰労金に見られるように学園を私物化してしまった。」と批判的立場を鮮明にし、立命館の幹部職員の中で鈴木元氏だけが唯一現状を客観的に把握し、立命館の再生を願っているのが「再生を願って」を書いた趣旨であると説明している。
  しかし、鈴木元氏が手助けし、川本理事長が手腕を発揮したこの時期は、産学共同路線で無原則的な拡大路線を突っ走り、成功させたように見えるが、これが本来の意味での発展・進化であったか、それとも立命館の「教学の理念=平和と民主主義」の終焉を意味するのかの吟味こそが必要である。
 この文書では大学闘争の中で川本八郎氏や鈴木元氏の果たした役割と、その後の学園運営で彼らが果たした役割を精査し、「再生を願って」は、立命館を愛してきた多くの卒業生の願いを踏み外し、学校経営という「企業」の利権をだれが手にする資格があるのかの争いの次元まで堕落していることを暴いてみたい。


                                   ―92−

1.「鈴木元氏のウソとホント」というサイトおよび「考える会」に出会って

 立命館大学の運営に関してブログを書いているから、「是非『鈴木元氏のブログ』を読んで見ては」と勧められ、インターネットで検索していると「鈴木元氏のウソとホント」という記事に当たった。(このサイトは「未来のため」という名前がつけられているが、「鈴木元氏のウソとホント」という投稿記事がこのサイトの主流であり、以下この文書では「未来のため」を使わず「ウソとホント」という名前で引用する。)
 この「ウソとホント」という記事にたどりついたことが、私の大学時代の情熱を呼び起こし、「再生を願って」の批判を始めようと思い立った。このサイトに書かれていることは、私の問題意識とまったく同じであった。それだけでなく、当時、私は立命館大学の「部落研」に所属していたが、その私よりも当時の状況を良く知っており、資料も豊富である。
  投稿者の主題は鈴木元氏の批判であったが、単なる誹謗中傷でなく、まさにその時代を検証し物事の本質を突いたブログになっている。それ故、この文書を書いている私の問題意識は、立命館問題の真実は、鈴木元氏の書いた「再生を願って」よりも、この「ウソとホント」のサイトの主張の方が正しいという事が基本になっている。その確信は、私が大学時代「部落研」で学んできたことから来ている。
 
 この「ウソとホント」というサイトを見て、「再生を願って」を無性に読みたくなって、「再生を願って」をすぐに購入した。この本を読んでみて、「権力を握ったものは必ず堕落する」という一般的原則を我々に見せてくれている反面教師の重要な記録であると思った。この本を書いている当人(鈴木元氏)も同じ道を歩んでいることを、本人は全く気付かず、川本八郎前理事長や他の理事らをボロかすに批判はすれど、自己の正当性ばかりを言い訳を交えて主張するその姿は、嘗て、鈴木元氏を知る者として哀れでしかない。
  さらにこの時代を扱った他の情報が無いかとインターネットを検索していて「立命館の民主主義を考える会、(元教職員の会)」(以下「考える会」という。)があることを見つけ出し、この会の主張が何であるかの把握に努めたが、この会の主張も私の立場と同じであることが分かった。(「考える会」は、「NEWS」をすでに46号まで発行され立命館の危機とその克服を訴えている。以下引用に際しては「ニュース○○号」という。)ただ「考える会」の主張は基本的には正しいが、暗に鈴木元氏を批判している文書は数多くあるが、「考える会」として公然と
                                 ―93−
鈴木氏批判を打ち出していないところに弱さがあると私は見ている。
鈴木元氏は立命館を追い出され、在職中批判していた「考える会」(注3)を自分の「立命館との闘い」に利用しようとしているが、この会はそうした鈴木元氏の企みに気が付かないふりをして、鈴木元氏との共闘関係を一定認めているようにも見える。
  以下、私が書く文書は、「ウソとホント」サイトと「考える会」の機関紙(「ニュース」)を大いに参考している。私の基本的立場は、(この2つの「サイト」と「会」)(注4)と同じであるが、私なりにそれらの情報をもとにアレンジして書いている。

注3:「再生」の168ページ(6)「迎合」ポーズで「森島常務が『一時金』問題で組合
    と非公式な協議を始めるころから、森島常務などから組合ならびに『民主主
    義を考える会』の一部の人々の言動に迎合する怪しげな動きがあった。」と鈴
    木元氏は森島常務が『考える会』との接触を図る姿を批判している。

注4:二つの「サイト」と「会」

(1)「ウソとホント」サイトは、第1号では以下のような記述がある。

 「今(2012年3月10日)から、十数年も前のことです。川本八郎専務理事さん(1989〜1995年)が、当時「これからの立命館は、赤いと言われていたことを払拭する。」と言い切ったことを直接聞いて、赤も白もないのに何を言っているのかしら、と思っていました。(鈴木元氏を採用する直前の発言)
 ところがそれから、共産党京都府委員会の専従だった鈴木元氏が、立命館の管理職になる。でも、共産党の専従からそのまま立命館に行くとまずいから、どこか適当な仕事がないか、との話が舞い込んできました。共産党の専従から、すぐ、立命館の管理職になることは、おかしな話でした。(中略) 
 でも、かもがわ出版に鈴木元氏が、就職したと聞いて驚きました。
 社員の人に聞いてみると「ああ、立命館に行くための一時的なもの、長くいないよ。」と言われたので、またまた驚き。
 そうこうするうちに鈴木元氏は、立命館に入り(1996年)、総長理事長室室長となりマスコミに登場してきたので、またまた驚きました。また、給料を聞いてびっくり。高給すぎる。
 川本八郎専務理事さんが「これからの立命館は、赤いと言われていたことを払拭する。」と言っていたことが、こういうことだったの。
「赤色を赤で染めたらよけいに赤くなるのに」と思っていましたが、「赤色が
                                  ―94−
黒色になってきた」との噂が流れはじめました。
 そして、最近「立命館の再生を願って」という本を鈴木元氏が出したので、びっくり、びっくりです。」・・・ここまで「ウソとホント」から引用、( )内の青色の「文字、年号」などは筆者が補記した。

(2)「考える会」

 立命館の教職員及び退職された方で構成されている会。その目的は、立命館大学の教学理念である「平和と民主主義」がおろそかにされ、一部幹部による独裁体制になって、教職員の1カ月分の賃金カット(2005年)提案しながら、川本八郎理事長の理事長退職に当たっては慰労金を倍額にして1億2000万円を支払った(2007年)ことを捉え、立命館の「全学協働の精神」がおろそかにされ、一部の常任委員によって大学が私物化されている状況を憂い結成された団体。その構成人数は、以下の通りであるが、立命館大学の看板教授であった方や、事務方のトップクラスであった方も多く参加されている。
  今手元にあるニュース39号(2012年4月20日発行)では、「考える会」は、「(元)教職員が中心になって結成され早4年余りが経ちました。2012年4月20日現在、賛同者(119名)+匿名賛同者(31名) 賛同者合計150名と記載されています。 

なお文中、鈴木元氏の著書(以下三冊)を引用している。
@「立命館の再生を願って」 著者:鈴木元
A「立命館大学紛争の5ヶ月 1969年」 写真:小原輝三、文:鈴木元
B「京都市の同和行政批判」 著者:鈴木元
 引用に当たっては、@については「「再生」:」、Aにつては「写真集:」、Bについては「同和行政:」と記してページ数を書いている。

 なおこの文書の内どうしの引用は、「本文:ページ」としている。また、大学闘争の事実経過(日付や負傷者の数など)は鈴木元氏の「立命館大学紛争の5ヵ月1969」を大いに参考にしている。 

                               ―95―

第一章 川本八郎氏と大学改革

 この文書は、基本的には鈴木元氏の書いた「再生を願って」の批判を主要な目的としているが、その鈴木元氏が大学闘争を闘った(1966〜1969)「命をかけて闘った二人」と主張している相方の川本八郎氏の評価抜きに鈴木元氏について語れない。なぜなら川本八郎氏は、立命館の理事長(トップ)になるや否や、鈴木元氏のもとに駆けつけ、52歳の彼を立命館大学に招き入れているからである。  
  しかもその役職は総長理事長室室長というものであり、川本八郎氏の直属の部下(手足)である。川本八郎氏は自ら構想する大学改革にとって鈴木元氏を必要としていたのである。そこでまず「川本八郎氏とはどういう人物か」から迫ってみたい。

1.「立命館中興の祖」か、「立命館を壊した男」か?


(1)末川博総長との比較において

 そもそも川本八郎氏は1966年〜1969年の大学紛争時、立命館大学の学生課の一職員でしかなかった。この川本八郎氏がその後権力を上り詰め、立命館大学の理事長になり、退職金を7千数百万円受け取り、さらに理事長を退職時に功労金1億2千万円を受け取り、さらに「相談役・現顧問」として君臨するという処遇を受ける人物になったのか、疑問が残る。
  ちなみに「再生を願って」によれば、「戦後の立命館を代表する末川博総長(5期20年)が退任された時は、教員としての在職期間に対応する退職金だけであった。そのため末川博先生の退職金は在職期間が彼より長い秘書や電話交換手より低い額であった」と書かれている。(「再生」:149ページ)
  この末川博先生の清さと比べると、川本八郎氏は、鈴木元氏によって「中興の祖」(「再生」:151ページ)と言われる人物に祭り上げられ、功労金1億2千万円を取得して当たり前という感覚は、教職員や学生からの批判の大きさから見れば、自分自身の評価に対する大きな勘違いにみえる。

(2)学校運営の「成功の可否」は何をもって語るべきか

 はたして、川本八郎氏は立命館100年史の中で、末川博氏に上回る功績があったのか、極めて疑わしい。しかし後述するが、「再生を願って」では、末川博先生は「部落解放同盟」の朝田善之助氏との出来レースで立命館大学を危機に陥れた張本人に描き出し(「再生」:40ページ)、これを命がけで跳ね返した川本八郎氏と鈴木元氏こそが「立命館の中興の祖」だと持ち上げている。
  この鈴木元氏の主張に同意する立命館の卒業生はおそらく皆無だと思われる。鈴木元氏の思い込みは、組織の上に身を置く者の、自己中心主義の表れである。
                                     ―96−
  「再生を願って」によれば、川本八郎氏は、1980年代半ばから産学共同路線を突き進め、立命館大学に多大な利益をもたらしたのであるから、7千数百万円の退職金と理事長退職に伴う1億2000万円の慰労金をもらうのは当然だという記述が出てくる、「政策に絶対的真理などない、相対的選択である。私は一般論として長田氏、川本八郎氏にそれぞれ4000万円、1億2000万円の退職慰労金を支給することが「絶対的に間違いである」とは思わない。」(「再生」:150ページ) 
  しかし、川本八郎氏が進めたこの産学共同路線こそが、現在の立命館をダメにした元凶ではではないか。その検討を行わず、積立金(内部留保金)が1000億円になったから成功だという評価は大学運営を行う者の判断基準として正しいか疑問である。(立命館の改革については、「参考:川本八郎氏が成し遂げた立命館改革(立命館大学のHPから)」(本文:117〜121ページ参照)
  大学運営が成功したか否かの評価は、立命館大学からどのような人材が育ったかとか、卒業生や現役学生が本当に立命館を愛しているかとか、立命館大学の社会的貢献がその指標でなければならない。(注1)
  末川博総長は「平和と民主主義」をめざし、東の東京大学(官僚のための大学)に対して西の立命館大学(庶民のための大学)という事を明確にされていた。立命館大学を志望した者には、この教学理念に感動して入学してきた者も少なくはなかった。(各言う私もその一人であった。もちろん学費が安いことも魅力としてあった。)

注1:関西有名私学の実態比較(参考:読売新聞「大学の実力調査」2014/7/9) 


  ※「最小」・「最大」は学費の納入学をあらわす。「給付型」・「貸与型」とは大学毎の独自の奨学金を指す。
  大学名  学生数
 学部
最小
最大
給付型
貸与型
卒業率
関西大学
28459
13
406
630
1646
316
82。8
関西学院大学
 23022
11
402
618
1652
209
83.3
同志社大学
  26804
14
403
620
818
559
77.2
立命館大学
32449
13
404
1386
4780
75.6
京都産業大学
12843
391
578
369
85.7
近畿大学
31099
13
290
3585
623
115
80.9
甲南大学
   9038
418
538
82.8
龍谷大学
  18299
400
580
1571
78・5
                                 
※ 納入額は単位は万円、奨学金は何人(奨学金は他にも「学園支援機構等もあ
  る。ここでは一部のみしか比較していない。)
                                   ―97―

※ 立命館大学は関西では最大の学生数を有するマンモス大学になったが、卒
  業率では最低の数値である。一番卒業率の良い京都産業大学との比較で
  は、立命は11%も劣る。この原因究明も大切なのでは? 
    学費については、「関関同立」はほぼ同額になっており、昔の庶民のための
  大学(他大学の6割程度の学費)の面影はほぼ無くなっているが奨学金制度だ
  けは他の大学を大幅に上回っているところにその片鱗が残っている。
※ 立命館大学の学費は他大学と違い、1年目は安く、2年目以降は高くなるという
  特色を持っている。例えば法学部では1年目782000円2年目以降は942000円
  なり160000円も高くなっている。これが卒業率の悪さにつながっていないのか、
  調査の必要があると思う。

(3)末川博総長の功績(末川民主主義)を否定する「川本哲学」とは何か

 川本八郎氏は明らかに「末川民主主義」に疑念を抱いていた。そのことを表すものとして、2002年4月3日 産経新聞夕刊「立命研究3」(皆川豪志)の評価、および日本経済新聞(2003年5月25日)大学改革 ―国立大は民営化せよ問われる「創造性」―での川本八郎理事長の発言から探ってみる。
この産経新聞は、「立命館研究」という特集記事(皆川豪志)を連載している。私が確認できている範囲では27号まであり相当大掛かりの連載である。その第3号に、「−総長は投手、理事長は捕手−」という記事があるが、その書き出しで「立命館は「平和と民主主義」を教学理念に掲げている。終戦直後の大学を立て直し、四半世紀近くの総長を務めた末川博(故人)が打ち出した、戦後立命館の原点ともいえる言葉である。
  「大学の自治意識」に根底から異議を唱えた理事長、川本八郎(67:年齢は2003年時)の改革路線は、こうした伝統的な理念とどう折り合いをつけていったのか。」と書いている。(参照:資料3)
 川本八郎氏の改革が、末川民主主義(末川博総長は、「平和と民主主義」を大切にし、滝川事件の反省から「大学の自治を守る」ことを大切にしていた。)(注2)を根底から異議を唱えたと評価している。
 さらに日本経済新聞新聞記事(立命館理事長 川本八郎- 大学改革 国立大は民営化せよ 問われる「創造性」日本経済新聞 2003年(平成15年)5月25日(日曜日)「真説 異説」)では、川本八郎理事長が縦横無尽に語っているが、「権力と迎合せず」という最後のセンテンスで、「時の権力に迎合する大学はだめです。しかし、社会と歴史が要請する現実的課題に応えられない大学もだめ。両面を持つのが大学の良心です。戦争中は戦争になびき、戦後になった途端に現
                                   ―98−
実社会を見ずに国家権力になびいたことだけを反省し、『あつものに懲りてなますを吹き続けていたのが従来の大学の姿です』」(注3)と語っています。
 これは明らかに「末川民主主義」を揶揄し否定している。産学協同路線こそが、社会と歴史が要請する大学だと主張している。

注2:末川博氏は、滝川事件(1933年、京都帝国大学に対する思想および学問の
  自由、大学の自治(教授会自治)の弾圧事件)に連座し京都大学を辞職し
  た。辞職した教官のうち、18名が立命館大学に教授・助教授などの形で移籍
  した。(末川博先生は「京大事件」というべきだと主張されている)
   戦後1946年、学長として立命館大学に招かれた末川博先生は、学生・大学
  院生・教職員と理事会の協議の場を拡大、教学の民主的発展に最大の努力
  を行い、末川博先生の思想に基づき「立命館民主主義」と呼ばれる学園運営
  を行い、1949年には自らが手がけた公選制に基づき総長に選任され、当時学
  生から圧倒的な人気があった。

注3:「羹に懲りて膾を吹く」という難しい例えを語っていますがこの意味は
  → 羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹(ふ)く
    (羹(あつもの)=〔熱い物の意〕野菜や魚肉などを入れて作った熱い吸い
  物。 膾(なます)=魚や貝、あるいは獣の生肉を細かく切ったもの。また、それ
  を、調味した酢にひたした料理です。
    「熱かった吸い物に懲りて、ついつい膾や韲物(あえもの)のような冷たい料
  理も吹いて冷ますということから、一度しでかした失敗に懲りて、必要以上の用
  心をすること。」という意味です。ここで、川本八郎氏の言いたいことは、戦前の
  大学が権力に迎合していったからと言って、「平和と民主主義」「大学の自
  治を守れ」等を教学理念の根幹に据えるのは、必要以上の用心であり、現実
  社会が大学に要求している事に応えていない。大学は社会の要請がどこにあ
  るか敏感に察知し、それに応えることが使命だと主張している。
   具体的には、最近(2000年4月1日)に大分県別府市に開講した立命館アジ
  ア太平洋大学(Asia・Pacific・University)(略してAPU)「自由・平和・ヒュー
  マニズム」「国際理解」「アジア太平洋の未来創造」を基本理念とした大学だ
  と思われる。(どうだ、これが、現在社会が必要としている大学だという自信の
  現れと見てとれる。)

  この川本八郎氏の狙いは、ある意味では当たっており、現に、安倍首相が2013年5月18日(土)、APUを訪問、学生ら数名と懇談している。安倍首相は17日発表の成長戦略第2弾スピーチの中で、世界に勝てる大学改革、と
                                 ―99―
りわけ大学のグローバル化の必要性に触れられ、翌日、グローバル 教育に取り組む一つの事例として、世界中から学生や教員が集まる大分県別府市の立命館APUを訪問している。
  末川民主主義を否定した川本八郎理事長のこの路線(安倍首相が評価する)をどう見るかが大きな課題である。ただこの場合どの視点に立って評価するかが問われている。まず立命館大学に学ぶ学生・教職員・保護者・OBはどう見ているのか、安倍首相が評価しているから良しとするのではなく、立命館関係者および社会がどう評価しているかが重要である。(川本八郎氏が成し遂げた立命館改革の概要 本文:117〜121ページ参照

2.川本八郎氏を支えた二人の男・・・産学共同路線を突っ走る

  この川本八郎氏の産学共同路線を支えたのは、川本八郎氏が、ヘッドハンティングしてきた2名の人物が大きく貢献している。一人は1987年に採用した小畑力人氏、もう一人は1996年川本八郎理事長誕生と共に採用された鈴木元氏である。
 この二人は1966〜1969年年当時の立命館大学の大学闘争の大スターであり、小畑力人氏は表舞台で、鈴木元氏は主に裏舞台で活躍した人物である。

(1)小畑力人氏(学友会委員長)

  この二人の人物像であるが、40年以上も前の話であり、私はサークル活動家であって学生運動そのものと直接かかわっていなかったのであまり覚えていないが(記憶違いがあるかも分からないが)、まず小畑力人氏であるが、私が最初に彼を見たのは、衣笠キャンパスで後ろ手を縛られた姿であった。
  私の学部は法学部で広小路校舎であったが、何か重大な事態が発生しているからと衣笠キャンパスに動員され、そこで見た光景は大きな講堂のような建物(以学館ホール二階)の中で、松尾徹氏(後の全学連書記長)と小畑力人氏(学友会委員長)が「全共闘」の学生に捉えられ後ろ手で縛られ壇上でつるし上げにあっている姿であった。
  しかし、松尾徹氏と小畑力人氏は、「立命館大学の改革の必要性を訴え、その手段として暴力に訴えることは間違っている。すべての立命館大学の学生や教職員が一体となって、その改革を推し進めることが大切であり、大学改革をセクト間の争いにしてはならない、ましてや暴力でもって相手側の発言を封じ込めることは間違っている。今こそすべての学生が団結して立命館大学の「民主化」を勝ち取ることが重要である。学生間の主義・主張の違いをこのような「リンチみたいな行動」で乗り切ることは間違っている。学生運動を暴力に変えるなら、それは敵権力の思う壺であり、やがては国家権力によって踏みつぶされる。
                                    ―100―
  今大事なことは全学の団結であり、団結の力は何物にも代えられない尊い力である。すべての立命館大学の学生は団結して立ち上がろう!」と言う趣旨の演説を、後ろ手を縛られながら切々とその場に集まった多くの学生に訴え、その心を獲得していった。会場は一斉に「全共闘」の不当性の糾弾の場になり、「全共闘」の学生は松尾徹氏と小畑力人氏を残して、会場から逃げ出していった。
  この時に見た彼等には、学生運動の指導者として、カリスマ的な魅力を持った人物に見えた。立命館大学における「民主化」の闘いの中で、この松尾徹氏や小畑力人氏の魅力が果たした役割は大きかったと思っている。

(2)鈴木元(立命館大学の学生運動の最高指導者

 これに対して鈴木元氏は、裏方の人間であり、学生の前に出て演説するタイプではなかった。彼の風貌は現場の作業員という感じで、大学では常に、着古したズボンにタオルをぶら下げ、後ろポケットには歯ブラシを必ず携帯していた。いつでもどこでも野宿できるスタイルであった。
  私は「部落研」に所属していたが、大学時代、鈴木元氏と直接話したのは3回しかない。2回は鈴木元氏に呼び出され、「部落研」で「地域の子ども会」などサークル活動に力を入れるより、「全共闘」との闘いに勝利するため学部の隊列に結集せよ」という(命令)お叱りであった。あとの1回は、私がすでに読んでいた雑誌「前衛」を彼がベンチに座って読んでいたので、なぜ今頃それを読んでいるのか聞いたことがある。彼の回答は、「掲載された論文は10回読んで自分の物にして、それでみんなの前で話をする。」であった。その時点では「さすが指導者は違う、偉いなー」と思った記憶がある。
 

(3)この二人の役割

 @小畑力人氏の役割(国際化を視野に入れ経営的に成り立つ大学へ)
 この小畑力人氏と鈴木元氏の役割であるが、小畑力人氏は鈴木元氏よりも9年前1987年(41歳)に採用されている。(現在追手門学院大学教授:大学の職歴欄に1987年5月〜2004年3月退職時の役職は立命館大学教育研究事業部長と記されている。)鈴木元氏は1996年(52歳)に採用されている。また小畑力人氏は鈴木元氏が採用されてから8年後(2004年)に退職している。(鈴木元氏はその5年後に退職)
 「再生を願って」では立命の産学共同路線及び他の学校を吸収合併するなど拡張路線を賛美しているが、ほぼすべての路線はこの小畑力人氏が推進してきたと思われる。
 この小畑力人氏の活躍は確か大手新聞でも紙面半ページを割いた記事があっ
                                       ―101―
たと記憶している。(参照:資料5)今私が持っている資料は「Toshin Times 2004」という進学塾の機関誌と思われるが、そこに小畑力人氏が一面全体に取り上げられた記事がある。その見出しは、「羨望の職業を追え!」「大学運営編」とつけられ、小畑力人氏に縦横無尽に語らせている。(参照:資料1)

 A鈴木元氏の役割(産学共同路線が、既にほころび始めていた。(2002年頃))
 ここまで読んでいくと、そうしたら鈴木元氏の役割はなんであったのか疑問が沸いてくると思う。「再生を願って」では、小畑力人氏の活躍を完全に無視し、自分が立命館大学のすべての改革を行ったかのように、読む人を錯覚に陥るように仕組まれている。
 鈴木元氏の役割は、川本八郎氏の理事長就任の後に、川本八郎氏が直接ヘッドハンティングしたことでも分かるように、川本八郎氏が理事長としての権力維持のために個人的に支えてくれる懐刀の役割である。立命館大学の改革はすでに小畑力人氏によって着実に前進していた。
 それでは川本八郎理事長は鈴木元氏に、どのような役割を期待したのか、そのことを鈴木元氏は自分の本で全く書いていないが、おそらく川本八郎氏が彼に期待したのは立命館大学の学生運動が一番盛んであった当時の鈴木元氏の手腕を買ったものであると思われる。(もっと言えば、立命館大学の共産党のボスであった彼の手腕と顔を必要としたと思われる。)

 ここからは、私の推測でしかないが、立命館大学には教職員にも学生にも相当数の共産党支持者がおり(学園闘争の闘士が、卒業後就職先が無く困っていたのを、川本八郎氏の伝手で立命館に就職している。(私が直接知っているのは数人であるが)
 例えば、現在日本共産党の国会議員である穀田恵二氏の履歴は
    1969年 3月 - 立命館大学文学部人文学科日本文学専攻卒業。
    4月 - 学校法人立命館職員。
    1972年 - 日本共産党北地区委員会職員。

   「第三部:学生運動論」で多数引用している『写真集』の写真を担当している小原輝三さんも立命館の職員であった。 
「写真集」によると、彼は大学闘争のさ中、この記録を残そうとカメラ片手に奮闘していたが、そのことが「全共闘」の目に留まり、彼らに捕まりリンチされ、腎臓破壊という大きな被害を受けている。
  川本八郎氏は立命館大学で権力の拡大に、自らの手で採用した者を利用しながら進めたが、権力獲得後はそれらの者が邪魔になったと推測される。
                                   ―102―
  川本八郎理事長の進めようとしている産学共同路線は、学校内外で学生や普通の市民の反発を招くのは必至であった。(注4)川本八郎氏は学内の共産党支持者や吸収合併した学校等から反撃にあわないよう、あらかじめ自らの地位の保全のために、鈴木元氏を採用したと思われる。(注5)
 鈴木元氏の基本的役割は、川本八郎氏を守ることであり、彼の私兵でしかない。小畑力人氏は様々な仕事を通じて自分で這い上がってきたように見えるが、鈴木元氏は最初から鈴木元氏の為に設けられた役職「総長理事長室室長」でありその最も重要な役割は、共産党対策や学生や市民対策であったと推測される。
 現に、「再生を願って」にはこうした学内の教職員の声や、学生の動き、あるいは新設校を巡る地域住民の反応などほとんど取り上げられていないが、その当時の新聞記事などを見ると、実際は住民運動など課題が山積していた。(注6)

注4:2008年7月28日付け赤旗は「立命館大学はいま」という批判記事を載せて学
   生の立場を軽視した立命館のあり方を批判している。(参照:資料2)

注5:「鈴木元氏のウソとホント」サイトの主張
  「ウソとホント」サイトによると2007年6月28日の産業社会学部の自治会決議は、
   川本八郎前理事長・鈴木元氏路線の破たんを示している。
      この決議文は「総長・理事長の退職慰労金倍額規定の撤回」と「学園の民
   主化」を求める決議「願い」となっている。この決議が素晴らしいのは、産業社
   会学部の学生947名が結集し、一名の反対や保留を出さず、全員一致でこの
   採決が採択されたことである。(参照:資料7)

注6:(2002年5月10日産経新聞:皆川豪志より)
   立命館研究 27 ― 立ちはだかる反対住民 ―(参照:資料4)

 こうした産業社会学部の自治会決議や住民運動(「立命研究 27」)が立ちはだかっているにも関わらず、鈴木元氏は自らの本ではこれらについては全く触れず、それどころか、「部落解放同盟」や「全共闘」が果たした反民主主義的な行動を活用し、権力側と大衆側の闘いが、必ずしも大衆側が正しいとは限らないという異論を出すことによって、自分の立ち位置を権力側に徐々に移行させている。(「再生」:41ページ参照)
 
  この産業社会部の自治会決議は、常識からいえば、川本八郎氏や鈴木元氏のおこなってきた立命館大学の改革が、学生たちに全面的に否定されたという事を示
                                    ―103−
している。(注7)この決議を受けて川本八郎氏と鈴木元氏は立命館を去るべきであったが居座り続けた。
 しかし、川本八郎氏は、(2008年)教職員の一時金カット、退職慰労金問題(川本八郎前理事長に1億2000万円支給を巡っての教職員の怒り不満がある中で発生した特別転籍問題(注8)の責任を取って辞任した。(2008年7月18日理事会で「相談役」を降りて、今度は「顧問」に就任。)
  この件を「再生を願って」では「内部クーデターで引きずりおろされた。」(「再生」:161ページ)と批判しているが、川本八郎氏「相談役」の辞任は、遅きに失した感がある。鈴木元氏は、その後も残ったが、川本理事長失脚の7か月半後の2009年3月末に総長理事長室が廃止され、その職を奪われ、2010年3月末に退任に追い込まれた。

注7:一時金カットや退職慰労金問題をめぐり、文学部、産業社会学部、国際関
   係学部、映像学部の各学生自治会が、学生大会などで「特別決議」を採択
   し、「学生を軽視し経営主義の判断をしたことは立命館学園の社会的信頼を
   失墜させた」(文学部自治会)、「経営優先の運営をしてきた理事会は大きく
   方向転換を」(国際関係学部自治会)と指摘し、学園指導部の「退陣」を要求
   するに至っている。また、多くの学部教授会で同趣旨の「教員団決議・声明」
   が採択されている。(参照:資料2:2008年7月28日(火)新聞赤旗)
      産業社会学部だけでなく、ほぼすべての自治会、学部教授会で同趣旨の
   決議や声明が出ている。これを全く無視して「再生を願って」を書く鈴木元氏
   は、既に民主主義とは無縁の人間になっている。

注8:「特別転籍問題」とは
     学校法人立命館は、入学手続者が定員の1.4倍を超えた生命科学部で新
   入生に他学部への「特別転籍」を募った。これについて、文部科学省から、
   「教育上の合理的な理由があったと判断できず」と指摘され、私立大学等経
   常費補助金を25%(約十五億円)減額される重い処分を受けたことをいう。
   (参照:資料18組合ニュース「ゆにおん」)

  ここまでのまとめとしては、立命館大学(川本八郎氏)はかつての大学闘争の闘士(指導者)を招き入れ、1980年代半ばから産学共同路線を突っ走り、他の有名私立大学に負けない設備等の充実を図ったが、一方では末川博先生が唱えた立命館民主主義は葬りさられてしまった。
 この現状をどう評価するかで議論が分かれている。川本八郎氏や小畑力人氏、
                                  ―104−
鈴木元氏はこれを成功と捉え評価しているが、立命館に学ぶ学生や教職員はむしろ誤った拡張主義であり、末川民主主義が葬り去られたことが問題だと批判し、末川博先生の唱えた原点に再度帰ろうと主張している。
  マスコミも産経新聞は「立命館研究27」(20002年5月10日)―立ちはだかる反対住民―で立命館大学の産学共同路線の問題点を指摘している。(参照:資料4)

3.なぜ川本八郎氏は理事長まで上り詰めたのか、そのカギは学園紛争にある


(1)「部落解放同盟」と「全共闘」の蛮行が川本八郎理事長を誕生させた

 川本八郎氏が理事長まで上り詰めることができた最大の理由は、実は皮肉なことに、「部落解放同盟」の立命館大学対する攻撃と「全共闘」の中川会館等の封鎖である。これについては、鈴木元氏も「大学紛争時は学生対策が大学運営の最大の焦点になっていた。そのために貴方はまだ課長でもなかったが、常任理事会や補導会議に出席し、一番情報が集まる学生課と組合にいたことにより、的確な判断を下し提案できた。紛争で大学が混乱していた時、教員、職員、学生の違いもなく的確な方針を出せ、それを実行できる勇気と力を持つ者がイニシアティブを取れた。貴方はまさにそうできる才能と努力を発揮、教職員のリーダーとしての役割を果たした。それが紛争後の大学改革につながり、大学紛争をともに闘った教職員があなたと手を携えて奮闘してきた。この間の改革においてあなたのイニシアティブが大きかったとしても、大学紛争をともに闘った多くの教職員が寝食を忘れて、貴方とともに取り組んできたことを大切にしなければならない。紛争が無ければ、貴方の今日のポジションは無かったし、もう二度と、そのようなことは無いだろう」と言っていた。と書いている。(再生:151〜152ページ「C川本八郎氏の歩んで来た道」)
  しかしここでの鈴木元氏は、その貴方の出世を支えたのは、「私が学生代表としてあなたとタッグを組んだことが大きかった」と川本氏に自分の存在を認めさせる努力を常に行っている。(「ともに命をかけて学園の正常化のために闘った」というフレーズが「再生」9ページにある。あるいは154ページには「彼とともに命をかけて学園を守り正常化に努めた」という言葉が、さらに14ページには、「『命をかけて学園の正常化に努めた』交友の一人として」さらに286ページに「命をかけて闘った一人である」と書いている。)
  この鈴木元氏の「命をかけて闘った」の主語は、「ともに」あるいは「彼とともに」であり、これは川本八郎氏を指している。なぜ鈴木元氏は、多くの学友とともに、あるいは学友会に結集する仲間と共に、「命をかけて闘った」と言わない
                                     ―105−
のか疑問が残る。
  彼には共に闘った仲間は全く見えず、立命館総長理事長室室長という権力を守る立場から学生運動を総括し、自らの権力の基礎はこの闘いにあるのだと主張している。川本八郎氏がNo.1なら鈴木元氏はNo.2の処遇を得てもおかしくないというのが彼の主張だと思われる。

(2)川本八郎氏を支えた第三の男・・ここにもう一人に秘密の人物がいた

  さらに、鈴木元氏が隠している第三の男がいる。立命館大学に対する「部落解放同盟」からの攻撃に対して、教授会は基本的には闘えなかった。教職員組合も闘えなかった。(「再生」:39ページ)この中で闘えたのは、学友会に結集する学生と川本八郎氏と唯一「産業社会部教授会」だけであった。(産業社会部については「ウソとホント」及び「考える会」のニュース39号(参照:資料12)を参考
  なぜ戦えなかったのか、それは立命館大学が民主的な大学であり、民主的な教職員が多くおられ、「差別は許されない、「部落解放同盟」は民主団体であり、その主張を聞くのは当然だ」という意識が根底にあった。「部落解放同盟」の運動に誤りがあったことを一般的には想像もできなかったというのが当時の現状であった。(本文:178ページ「7.鈴木元氏の学生運動論を当時の情勢との関連で批判」参照)

 この状況下で、「部落解放同盟」の主張の誤りや、反民主主義体質を暴露して戦ったのが学生サークルの「部落研」でありその指導者は「H」氏であった。

(3)朝田理論を批判した「部落研」の指導者「H」氏の実力。

  この当時の「部落研」が、如何に力量があったかを語るものとして、「ウソとホント」の投稿の中に、立命館の学生サークルであった「部落研」を朝田氏の主張通り解散させようと乗り込んだ教授が説得できず退散したというエピソードが書かれているので紹介したい。
 「ウソとホント」サイトに、以下の投稿が掲載されている。それは立命館の百年史をまとめるにあたって、1966年から1967年にかけての「いわゆる立命館大学同和教育をめぐる一連の事件」の部分がどうしてもまとめきれないので、「部落問題研究会」OB・OG会に協力を求めたものである。
 1996年7月座談会は百年史編纂室が主催して開いたものであるが、OB・OGが座談会を開いたことにしてくれと要請があった。(なおこの1996年7月は微妙な時期であり、前年11月に川本八郎理事長が誕生し、この年の12月には鈴木元氏
                                    ―106−
が立命に採用される。)
  この会議は議事録が「部落問題研究会」のOB・OG側で取られ、記録や資料を作成され立命館に提供されているが、立命館はその存在を否定している。
  さらに実際発行された百年史はこの座談会の成果を受け入れず、事実と異なったことが多々書かれている。
 そこで「ウソとホント」サイトに投稿することにより、この座談会の内容を明らかにしようとされたものである。私はこの座談会に参加していないし、またこのような会議が行われたことも知らなかったが、参加した先輩にこの事実を確認したところ、その内容は事実であることを確認した。重要な資料であるとおもわれる。ぜひ「ウソとホント」サイトで読まれることをお勧めする。
 ここでは第三の男「H」氏の力量証明のため一部引用する。
  以下「ウソとホント」から引用(会議の内容をテープからおこしたもの、発言者は川本八郎理事長)
 
  「朝田善之助が最後にH教授に言うとるのは、あの『学生部落問題研究会』何とかならんか」と、「ようするに、なくしてくれんかと、と言うことが最後の(糾弾要求)だったんですよ」
 中略
 「『学生の部落問題研究会』が差別しているから征伐せんと」と言ったもの
「それで学生指導主事会議が、『部落問題研究会』と会おうということになったんですよ」
中略
「その時に、Y教授とH教授がコテンパンにやられた。『部落問題研究会』に」
「ほいでね、帰ってきたSNとIMが、あの二人を出したのは間違いだと」
「『部落問題研究会』を征伐に行ったら逆に征伐された。」
中略
 「学生主事会議が『部落問題研究会』との話し合いもうあかんと、やればやるほど、こっちにボロがでると」

  と語られている。学生のサークルである「部落研」に歯が立たない教授達が、「部落解放同盟」に打ち勝てるはずがない。彼らは「差別だ!、差別だ!」と暴力的に迫ってくる。通常の議論でも勝てない人たちが、暴力を背景にした脅しに屈服したことが分かる面白いエピソードだと思っている。
 
  この会議(学校側と「部落研」)は、朝田善之助氏による「部落研」の解散要求に答えるため、教授会の複数のメンバーが「部落研」に解散を迫まってきたもの
                                  ―107―
である。 
  会議の内容は上記「ウソとホント」サイトが詳しいが、私の記憶では、教授達は朝田氏の差別論に基づき、東上高志氏の「東北の部落」は差別文書であり、また「部落研」が部落出身学生で構成されておらず、地区外の学生が多数を占めている。その学生が地域に入り子ども会活動などすることは、「部落解放同盟」としては認めていないと言っているので、活動の自粛を求めてきたものである。
  「H」氏は、朝田氏の主張する「差別する者と差別される者」という考え方や、「足を踏んでいるものと踏まれている者」という捉え方が如何に間違っているか、「足はお互いに踏み合っていると捉えるのが正しい。」と説明し、「『部落研』の学生が地域に入り差別の現実を知り、子ども会活動を通じて、子ども達の成長と学生の成長が同時にはかられている実情を説明し、大学の自治の観点からもあなた方教授会の主張は間違っている」と、教授たちに一歩も引かず、押し切った。
 教授たちは、「H」氏の差別の捉え方の誤りの指摘に対して、それを乗り越えることは出来ず、その論理は完全に破たんしていった。
 結局は「部落研」の解散という大学側の要望は、「部落研」の正当な主張の前に、大学側の交渉団はあきらめざるを得ない状況に追い込まれ、退散していった。
 私が尊敬していた教授達が、「H」氏の主張に全く太刀打ちできない場面を見て「H」氏の偉大さに感銘したことを覚えている。
  ただ、「部落研」の解散要求をもって我々と話し合いを持ったという、この会議の位置づけは、私にはその当時把握できていなかった。圧力をかけて来たことは分かっていたが「解散要求」と言う切羽詰まった物とは捉えていなかった。教授たちの対応は威圧的でなかったし、話し合いという雰囲気であった。
  教授達も本気で「解散させる意志」は無かったのではないかと推測している。

 川本八郎氏は、この立命「部落研」のOBであった三木府連の塚本氏や「H」氏から「部落解放同盟」とどう闘えばよいかのノウハウを学んでいった。このことが、学校側で彼だけが正論を主張し、「部落解放同盟」とも闘うことができた。その他の者は「部落解放同盟」と闘うことを避け、後ろに退いたため、彼が立命館大学の中で優位な立場に立ち、トップに躍り出ることができた。
  その後、彼は常任理事就任後、小畑力人氏や鈴木元氏を活用し、さらには無名の共産党員やその支持者の活躍を利用しながら権力を蓄えて行ったと思われる。
  要するに川本八郎氏は、誰に力があるかを見極める術に長けており、その時々の情勢の中で人を使い分け、自らの権力を獲得していった。


                                ―108−

4.川本八郎理事長の「ヘッドハンティング」と出世街道


(1)役に立つ職制は鈴木元氏しかいない

  川本八郎理事長は、大学紛争で世話になった人たちを自分の出世街道に合わせて順次採用している。そういう意味では律儀な人であったのかも知れない。あるいは、「平和と民主主義」路線にしがみついている既存の教職員の意識を変えるため、外部から川本氏の考え方を忠実に実践してくれる人材を、自分の出世に合わせて、活用したのかもしれない。
 最初の採用者は小畑力人氏(1987年採用・・1984年川本八郎氏常任理事就任)、彼には産学共同路線に進む着想とバイタリティがあった。彼こそが立命館大学の名前を高め、経営的に黒字体制を築いた。(参照:資料4)
  次に鈴木元氏(1996年採用・・1995年川本八郎氏理事長就任)の役割は(掃除屋あるいは洗濯屋)であり、川本八郎氏の独裁的権力の維持のための汚れ役と思われる。
  「再生を願って」でも、「川本八郎氏は、大学紛争とその後の改革で大きなイニシアティブを発揮し、職員出身で専務理事となり、やがて理事長となった。しかし、そのころから川本八郎氏は、職員の前で次第に教員を否定する行動を振り撒く傾向が強まった。」と書いている。(「再生」:64ページ〜71ページB問題点)これも噂であるが川本八郎氏は「ある時の部課長会議で、『役に立つ職制は鈴木元氏しかいない』と持ち上げた時があった」と聞いている。
  川本八郎氏は1995年理事長に就任すると、権力者としての自分を自覚して、権力維持を最大の課題と設定し、鈴木元氏を採用したと思われる。
つまり自分の役職との関係でどの人物が必要かを使い分けて採用してきた。もっとも恩返しの意味もあったと思われるが、絶妙の人事である。
 

(2)鈴木元氏と小畑力人氏の違い・・採用された時期の違い

  立命館を産学共同路線にのせ、他の大手私立大学10校に負けない収益性のある大学にのし上げた二人ではあるが、この二人には決定的な違いがあると思われる。
@小畑力人氏(産学共同路線で突っ走り大きな成果を上げる?)
 小畑力人氏は自分で「立命館大学改革を断行した男」(インターネットでこの言葉を入れて検索すると彼のHPにたどり着く)を自負しているように、立命館大学に採用されて以降の自分の仕事でもって自分の評価をしてほしいと打ち出している。つまり一経営者としての立命館に対する自分の力量を誇示している。これは内容が事実か誇大広告があるかの検討は必要だが、ある意味爽やかである、私はこれだけ仕事をしたという事だけである。さらに退職したあとの立命館に介
                                 ―109−
入して、私にも利権に絡む資格がると言うような議論を一切していない。古めかしい言葉で言えば「男、小畑力人の仕事の力量を見てくれ」的なメッセージを感じる。
A鈴木元氏(産学共同路線の破綻の時期、批判を強引に押さえに回る)
  鈴木元氏は、採用年次が遅く、産学共同路線の曲り角で採用され、残された仕事は川本八郎王国の維持というような内容でしかなく、私がこれをやり遂げたというような仕事が無く、裏の仕事が多かった。(ニュース15号(参照:資料14)では「暗躍」と書かれていた。)
  こうした教職員からの批判をかわすため、鈴木元氏が考えた理屈は、現在の立命館を支えているのは、1966〜1969年にかけての「部落解放同盟」や「全共闘」の理不尽な攻撃に屈せず大学を守りきったことにある。この理不尽な攻撃に命をかけて闘ったのが、川本八郎理事長と学友会を指導していた私である。
  大学紛争後も一貫して立命館大学の改革を目指して奮闘してきた川本八郎理事長については、批判もあったがその役職については皆が認めるところではあったが、大学紛争後30年以上が経過した中では鈴木元氏を知らない人もおり、なんで権限の不明瞭である鈴木元氏が「暗躍」するのか、批判が相当あったと思われる。
  そこで鈴木元氏が考え出したのが、学生運動での自分の活動と、現在の立命館での役割を直結させ、同時に産学協同路線に沿った川本改革を絶賛し、川本八郎氏の神格化を図り、その彼と大学紛争時「命をかけてともに闘った私」の立命館学園に対する貢献度は、川本八郎氏と同じであるという理屈をこね回した。
  しかし権力を握った川本八郎理事長は、昔の「平和と民主主義」の理念の持ち主ではなく、すでに独裁化しており、この川本八郎氏を支える理論的根拠を大学闘争の延長戦上に位置づけるのにはあまりにも無理がある。
  こんなばかげた理由を持ち出さなかったら、彼は学生運動の闘士で、伝説の英雄でおれたのに、学生運動と現在の立命での自分の役職との関連性を無理やり位置付けたために、彼の学生運動論が極めて陳腐なものとして浮かび上がる。
鈴木氏がこの間出版した「再生を願って」「写真集」共に、当時の学生の運動を「平和と民主主義」「大学改革」の立場から書かれてはおらず、あの立命館の大学闘争の中で、川本八郎氏と鈴木元氏が如何に闘ったのかが中心テーマであり、川本八郎前理事長と鈴木元氏の二人の立命館大学における権力把握の歴史と正統性の主張をするために書かれたのではないかと疑いたくなる。
  さらに鈴木元氏の姑息さは、小畑力人氏と違い仕事で勝負しようではなく、学生運動の立役者と言う議論や、今現在も立命館の民主主義を守る旗手のような顔をして、自らの野心を実現しようとしているところである。
                                   ―110−
  しかし私は、鈴木元氏は、とうの昔に立命館民主主義を放り出し、川本八郎前理事長独裁体制維持のために奔走していたのが「再生を願って」の本当の姿だとみている。 この本を読む限りそう読み取るのは私一人ではないであろう。
  私は、以下の文書で小畑力人氏の批判は一切しない。なぜなら彼は自分の仕事の成果を見てくれと言っている。これは産学共同路線に反対か賛成かの議論はあるが、自分の成し遂げたことをつぶさに語り評価を求めているのだから潔い。
 それに対して、鈴木元氏は詭弁を弄して、自らを「立命館大学の中興の祖」のように描き出し、退職後の今も立命館大学に影響を与えようとしている。その姿は利権に群がって何かを得ようとしている姿に映り見苦しい限りだ。

5.川本八郎理事長が鈴木元氏を、なぜヘッドハンティングした?

  川本八郎氏は1995年11月理事長に就任した。この時に彼が最初にしたことは鈴木元氏のヘッドハンティングである。就任の翌年の夏には鈴木元氏に会い、その12月には鈴木元氏を立命館に就職させている。
  なぜ立命館の最高権力についた川本八郎氏が、立命館に沢山いる職員を頼らず、52歳の鈴木元氏が必要だったのか。鈴木元氏に学校経営の特殊能力があるはずもなく、川本八郎氏は鈴木元氏に何を求めたのかが分からない。
  鈴木元氏と川本八郎氏がともに闘った大学闘争は30年も前の話である。にもかかわらず川本八郎氏は鈴木元氏を必要とした。この「不思議さ」の解明が必要である。
  「再生を願って」には川本八郎氏に請われ、「川本八郎氏だから承諾した」ともったいぶって話をしているが(注8)数多いる立命館職員より、鈴木元氏はどの点で優れていたのか、川本八郎氏は鈴木元氏に何を求めたのかは一切書いていない。ここにこの就職の「不思議さ」がある。

注8:「私は『立命館以外からの話であれば即座に断ります。』、『また立命館であ
   っても川本八郎氏からの話でなければ断ります』という上で話あった。」(「再
   生」:9ページ)

  と鈴木元氏は自分が引手数多のように書いているが、共産党府委員会の専従しか経歴のない鈴木元氏(現職はかもがわ出版であったが?)をヘッドハンティングする会社があるとは思えない。この辺に鈴木元氏の自己中心的話術がある。
   

(1)川本八郎氏が鈴木元氏に求めたもの

                                   ―111−
  この当時、川本八郎氏が、小畑力人氏によって立命館大学が産学共同路線を推し進め、他の大学に比べもっとも世俗的な大学になったことに批判的であって、もう一度「建学の精神」に立ち返り、末川博先生が推し進めてきた立命館大学の教学理念「平和と民主主義」あるいは「庶民のための大学づくり」を進めるために鈴木元氏を採用したとは思われない。
 川本八郎氏は小畑力人氏が推し進めてきた産学共同路線に乗っかり、「立命館をさらに利益を上げる有力企業にする」ことについては一切批判しているとは思えない。(「再生を願って」でも小畑力人氏批判は全く見当たらず、むしろその成果を自らの成果に取り組んでいる。)
 権力を握った川本八郎氏が、今後の立命館大学をどのように発展させていきたいと思っていたのか、「再生を願って」から全くうかがい知れない。(注9)

注9:本文:97ページ「(3)末川博総長の功績(末川民主主義)を否定する『川本
   哲学』とは何か」(参照)

  基本的には、川本氏・鈴木元氏のコンビは「末川民主主義」の否定から大学改革を初めている。
 
 要するに川本八郎氏が鈴木元氏に求めたものは、立命館大学の民主的改革でなく、産学協同路線の破綻を繕い、川本八郎氏の権力の維持の為に鈴木元氏を求めたとしか考えられない。(注10)
  異例な採用をしてもらた鈴木元氏は、その恩義に報いるため、立命館学園内の反対勢力と闘うために、川本八郎理事長の神格化―彼がなぜ立命館理事長なのか―その歴史的正当性を描がき出すことで立命館内での意思統一を図ろうとした。なぜならこの神格化の基本はあの大学紛争で立命館を守ったのは、「命をかけて闘った我々二人であり」、この論理が浸透すれば、川本八郎氏の神格化だけでなく、自分の立命館大学における立場も確立するという計算が彼にはあったと思われる。

注10:学友会が指導した立命館大学の学園闘争における我々の闘いは、「大学
   に協力して」行われた。(私は納得していないが・・これについては、第三部
    「鈴木元氏の学生運動論で詳しく述べる」(本文:148ページ))    

  この当時、鈴木元氏は川本八郎氏に頼まれ(?)、我々に学生に封鎖解除の指令を出している。川本八郎氏は、困った時の鈴木元氏頼みで、大学時代を思い起こし、理事長という権力維持にまたもや鈴木元氏を使ったと思われる。

                                   ―112−
  以下、なぜ川本八郎氏は鈴木元氏を必要としたのか、いくつかの推論を書いてみる。
 

(2)考えられるのは、以下の四つのストーリーである

★第一の説:川本八郎氏の権力掌握の正当性の歴史を作る
川本八郎氏が鈴木元氏に期待したのは、川本八郎氏の権力掌握をより強固なものにするためである。おそらく末川博総長などは、学生から圧倒的人気があったが、川本八郎氏には人気が無く、学内基盤は弱かったと思われる。

  全く言い方は悪いが、権力に上り詰めた者は、自分の権力掌握の正当性の為に自分に都合のよい歴史を書き上げる。鈴木元氏もこの例に学び歴史を都合よく歪曲し、末川博先生を朝田善之助と組んで大学を危機に陥れたかのように描き出し(「再生」:40ページ)、一方では川本八郎氏を大学の自治を守った救世主と描き「中興の祖」と讃える歴史の偽造を成し遂げ川本八郎氏の期待に応えた。(「再生」:151・152ページ)
  また、「大半の立命人は、川本八郎氏とともに「立命館の成功」を自分の成功・誇りとして感じ、立命館以外の人々に語ったりしたのではなかったのか。」(「再生」:70ページ)と書いている。
  川本八郎理事長にとって、こんな都合のよい考えを持っていてくれる人間は、立命館大学の教職員の中にはおらず、まさに鈴木元氏ならこの仕事をしてくれると彼は目を付けたのである。

★第二の説:立命館の内外に起こる反対者(共産党の支持者)の抑え込みを期待した。
 権力を握った川本八郎氏はすでに昔の川本八郎氏ではなくなっている。「再生を願って」によれば、『立命館=川本』『川本=立命館』的傾向が出てきた。BKC(注11)展開のめどが立ちAPU(注12)構想が現実化したころから川本八郎氏の権威が確立し、次第に成果が川本八郎理事長個人のイニシアティブに還元する傾向が生まれてきた。」(「再生」:65ページ)と書いている。
  あるいは、「日産のCEO(注13)であるゴーン氏のやり方をほめ、労働組合を軽視する発言をしたり、「代わりはいくらでもいる」と教職員を侮蔑する公言をしはじめた。次第に教職員に対して、その場限りの人物評価で簡単に移動・切り捨てを行ってきた。そのためにしかるべき幹部がそだたなかった。急成長した組織に共通する弱点が生まれた。」(「再生」:152ページ)

                                   ―113−
注11:1994年4月に立命館大学の新しい教育・研究の拠点として開設された「び
   わこ・くさつキャンパス」(略して「BKC」)は、琵琶湖の南東、滋賀県が整備を進
   める「びわこ文化公園都市」の一角にあります。BKCでは、国際水準の「文理
   融合型キャンパス」の創造を目指し、常に新たな教育研究システムの開発に
   努めるとともに、産・官・学、地域との連携による研究、新産業の創出にも積極
   的に取り組んでいます。(立命館のHPから)

注12:2000年4月1日、大分県と別府市、さらに国内外の広範な人々の協力を得
   て、別府市十文字原に誕生した。立命館アジア太平洋大学(Asia・ Pacific・
   University)は、「自由・平和・ヒューマニズム」、「国際相互理解」、「アジア太
   平洋の未来創造」を基本理念として、世界各国・地域から未来を担う若者が
   集い、ともに学び、生活し、相互の文化や習慣を理解し合い、人類共通の目
   標を目指す知的創造の場として、建学された。(立命館のHPから)

注13:チーフ・エグゼクティブ・オフィサーchief executive officerの略で、最高経
   営責任者と訳す。アメリカ型の企業統治組織形態をとる企業における役職名
   である。

★第三の説:立命館の存亡の危機を救った功労者として特別に処遇した。
  これは全くの推測の域を出ない話ではあるが、我々立命館大学の学生運動の目的・成果はなんであったのかの問い直しを行わなければならない。
  あの当時、「部落解放同盟」が立命館大学に、東上高志氏の「東北の部落」が差別文書であると攻撃をかけてきた。これに呼応して、後の「全共闘」系学生が「大学の自治を盾にした差別は許されない」と主張してきた。この差別でもなんでもないものを差別とでっち上げ、「部落解放同盟」に大学が支配されることは、まさに立命館大学の危機だと思って闘った。さらにその後寮連合(「全共闘」)の学生の中川会館封鎖は、許しがたい蛮行だと思った。
  そしてこれら立命館大学の危機と戦う中で、立命館大学の学友会が「全共闘」系に握られていたのを、「『全共闘系の運動』に反対し、大学の自治を守る」を掲げた『民主派』側に奪い返すという成果を上げた。学生運動そのものは成功したと思っていた。
  しかし、今回「ウソとホント」というサイトを見て我々が「全共闘」によって封鎖されていた中川会館の封鎖解除の行動が、大学側の意図(指しがね)であったのか疑問に思えてきた。それはこのサイトが指摘した、封鎖解除のヘルメット・ゲバ棒それにべニア板等道具のすべてが、立命館大学側がお金を出していたとの
                                   ―114−
指摘である。
  我々は若き正義感で闘った、あの封鎖解除が、大学側が入試を行うために必要であり、大学側からの要請で行われたとすれば、我々の、命が危機にさらされた封鎖解除がなんであったのか、疑問が沸いてきた。(「再生を願って」では、最終的には1200人ほどが負傷と書かれている。「再生」39ページ)
  川本八郎氏と鈴木元氏の命をかけて闘った戦友という言葉はこれをさしているのではないか、川本八郎氏は、鈴木元氏を通じて学生運動を握り、入試実施のため、封鎖解除の指令を出したのではないか、という疑いが出てきた。封鎖解除は成功しなかったが、その後警察による封鎖解除につながっていった。
  極端に言えば、川本八郎氏と鈴木元氏は「命をかけて闘った」というが、彼らは指令を出しただけで、我々一般の学生の方が、まさしく命をかけた闘いであった。私は真っ暗闇のなか中川会館の解除に向かったが(1969/1/22)、扉は固く締められており、全く開かず、何百人(「写真集」によると800名)という人間が中川会館の前にたむろするだけの状況であった。その際「全共闘」の学生はあらかじめ持ち込んでいた墓石などを我々に屋上から投げつけ、無防備だった我々はまさに「全共闘」の餌食となった。
  私も墓石攻撃で顎の骨を折るという重症を負ったが、何の補償もなく、当たり所が悪く頭を直撃していれば、障害が残ったかもしれない。
  その後、警察による武装解除(2/20)があったが、警察は封鎖解除に必要な道具を揃え、真っ昼間に解除した。それを見て闇夜で解除することが如何に困難で危険であるかが分かった。我々は単なる「かませ犬」であり、警察導入への足掛かりとして使われたとすれば怒りに堪えない。
  つまり川本八郎氏と鈴木元氏には、この時「全共闘」の封鎖解除に対する協力関係(密約)を結んでいたこともあって、川本八郎氏は鈴木元氏の当時の社会的ポストを考慮して、自分が立命館大学の最高権力者になった以上、過去の運命共同体的連帯意識に期待して、鈴木元氏の立命館招請を考えたのではないかという推測が働く。この「全共闘」を武装解除させ立命館から追い出したことが川本八郎氏の出世を支えているのではないか?
  あの当時、中川会館は「全共闘」に封鎖されていたが、立命館の事務職員がいた研心館は、逆封鎖されており、「全共闘」の学生が出入りできないようにされていた。我々はその逆封鎖された建物内を、ヘルメットをかぶって自由に歩き回ることができた。今から考えれば、学校当局と我々は全く敵対せず仲間であった。(これが鈴木元氏のいう川本八郎氏と一緒に命をかけての中味であろう。)
  この「全共闘」の封鎖解除計画が大学側の意向で我々学生が命をかけて闘い、立命館を守ったのであるが(しかし我々が命をかけて守った立命館はすでになく、
                                    ―115−
  その時の指導者、川本八郎前理事長、鈴木元氏等が利権にしがみついている。)二人は大学側と学友会の密約を墓場まで持ってく仲間なのだと思われる。

★第四の説:学内での権力関係に配慮し、川本八郎王国の基盤を固めるため
川本八郎氏は自分が立命のトップに座ってみて、立命館の業務遂行に必要な人材にかけていることに気付き、鈴木元氏をヘッドハンティングした。これが一番公式に説明しやすい裏のない話である。しかしこれをそのまま信用する人はいないであろう。
 川本八郎氏は自分がトップに立ったものの、周りの理事がいつ反乱するか分からないという危機感を常に持っていたと思われる。「再生を願って」を読んでみれば、他の理事はボロかすに書かれている。これは川本八郎氏の意識と共有するところがあったと思われる。
  しかし結果はおそらく川本八郎氏は鈴木元氏を入れたことにより、周りの他の理事からは川本八郎氏と鈴木元氏の元共産党コンビ(?)に警戒心が起こり、他の理事に排除されたと思われる。「結局のところ一時金、退任慰労金問題を巡っての教職員の怒り、不満がある中で発生した特別転籍問題(注15)の責任を川本八郎氏一人に負わせて退任させ、長田理事長、森嶋常務、そして川口総長が自分たちの身の安全を図るとともに、学園のイニシアティブを握ろうとする一種の「クーデター的裏切り」であった。」(「再生」:161ページ)

注15:特別転籍措置問題については資料18の立命館教職員連合、立命館学園
   一時金訴訟を進める会の機関紙「ゆにおん」No.51が詳しい。該当部分を
  引用する
     「去る2008年6月4日文部科学省は、社会的な批判を受けていた生命科学
   部の定員超過にともなう特別転籍措置を、学生の教学条件に配慮してもので
   はなく、主として補助金目当てのものであり、入試の公平性に照らしても問題
   があるだけでなく、その決定手続きにおいても適切性を欠くものであると認定し
   ました。そして、法人全体への経常費補助金の25%(15億円相当)の減額処
   分が決定されるにいたりました。留意すべきは、今回の文科省の措置が、特に
   本学園の管理運営の不適切性について問題とした措置だということです。」

  鈴木元氏はこの結果をどう受け止めているのか、彼を川本八郎氏が採用した最大の理由、それは川本八郎王国の確立であったが見事に失敗したのである。(しかし、川本八郎氏は、すでに2億円強を手に入れており、逃げ切ったと思ってい
                                   ―116−
るのかも知れない。鈴木元氏はそれに対して、私はまだそれ相当の物をもらっていないと叫んでいるように見える。)
  この上記四つ筋書のどれが正しいかではなく、おそらくこの四つの筋書とも川本八郎氏の頭の中にあって、鈴木元氏の所へのこのこと出かけていったのであろう。鈴木元氏側からすれば、渡りに船である。もったいぶって引き受けたように書かれているが、やっと「密約」が報われる時が来たと「ほくそ笑んだ」と思われる。それともすでに敷かれていたレールの上を走っていたのかもしれない。

                                     ―117−

参考:川本八郎氏が成し遂げた立命館改革(立命館大学のHPから)

◆第3次長期計画(1984〜1990)
法学部が広小路から移り(1981年)、衣笠一拠点化が完成しました。また、社会の情報化・国際化の進展に鑑み、理工学部情報工学科(1987年)、国際関係学部(1988年)が開設されました。これを受けて学内の情報基盤や交換留学制度の整備等が進みました。
また、女子学生や留学生の姿も多く見られるようになり、キャンパスの雰囲気が大いに変わった時期でした。
1988年には、立命館中学校・高等学校が男女共学となり、これを機に深草校地へ拡充・移転しました。
     
◇事業費総額213億円
主な事業
1987年
・理工学部に情報工学科を設置
1988年
・国際関係学部設置
・立命館中学校・高等学校の男女共学化と深草学舎への移転・拡充
・京都国連寄託図書館設置
◇寄付実績
立命館創始120年・学園創立90周年記念事業募金(1985/4〜1991/3)
44.2億円を収納

◆第4次長期計画(1991〜1995)
1980年代後半から、理工学部の抜本的拡充が全学的な課題として浮上してきました。科学技術の高度化に伴う、教育・研究に対する社会的要請の一層の高まりに応えるためには、理工学部・大学院理工学研究科の再編・拡充が不可欠でした。しかし 衣笠キャンパス周辺には拡張の余地がなく、滋賀県草津市南部の丘陵地に新しいキャンパスを開設することになりました。

そして、1994年の春、理工学部・理工学研究科は、学科・専攻の再編拡充を果たすとともに、びわこ・くさつキャンパス(BKC)へ移転しました。同年、衣笠キャンパスには政策科学部が誕生しました。
また、附属校の複数化政策に基づき、1995年に宇治学園との法人合併により立命館宇治高等学校を開校しました。翌1996年には、慶祥学園との法人合併に
                              ―118−
より立命館大学慶祥高等学校も開校しました。

◇事業費総額662億円
主な事業
 1994年
・理工学部のびわこ・くさつキャンパス(BKC)への拡充移転
・政策科学部設置
1995年
・「リエゾンオフィス」の設置
・立命館宇治高等学校開校
1996年
・立命館慶祥高等学校開校

◇寄付実績
・第四次長期計画事業募金(1991/4〜1995/3)
45.4億円を収納

◆第5次長期計画(1996〜2000)
1998年の春には、経済・経営の両学部・研究科もびわこ・くさつキャンパス(BKC)へと移りました。社系の教学を高度化しつつ、エコノミクス・ビジネス・テクノロジーの3分野が連携して文理融合型の教育研究環境を構築することは、新時代において求められる人材育成の課題に応えることであり、社会に開かれた大学として産官学地域連携を強化していくうえでも必要でした。

産官学地域連携の代表例が、ローム記念館の創立です(2000年)。本記 念館は、ローム株式会社のご支援により、わが国に おける半導体産業の将来を担う新技術の開発と、大規模集積路分野の研究の高度化を目的としています。

同じく2000年、立命館創始130年・学園創立100周年を機に、日本 で初めての本格的な国際大学となる立命館アジア太平洋大学(APU)を大分県別府市に開学し、一期生719人が入学いたしました。

また、同年には立命館慶祥中学校を開設し、校名を立命館慶祥中学校・高等学校と改称しました。

                                  ―119−
◇事業費総額
729億円
主な事業
1998年
・経済・経営両学部のBKCへの移転
・新展開文理総合インスティテュートの設置
2000年
・立命館アジア太平洋大学(APU)開学
・立命館慶祥中学校開校

◇寄付実績
目標金額60億円に対して67.1億円を収納

立命館アジア太平洋大学正門建設募金を実施
    募金者総人数 5,284人  募金総額 101,572,869円

◇立命館大学ローム記念館創立(2000年) 
  立命館大学ローム記念館は、ローム株式会社の支援に基づき、わが国における半導体産業の将来を担う新技術の開発と、大規模集積回路(VLSI)分野の研究 の高度化を目的として設立されました。これと同時に文部省の「私立大学ハイテク・リサーチセンター」にも選定された、総面積6583平方メートルの最新の 研究装置・設備をもつ施設です。

◆2001年〜2004年度
1999年2月に大学院新展開推進本部が設置され、社会と世界に開かれた大学院展開に向けて具体的に動き出しました。

この結果、衣笠キャンパスには、2001年に本学初の独立研究科として「応用人間科学研究科」に始まり、下記の通り研究科の設置が続きました。また、「21世紀COEプログラム」に採択されたプログラムの研究の場となる最先端の教育研究施設も建設されました。

一方、びわこ・くさつキャンパス(BKC)でも本学初の一貫制博士課程の「理工学研究科フロンティア理工学専攻」、留学生を対象とし英語のみにより修了可能な本学初の「理工学研究科国際産業特別コース」(2001年)を設置しました。
                              ―120―
また、2004年には、クリエーションコアを基本棟とする情報理工学部が設置されました。さらに、産官学地域連携を一層強化し、大学と地域産業界の協力により新事業の創出・育成を目指す場として、立命館大学BKCインキュベータがオープン。多くの企業が入居し、学生に対する起業支援も行われています。
 
2002年には、立命館宇治高等学校が、現在の宇治市へ移転。翌2003年には立命館宇治中学校を開校。「スーパーイングリッシュハイスクール」および「国語教育推進校」としての歩みを進めていきました。

◇事業費総額
363億円主な事業
2001年
・応用人間科学研究科を設置
2002年
・立命館宇治高等学校の移転・新展開
2003年
・先端総合学術研究科、言語教育情報研究科の設置
・アジア太平洋研究科、経営大学院の設置
・立命館宇治中学校開校
2004年
・法務研究科(法科大学院)、情報理工学部設置

◇寄付実績
立命館アジア太平洋大学国際学生奨学金寄付をはじめ
53.4億円を収納

◆2005年〜2010年度
2006年、立命館学園本部と法務研究科(法科大学院)、経営管理研究科(経営大学院)、公務研究科(公共政策大学院)を擁する新たな学術拠点として朱雀キャンパスを開設しました。

同年、「確かな学力形成、真の国際人を育てる、豊かな感性を育む、高い倫理観と自立心を養う」ことを教育の軸とした立命館小学校を開校。学園創立者・中川小十郎が構想していた小学校の設置が、時を経て実現しました。

                                  ―121−
  また、守山市立守山女子高等学校の学校設置者が守山市から立命館学園に移管され、4番目の附属高校となる立命館守山高等学校(男女共学・普通科設置)が新たにスタートしました。翌2007年には、守山市三宅町の新キャンパスに移転し、立命館守山中学校を新たに開校しました。

  同年には、衣笠キャンパスの映像学部棟充光館が完成し、中央広場は洗練された風情の建物で囲まれました。

  また、びわこ・くさつキャンパス(BKC)では、2008年にサイエンスコアを基本棟とする生命科学部・薬学部が設置されました。その後、2010年にスポーツ健康科学部の設置に伴い、インテグレーションコア、ラルカディアが建設されました。開設当時と比較しますと、学生数・建物の数ともに当初の規模の3倍以上に成長し、現在も変革を続けています。

  同じく2010年は、立命館アジア太平洋大学が開学10周年を迎え、記念式典「APU開学10周年祭」を開催。延べ26000人が来場しました。開学から10年以上経過し、国際学生も世界97ヵ国・地域から集まり、多国籍・多文化環境で学べる国際大学としての進化を続けています。

◇主な事業
2006年
・朱雀キャンパス開設、立命館守山高等学校開校、立命館小学校開校
2007年
・映像学部を設置、立命館守山中学校を開校
2008年
・生命科学部、薬学部を設置
2010年
・スポーツ健康科学部を設置

◇寄付実績
立命館アジア太平洋大学国際学生奨学金寄付をはじめ
51.7億円を収納



                                  ―122−

第二章 鈴木元氏の川本独裁体制への役割

はじめに

立命館民主主義の破壊の為に彼がやったこと。

  鈴木元氏は、1969年当時の立命館の学生運動の実質トップ(正式には一部学友会執行委員 理論・政策担当)であり、強烈な個性を備えており(まず一見して大学生と言う雰囲気が全くなく、むしろ野人と言う雰囲気であった)、その言葉は絶対であり、立命館の学生運動に大きな影響を与えた。
  現在の共産党では、立命館出身の穀田議員が中央で活躍しているが、私は個人的には鈴木元氏こそが将来の共産党を担う人だと見ていた。大学卒業後、彼が何をしているのかは興味を持って見ていたが、共産党の京都府委員会で燻っていると聞いて、もったいないな、なぜ鈴木元氏は中央へ行かないのかと思っていた。
 最近になって鈴木元氏の近況を知ることが出来、「妻の介護と仕事」(?)及びこの文書の本題である「再生を願って」を読み、何か違うな、論点がずれているな、鈴木元氏はどうしたのかなと思い始めていた。
 インターネットで、彼が立命館の「民主化」に否定的影響を与えているらしいことを知った。さらに鈴木元氏の現在の思考が知りたくて、新刊本「写真集」1969、写真小原輝三との共著を読んだ。これらの本を読んで、鈴木元氏は学生運動を組織している頃から、すでに思想的弱点を有していたことに気付き、系統的な批判の必要性を感じた。

1.なぜ鈴木元氏は「川本八郎氏と二人で命をかけて闘った」と主張するのか?(「再生」9ページ等)


(1)鈴木元氏の出自の正当性の表明(川本八郎氏と同格と主張)

 鈴木元氏は、「再生を願って」の中で「川本八郎氏と鈴木元氏は命かけて闘った」という表現を何回も(「再生」9、14、154、286ページ)行っているが、この主張は何のために行っているのか。この主張の解明が鈴木元氏理解のカギになる。
この主張を大学闘争の総括として見れば、これほどおかしな総括はない。この総括は、52歳の鈴木元氏が立命館に採用されたことには、学内外でいろいろ批判がある。(温情で恣意的に採用された・・ニュース11号「私の意見15」(参照:資料13))
  そこで鈴木元氏は、私の採用には正当な理由があるのだ。「現在の立命館の存在は、川本氏と私の二人の闘いが、その基礎になっていると主張し、鈴木元氏の立命館での権力の行使には、正当性があるのだ、教職員はみんな川本前理事長と同じように私に畏敬の念をもって接すべきだ」と主張しているに過ぎないと私はみている。
                                    ―123−

(2)「考える会」は、鈴木元氏の「活躍」を「暗躍」と捉えている。

上記の私の判断が正しいか否かは、「ニュース15号」にその答えが掲載されている。
  「何故『平和と民主主義』を教学理念とし、全構成員自治を謳っていた立命館大学が、理事長を軸にした専断的な管理運営を許してきたのか、ということでした。そして、次第に明らかになったのは、理事長と総長の指名人事による常任理事や副総長の数が大幅に増え、学部長理事の権限縮小をはかる方策が意図的に追及されていたことであり、常務理事中心の常務会が結束して理事会を切り回している構図であり、権限の定かでない総長・理事長室長(鈴木元氏の役職名)が初芝学園など対外的な関係をめぐって「暗躍」している姿でありました。」と掲載している。これが学内の教職員の意見だ。(参照:資料14)
  これは正に鈴木元氏の登場(1996年)が、立命館を最悪なものに変えていったという主張であると思われる。立命館の教職員も鈴木元氏の登用を歓迎していない。( )内は筆者が補記した。

(3)「命をかけて闘った」は、鈴木元氏にとっては「黄門の印籠」と同じ

  この学内の反鈴木的空気に対する鈴木元氏の「黄門の印籠」みたいなものが「川本八郎氏と命をかけて立命館を守った。」と言う台詞である。その功績で川本八郎氏が理事長なら、私もそれ相当の待遇を受ける権利がある。それが貴方たちには分からないのか、私は川本八郎氏の分身である、川本八郎氏の意向を受けて私が仕事をしていることを「暗躍」なんて批判する奴は、立命館の歴史を知らない者の批判だ、と言うのが鈴木元氏の思いであろう。
 
  以下、この鈴木元氏の勘違いが立命館の民主主義を破壊し川本八郎独裁体制を支えた元凶であることを、見ていきたい。川本八郎独裁体制はいかにして作られたか、私は鈴木元氏が立命館に採用された後の仕事(思想体系)に「四つのキーワード」があると思っている。

2.川本八郎独裁体制を支えた四つのキーワード(鈴木元氏が行った事)

★第一は、大学闘争を「民主化」ではなく「正常化」闘争と捉えたこと。
        川本八郎氏の力の源泉を大学闘争に位置づけたことが誤り。
        (これは自分の出自の正当性の立証でもあったが)
★第二は、末川民主主義の否定を行ったこと。
        末川博先生が唱えてきた民主主義論(全学協同路線)を否定し、
            「部落解放同盟」との関係では、末川博先生を導入した手先と誹謗誹
                                     ―124―
            している。
★第三は、川本八郎氏が「立命館中興の祖」という正史を書き換えこと。
       具体的な川本八郎氏の功績を明らかにせず、「全共闘」追放に貢献し
            た(?)川本八郎氏の実績を褒め称えている。
★第四は、全学協働路線を破壊させたこと。
        総長・理事長推薦理事を増やし、教職員や学生の役割を否定し独裁
            体制の基盤を築いたこと(無反省である)

  この四つの視点から鈴木元氏の行ってきた事を点検していきたい。

第一の、「キーワード」

 鈴木元氏の大学闘争論(「民主化」でなく「正常化」が課題)の問題点、


 立命館大学の学園闘争は、「部落解放同盟」の大学自治への介入と「全共闘」の中川会館封鎖という二つの重要な問題が起こった。
  この二つの事案をどう解決するかが求められていたが、暴力を背景にした民主主義に対する挑戦に、立命館大学が誇る全学協同路線は機能せず、右往左往する状況が現れた。しかし、寮連合(「全共闘」)による中川会館封鎖に対しては、立命館大学五者共闘会議主催(注1)によって、「封鎖解除」1万人集会が開催され、立命館の広小路学舎の狭いキャンパスは人々で埋め尽くされ、全学の意思が示され、封鎖している寮連合(「全共闘」)にも大きな圧力となった。(1/20)
  この段階で彼らは、封鎖解除は行わなかったが、1週間(1/13〜20)軟禁いていた大学側の交渉団を封鎖していた中川会館から解放した。

注1:五者共闘会議(教職員組合・生協労働組合・生協理事会 ・一部学友会・二
   部学友会)

  これ以降いかなる闘いを組織していくかが重要であったが、鈴木元氏が指導する立命館学友会は、封鎖解除を実力で行う方針を決定し、まさに1万人集会の翌々日(1/22)封鎖解除に突入した。結果論でもあるが、「この選択が大きな誤りであった」と私は、現状では認識している。
  この「実力」主義に走った思想的背景は、学園闘争の課題が立命館のさらなる「民主化」であったのに、「正常化」と位置付けたことにあると思っている。この二者択一論をとったところに学友会の大きな間違いがあり、本来は「正常化」か「民主化」かの選択であたのでなく、当面の緊急課題としては「正常化」を優先し、「正常化」を成し遂げたあとに「民主化」をやりにくという方向性を学友会
                               ―125−
が確立すべきであった。(注2)

注2:この当面する課題は「正常化」か「民主化」の選択にあたって、学友会は民
  主的な議論を重ねたのか、それとも川本八郎氏によって学校側の要望が伝え
  られ安易にそれに迎合したのか、歴史的検証が必要である。

  鈴木元氏が指導する学友会は、立命館民主主義に一早く見切りをつけ、実力で封鎖解除に乗り出すが失敗し、多数の負傷者を出し、その結果に驚き、警察権力による封鎖解除に舵を切っていく。鈴木元氏の思い通りに警察の力で封鎖は解除され(中川会館の封鎖解除は2月20日)、たが、しかしその後も「全共闘」は封鎖行動を繰り返し最終的に封鎖解除して「全共闘」が追放されたのは5月20日である。立命に表面的な平和は戻ったが、事態は何も変わらなかった。
  その後何十年かが経過し、立命館大学は、「末川民主主義」を葬り去り、一部幹部の独裁化が進み、我々が在学していた時の「学生が主人公」という学風がなくなり、教授会等もイエスマンの集まりとなり(「再生」:291ページ)、「平和と民主主義」の立命館は過去のものになってしまった。
  これは、「民主化」の課題を見失い、「正常化」を課題としたが、その実現のために暴力には暴力でと短略的に対置したため、立命館民主主義の役割が見えなくなってしまった。
  「再生を願って」でも、暴力の前には何ら有効な働きをしなかった立命館民主主義を過小評価する姿が目立つ・・(自らの闘い方の反省抜きで)
  しかも、一番重要なことは、その後の立命館民主主義の破壊を推し進めた者が、学園闘争の立役者であった小畑力人氏、鈴木元氏と命をかけて闘った川本八郎氏であったことが、皮肉である。
  この誤りを生み出したのは、無法な暴力に対して、実力(暴力)で打ち勝とうとしたことであり、立命館の教職員や学生に依拠して闘うことの重要性を見失ったことにある。立命館民主主義の重要性を理解せず、「全共闘」と対等に武力で渡り合った運動論の中に、この誤りの芽があった。
 鈴木元氏の大学闘争論の誤りは「第三部 第一章 鈴木元氏の学生運動論」(本文:148ページ)で詳しく説明する。

第二のキーワード

  「東上問題」で末川博総長を朝田氏の手先と描き出したこと


 鈴木元氏は、東上問題で朝田善之助氏が立命館に抗議行動を起こしたのは、予
                                 ―126−
め朝田善之助氏と打ち合わせの上での行為であったと一方的に決めつけ(「再生」40ページ)、末川博総長の名誉を傷付けた。これは川本八郎理事長と鈴木元氏の役割を大きく見せるための詐術である。
以下「再生を願って」の中から鈴木元氏の言動を拾ってみる。

(1)東上問題は、朝田善之助氏と末川博氏が示し合わせた事件(鈴木氏)

@ 「この事件では、最初から『部落解放同盟』委員長の朝田善之助氏と立命館総長末川博の間で話がついていた推察される。だからこそ最初に『末川博総長預かり』とされたのである。」
   「『部落解放同盟』が立命館に攻撃している最中に開催された『部落解放同盟』主催の第一回部落解放研究集会(1967年)で、末川博総長は記念講演を行っていた。そして1969年に刊行された朝田善之助著『差別と闘い続けて』(朝日新聞社)の帯に、末川博氏は『40年来の友人』として推薦の言葉を寄せている。そのような中、部落問題研究所の1970年の夏季講座(京都会館)が朝田善之助に指示された約400名の暴力集団によって襲撃され30数名の重軽傷者を出す事件が起こった。」(「再生」:40〜41ページ)
  「末川博氏は『滝川事件』(京大事件)(本文:98ページの注2参照)において政府からの干渉に対しては闘った。民衆運動を装っていた『部落解放同盟』からの「大学の自治の名による差別体質はゆるされない」とする主張には闘えずに応じたのである。
 「そうした判断には、『国家は悪』『民衆運動は正義』とする考え方が、強く反映していた。」(「再生」:40〜41ページ)

A 慰労金、足羽問題で「これは、どう考えても異常である。しかもいずれも『川本八郎理事長に関わった問題』ということで遠慮があった。個人的権威主義と闘えなかったのである。『部落解放同盟』による立命館への介入は、当時の末川博総長が『部落解放同盟』委員長の朝田善之助とあらかじめ妥協した上での行為であった。当時、末川博総長のその行為(朝田氏との出来レース)を知っていても、公然と批判する人はいなかった。私たち学生は知らないが故に、また何の利害関係がないが故に戦えた。」(「再生」:290ページ)

 この2つの文書を読めば、大学の自治を守る上でも重要な闘いであった、「部落解放同盟」による介入が、末川博総長と朝田善之助氏の間で予め話し合われ演出した事件であるかのように鈴木元氏はなんの根拠も無く断定している。
  この朝田氏と末川博総長の了解事の事件と戦ったのが、川本八郎氏と鈴木元氏であったと総括し、いつの間にか末川博総長を乗り越え自分が立命館民主主義の
                              ―127−
体現者のような態度を取っている。これこそが鈴木元氏の最大の欺瞞点であり自己中心主義の身の程知らずの人間であることを示している。以下この二つ文書の問題点を指摘する。

(2)上記@、Aの文書に対する反論(鈴木元氏の末川博総長批判の問題点!)

 
★第一に文書@の「末川預かり」になった!
「末川博総長預かり」になったことを、「朝田氏と末川博総長の出来レース」の根拠にしているが、末川博総長預かりが、なぜ朝田善之助氏と末川博総長との出来レースの根拠になるのかは立証されていない。「考える会」ニュース39号(参照:資料12)名誉教授 須田稔論文によると「これは、大学は『同和教育』の担当者の推薦を従来通り文学部教授会に依頼した。しかし、文学部教授会は大学教授会が同和教育を総括するように求めて、依頼を応諾しなかたので、講師未定で後期開講とし、あわせて、この事態についての見解をまとめるように各教授会は要請された。」(注2)その間の状態を「末川預かり」と表現したものだと思われる。

注2:なおこの時の文学部教授会の部長は林屋辰三郎氏であり、文学部に
     は部落問題研究所の初代理事長の奈良本辰也氏理事の林屋辰三郎
     氏がおり、二人とも研究所内では朝田善之助氏を支持する立場をと
     っていた。おそらく彼らが同和教育の講師の選定を妨害したものと
     思われる。

★第二に文書@の後半部分のである。(この文書は正確性の意味で問題がある。)
 朝田善之助氏が「部落解放同盟」の中でどのような位置を占めていたのかが正確に語られていない。鈴木元氏の文書はすべて、「部落解放同盟」委員長と朝田善之助氏の肩書を付けているが、この当時京都の部落解放同盟は分裂し、朝田氏の組織での位置づけは微妙である。朝田氏が「部落解放同盟」の中央委員長になったのは、1967年3月4日である。(立命館への介入は1966年からである。)
  また、「部落解放同盟」が民主勢力でなく、同対審答申を利用して、排外主義と物取り主義に走り、統一戦線破壊集団として全国的に認知をされたのは1969年12月の「矢田事件」以降であった。
 「部落解放同盟」主催の第一回部落解放研究集会(1967年)で、末川博総長は記念講演を行っていた。そして1969年に刊行された朝田善之助氏の「差別と闘い続けて」(朝日新聞社)の帯に、末川博氏は「40年来の友人」として推薦の言葉を寄せている。」ことを根拠に末川博総長があらかじめ朝田氏と気脈を通じていたという主張には根拠がなく、これらの事例が必ずしも、末川博総長が
                  ―128−
朝田善之助氏とあらかじめ打ち合わせしてこの事件を起こしたことを立証することにはならない。(「部落解放同盟」の全国大会で共産党の挨拶が拒否されたのは、1969年24回大会である。)

★第三は文書Aの立命館の良識派は、末川博総長に追随し批判できなかった。
 これも鈴木元氏の全くの言いがかりであって容認できない。
「当時の末川博総長が「部落解放同盟」委員長の朝田善之助氏と、あらかじめ妥協した上での行為であった。当時、末川博総長のその行為を知って、公然と批判する人はいなかった。」(「再生」:290ページ)という鈴木元氏の独断は、確信犯的に末川博総長の名誉を傷つけている。立命100年史を読めば、立命館学園は末川博総長の専制体制でなく、各級機関で民主的に協議され、立命館としての対応が行われていることがよくわかる。(参照:資料11-2)
  何ら実証的な証拠を示さず、日本における平和と民主主義の良心的実践者である末川博総長を誹謗・中傷することが許されるのか、いくら言論の自由といえどもやっていいことと悪いことがある。立命館で学んだ学生として、この断定的な言い方は絶対に許せない。
 鈴木元氏は川本八郎理事長が独裁化して誰の話も聞かなくなったと主張しているが、末川博総長も同じ体質だと決めてかかって、末川博総長一人が「東上問題」を左右したかのように描き出そうとしているが、事実はそうでは無く、朝田氏が率いる「部落解放同盟」の攻撃を受けた際、立命館民主主義は十分に機能していた。
  鈴木元氏は朝田善之助氏率いる「部落解放同盟」との闘いの成果を、川本八郎前理事長と自分に独占したいがため、他の人の努力や闘いは評価していない。
  例えば教授会では、産業社会部の教授会の議論経過が、「部落解放同盟」支持派であったN教授よって朝田府連に持ち込まれ、産業社会部教授会は集中的に糾弾されたが屈服はしなかった。この経過については、先に引用した須田論文で触れられているが、当時の産業社会部教授会の奮闘を立命100年史は評価されていないと苦言を呈しておられる。「ニュース39号」でリアルに報告している。(参照:資料12)


第三のキーワードは

 川本八郎氏が「立命館中興の祖」というように正史を書き換えた事


(1)今日の立命館があるのは貴方の役割が大きい

                ―129−
  「再生」:151ページ『C川本八郎氏の歩んできた道』で、「大学紛争を経て、彼(川本八郎氏)は立命館のために文字通り寝食を忘れて奮闘してきた。私は川本八郎氏と二人で話をしていた時、度々次のような趣旨のことを言ってきた。」
 「今日の立命館があるのは貴方の役割が大きい。今でも私は、貴方は『立命館の中興の祖』であると思っている。(当時はそのように思っていたし、周りにも言っていた)。貴方の才能と努力が決定的であったが、大学紛争での役割が大きいと思う。あの極限状況の時、貴方はたまたま学生課に居て、紛争の入り口となった学生寮の担当者であり、かつ教職員組合の副委員長も務めていたので、大学の対応においてイニシアティブを発揮できた。いくら才能があっても「財務課の職員」(注4)で組合の中心役員をしてなければ、あのようなイニシアティブを取れなかった。」

注4:本文:158ページ(2)川本八郎氏と鈴木元氏はどのような共闘関
     係であったのか?

(2)川本八郎独裁体制を作った男

 この鈴木元氏の洗脳により、川本八郎氏の独裁者的体質をますます増長させていったのではと思っている。また周りも鈴木元氏が「川本天皇」にはそれなりの理由があると吹聴しまくっている(上記文書・・周りにも言っていた。)ので、川本氏を批判することは「やばい」という空気が醸成されてきたのだと思われる。

 私はこれを指して、鈴木元氏を、川本八郎独裁体制を作った男と称している。なぜこんなことをやったのか、それは、鈴木元氏は、あくまでも川本八郎氏の私兵であり、川本八郎独裁体制と、立命館大学での彼の権力が直結していたからである。極端に言えば、「鈴木元氏の言葉は、川本八郎氏が言っていることと捉えろ」位の強引さで立命館大学をひっぱりまわしたのではないかと思っている。
 さきのニュース11号「私の意見15」(参照:資料13)はそのことを、「強力なエンジンに(確認)つけかえて驀走・暴走しはじめた。」と書いている。またニュース15号の「私の意見」(参照:資料14)では、「権限の定かでない総長・理事長室長が初芝学園など対外的関係をめぐって「暗躍」している。」と書いている。
 鈴木元氏は認めがたいと思うが、これが立命館に働く教職員の貴方に対する意識である。



                 ―130−

第四のキーワードは、

        全学協働路線を破壊したこと


(1)全学協議会制度を批判し、川本八郎独裁体制を支えた男

 まず立命館大学の卒業生であれば、立命館民主主義という言葉と末川博総長とはほぼ同義語に捉えていると思う。全国の大学に先駆けて、「全学協議会制度」を導入し「学園の民主化」に努めた。(注5)

注5:全学協議会とは、理事会・教授会・学友会・教職員組合などのすべ
     ての学園組織と学生の代表を加えた協議機関。学園運営の重要事項
     の合意を形成する場。
   当時の立命館大学にあった学生参加の協議機関は上から3段階あっ
     た。
     
     ★全学協議会…理事会、教授会、教職員組合、学友会
     ★学園振興懇談会…各学部長(理事)、教職員組合、学友会(自治
        会)、学院生協議会
     ★学部五者会談…学部長、教学主事(教務担当教員)、補導主事
      (学生担)、事務長、学部自治会代表

 私たちは朝田善之助氏が立命館大学に攻撃を仕掛けた際も、全学協議会を傍聴することで学園の抱える課題をつぶさに見ることができ、その当時の大学の自治を我々自身が守るのだという気概に燃えていた。(ここに立命館民主主義の良さがあった)(第一部 4.「部落研」の会員として成長した姿が見える(高野悦子さん)本文:12ページ参照)

@ 立命館民主主義の基本である全学協働路線を否定し始めた
  ★ボトムアップより、トップダウンを重視する
 しかし、鈴木元氏は自らが権力の側に立つと、それぞれのパート代表(学生や教職員、生協など)が集まり学校の運営に参加するという方針(全学協議会の役割)を批判し始めた。
 「再生を願って」に「(2)新しい学園運営の改革を求めての模索」@「トップダウン」と「ボトムアップ」という項目がある。ここで鈴木元氏は、「大学運営では明らかに従来のままでは通用しなくなってきた。つまり国際的趨勢を考慮に入れながら文教政策の変化をつかみ、自分の大学が抱える問題と結びつけて改革を進めることが必要となった。」(中略)
               ―131−
  「先に示したように臨時職員の恒常化、夜間部改組、国際協力事業の展開、競争的資金の獲得のような改革は、実践においては現場の教職員に依拠して進めるのであるが、文教政策と自大学が置かれている新しい状況の下では、改革方向を指し示す原案提起は大学トップが行い。全学討議の中で豊かにしていく方法を取らざるを得ない。」(「再生」:90〜91ページ)

A 全学協働路線は時代遅れ、学部指導部でなければ、改革案は提起できない
「その全体状況を掌握している学園指導部でなければ、学園全体の次の重点を押さえた改革案を提起できなくなりつつあった。それを一般的なボトムアップ論で批判するのは無理になっていた。」(「再生」:92ページ)
 
ここでは明らかに鈴木元氏は、末川博総長が唱えた全学協議会方式(教職員や学生に依拠して学校運営をやっていく)という思想は時代遅れになっていると主張している。「学部指導部でなければ。学園全体の次の重点を押さえた改革を提起できなくなった。」と主張し、立命館民主主義の根幹である、全学協議会方式がすでに時代遅れになったと批判している。

(2)「四天王」の話はよく出てくるが、学生や教職員の動きは出てこない。

  「再生を願って」を読んで一番不可思議なのは、立命館民主主義の根幹である全学協働方式のそれぞれパートナーの活躍が全く報告されていないことである。
 鈴木元氏は、立命館大学は川本八郎相談役と自分その他森嶋常務や、長田理事長、川口総長などで運営している。その事しか頭にない。しかもこのトップ四人「四天王」のうちで評価できるのは川本八郎相談役だけであり、後の三人は足を引っ張っているだけというのが鈴木元氏の構図である。
 これを見ていると、結局鈴木元氏は、立命館民主主義から最も遠い人間になったことが良くわかる。
 しかし鈴木元氏は立命館を追放されてから、この三悪(森嶋常務、長田理事長、川口総長・・鈴木元氏のいう三悪であるが)と闘うために、「考える会」などに手紙を送り連携を求めている。
 今まで無視していた団体を、自らの復権のためには利用しようとする鈴木元氏のしたたかさにはあきれ返る。
 わたしの見たところでは、「考える会」はこうした鈴木元氏の傍若無人の振る舞いに、怒らず、共闘体制を必ずしも否定していないように見える。それはそれで考えがあるのだと思うが、私から見れば「それで本当に良いのか」と少し疑問が沸く。
                 ―132−
 「考える会」は鈴木元氏に甘いが、同じ学園に生活し、主役である学生が何を求めているかに関心を示さない鈴木元氏の言動は、「もはや民主主義に対する感性はすでに葬り去っている」と言わざるを得ない。

3.以上の4つのキーワードから見えてくるのは?


(1)川本八郎氏の独裁思考は1966年からor2005年から

 ここでの重要な問題は、立命館の問題点がいつから始まったかである。「考える会」の投稿者は、上記ニュース11号(参照:資料13)で「80年代の前半からの情勢と共に立命館が熱病にうなされていく様を描いている。取り分けて90年代後半くらいからは強力なエンジン(鈴木元氏)につけかえ驀走・暴走しはじめた。」と指摘している。( )内は筆者が補記
鈴木元氏は、その起点を2005年の一次金カットにおいており、「立命館の驀走・暴走」を自分と関係が無い様に演出している。(「再生」:64〜65ページ)

  鈴木元氏や川本八郎氏の最大の勘違いは、立命館大学の卒業生も、在校生も、教職員も、立命館学園が産学共同路線で成功し、積立金(内部留保金)が1000億円たまったことを成功と評価しているのでない。鈴木元氏や川本八郎前理事長は立命館の運営を完全に企業論理で捉え、5万人規模に成長した(「再生」:96ページ)ことに酔い、そのお金の一部をもらって何が悪いのかと居直っているが、現役の学生は授業料の高さに苦しみ、あくせくしているのに、「退職金も含めて2億数千万円を得るのは常識を外れている。」と批判している。(資料7:産業社会学部決議「学園の民主化」を求める決議「願い」2007年6月28日 )
 在校生や教職員及び卒業生が願っている立命館は、末川博先生が打ち立てた教学理念であり、また庶民の大学としての立命の良さである。昔から立命館は京都市民に愛され「りっちゃん」と呼ばれていた。そのような学園づくりこそが求められているのである。
そういう点では、鈴木元氏は、産学共同路線の推進の中に地域から起こる反対運動も無視していた。(参照:資料2)

 拡大路線を繰り広げる中で、様々な問題を起こしているが、それらの声を鈴木元氏は「再生を願って」の中で全く伝えていない。ここに鈴木元氏の最大の弱点がある。まさに立命館民主主義の否定である。
 

(2)学生の存在を中心に据えない再生論は、何ら意味をなさない。

 おそらく鈴木元氏は、私の鈴木元氏批判に対して烈火の如く怒り、全面的批判
                 ―133−
を投げ返してくると予想されるが、しかしいくら鈴木元氏が「私の言うのは言いがかりだとか、自分の主張を歪曲している」と主張しても、鈴木元氏の「再生を願って」の中に一番大切な「学生」が全く出てこない状況からは、こう判断せざるを得ない。
  「再生を願って」からは、鈴木元氏の関心が、末川博先生の批判と立命館の「四天王」の批判に費やされ、立命館という学園で学生の学ぶ権利をどう保障し、どう育てていくか、また彼らの主体的な主張をどう受け止めていくか等にはまったく関心が無いことがうかがわれる。
  鈴木元氏の主張は「お金」と、「権力闘争」だけである。この主張と「再生を願って」の関連性をぜひ明らかにしていただきたい。
 さらに学園の主人公である「学生」の動向(各自治会・学部の決議等)に全く触れなかったのはなぜか、川本八郎前理事長の口癖である「学生が見えなくなったものは学園を去れ」という言葉をどう理解しているのか、ぜひその視点からの反論をお願いしたい。
 鈴木元氏の敗北はすでに明らかである。そのことを象徴するのが、2008年7月15日開催された「立命館の危機を克服し新たな学園創造をめざす大集会」において「立命館大学歴代学友会中央常任委員会による声明」の文書がある。 この文書は歴代の学友会中央常任委員長が賛同人として、1995年〜2007年までの委員長誰ひとり欠けることなく13人が名を連ねている。この1995年という年は、川本理事長誕生の年であり2007年は川本理事長が相談役に退いた年である。
 声明は、「最大の危機は、トップダウン・経営至上主義な姿勢により、学園執行部が学生・教職員を軽視し、こうした一連の事態に対し、学園の全構成員が連帯できていない事ではないでしょうか。
 今こそ、民主主義的学園運営の伝統の力を発揮するときです。大学理事会は、学生大会などで決議された学生の思いに耳を傾け、学園の民主的運営に最大限の努力をすべきです。」と書かれています。
  さらに「戦後立命館が、どんな困難な状況も打ち破り、『学生のための学園づくり』の到達を築けたのは、学生・院生・教職員をはじめとした全構成員自治の土台があったからです。『未来を信じ、未来に生きる』学生を多数輩出してきた大学のOBとして、今日という日が、全構成員の力で『新たな学園創造』をめざす第一歩となることを願って、声明とさせていただきます。」
 鈴木元氏は川本理事長の変質を2005年としているが、1995年から2007年までの学友会委員長が連名で声明を出したということは、立命館の危機は川本理事長と鈴木元氏のコンビで作り出されたと認識されていることは明らかである。

                   ―134−

第三章 川本八郎氏と鈴木元氏の大学改悪における功罪


1.川本八郎前理事長の実績は「功罪相半ばする」のか?

 鈴木元氏は川本八郎前理事長の功績を全面否定する人がいるが、川本八郎前理事長の功罪が相半するのであり、全面的に批判するのは正しくないと主張している。では「功」の時時期はいつまでか、またその内容は何か、「罪」はいつからか、またその内容は何かを見ていく必要がある。

(1)川本八郎前理事長の「功」「罪」・・鈴木元氏の主張

鈴木元氏は、川本八郎前理事長は功罪相半ばしており、私は彼の「罪」に気が付くのが遅かったと反省することで、自らの責任の回避を狙っている。
  以下その部分を引用する。「川本八郎前理事長時代を『全面否定する傾向』がある。私はそうは思わない。彼には功罪がある。大学紛争の『正常化』にあたって大きな役割を果たし、大学紛争を『正常化』した全学の力と団結に依拠して改革を進め、ようやく多くの点で10私大に追いつき、立命館の社会的位置を今日あるところまで到達させた点で、彼の功績はきちんと評価しなければならない(功の部分)と思っている。しかし本文で詳しく叙述するように、次第に改革を全て自分の成果とみなすような態度をとるようになり、一時金カットのような反労働者的行為、自らの慰労金倍加にみられるような学園を私物化する傾向を示し、学園に混乱をもたらした」(罪の部分)(「再生」:15〜16ページ)と書いている。( )内は筆者が補記した。

  この文章を整理しておくと
★川本八郎前理事長「功」の部分は
 @大学紛争の「正常化」にあたって大きな役割を果たした。
 Aその後、大学改革を推し進め多くの点で10私大に追いつき、立命館の社会的位置を高めた。
★川本八郎前理事長の「罪」の部分は
@ 一時金カットのような反労働者的行為
A 自らの慰労金倍加に見られるような学園を私物化する傾向が強まった。
 と主張しているように見える。

しかし
ア.「功」の部分の大学の「正常化」に大きな成果があったという主張は、鈴木元氏が言っているだけであって、我々一学生であった者にはその内容が分からない。さらには、大学改革を進める上で大いに貢献したと言われるが、それは産学共同路線で、大学運営(経営)で利益をだし、1000億円の積立金(内部留保金)
                 ―135−
を生出したことを指していると思われるが、なぜ、立命館大学の教学理念である「平和と民主主義」に照らしてみて、功績が語れないのか不思議である。
 
イ.逆に「罪」の部分では、一時金と慰労金の問題は掲げているが、一番大きな「罪」はそれでなく、立命館の教学理念を投げ捨て、学内に混乱が持ち込まれたことである。
 2008年7月28日(火)新聞赤旗の記事であるが立命館大学はいま「教学優先へ大学人の取り組み」という大見出しを掲げ、中見出しで「学生軽視に批判」と書き以下の状況が報告されている。(参照:資料2)
 この問題をめぐり(一時金・退職慰労金など)、文学部、産業社会学部、国際関係学部、映像学部の各学生自治会が、学生大会などで「特別決議」を採択し、「学生を軽視し経営主義の判断をしたことは立命館学園の社会的信頼を失墜させた」(文学部自治会)、「経営優先の運営をしてきた理事会は大きく方向転換を」(国際関係学部自治会)と指摘し、学園指導部の「退陣」を要求するに至っています。また、多くの学部教授会で同趣旨の「教員団決議・声明」が採択されている。
 この事態を作ったことが「最大の罪」であるが、「再生を願って」ではこの学部自治会や学部教授会の決議や声明を全く無視している。なぜ鈴木元氏はこの「学内の声」を平然と無視できるのか、それはすでに鈴木元氏の頭の中では末川民主主義を放棄し、自分の理論「大衆運動は善」「国家権力は悪」という既存の概念を否定し、ボトムアップでなく、トップダウンが正しいという独りよがりの論理に支配されているからである。

2.川本八郎氏は堕落したが、鈴木元氏は立命館民主主義の旗手か?

     =川本八郎への批判は、鈴木元氏自身の責任回避のため=
 鈴木元氏は、川本八郎前理事長は功績もあるが途中から堕落したと指摘し、現在は、川本八郎前理事長への批判の立場を取っていると自分を弁明しているが、果たしてそれは本当かを「再生を願って」の主張から検証してみたい。

(1)混乱の原因は一時金のカットと高額な慰労金

 混乱の中で(「再生」:11ページ)「川本八郎氏のイニシアティブで2005年、一時金カットが強行され、2007年、川本八郎前理事長並びに長田総長の常勤役員退任慰労金支出とかかわって支出基準が倍加され、学園は混乱し始めた。(注1)その後、私は2007年の夏、長田理事長に『これ以上の混乱は避けるべきであり一
                 ―136−
時金の問題については和解すべきである』と進言した。」また慰労金の問題では(10)「慰労金問題」の解決を巡って、長田理事長に辞職を勧告という見出しで、「長田理事長は辞任、森嶋常務は解職すべきである」と以下の趣旨の進言を文書で行った。(「再生」:185ページ)と書いているが、このような主張が通るはずがなく、立命館の混乱問題を権力争いの次元に載せて、森嶋常務、長田理事長の首を取って一気に頂点に上り詰めようとしたと私は見る。

注1;「再生」の146ページ(3)「退職慰労金」問題という章がある
     が、此処で「2008年3月23日に開催された理事会において、森嶋常務
     から2人の退職慰労金の提案があった。」という記述があるが、おそ
     らくこれは2007年の間違いであろう。(インターネットのWikipedia
     で川本八郎氏という記事があるが、07年4月1日常任相談役就任。退職
     慰労金として、従来の倍額に当たる1億2千万円を受け取るという記述
     がある。)

 それよりも面白いのはこの1億2000万円の根拠だ。鈴木元氏が川本八郎氏と長田氏に「なぜあのような提案をされたのですか」と聞いた際に、長田氏は「あれぐらい功績のあった人物に1本(一億円)ぐらい出すのは必要だと思った」、川本八郎氏は「長田もいろいろ問題(個人的な問題)を抱えている。2000万円ではかわいそうや、せめて4000万円くらいは出してやる必要があると思ってやった。ただその方式でやったら勤務年数が長い私が1億円を超えてしまった。」と答えたと書いている。(「再生」:148ページ)ところが「E初めての事でなかった」では、「一般職員規程の倍額を超える7千数百万の退職金をうけとっていた。したがって今回の倍額提案は、決して「長田氏の事を思ってやった結果が自分には・・・」という面だけでなく、川本八郎氏自身の中に「私はそれぐらい貰える資格がある」との思いが強くあったと推察される」と書いている(「再生」:154〜155ページ) 
 川本八郎前理事長の倍額取得には前科があった。(この不当利得は1億円に登る。)今日ならこの現状を捉えて「倍返しだ!」という言葉(批判)が投げかけられるところである。

(2)鈴木元氏の反乱の時期は、川本八郎前理事長が相談役に退いた後

 鈴木元氏の川本八郎前理事長に対する公式の反乱が2007年の夏以降であるのは、2007年2月1日付で長田氏が理事長に就任し、川本八郎氏は理事長を退任し相談役(理事)に就任、川本八郎氏のイニシアティブで出来た川口総長、長田理事長、川本八郎相談役、森嶋総務担当常務理事という体制は、「川本八郎氏が当面相談役(理事)として『院政』を引くための体制であった。これが立命館の指
                 ―137−
導部機能崩壊の始まりであった。」(「再生」:145ページ)で明らかなように、鈴木元氏自身の出世の道が閉ざされたことと明確に符号している。
  鈴木元氏は、川本八郎理事長の退任も賛成でなかったし、退任にあたっての4人組(「四天王」)の選定にも気に入らなかった。D誤った後任人事で「理事長川本、総長長田のコンビは一定の役割を果たしたが、およそ理事長にはふさわしくない長田氏を理事長にすえたり、いまだ未知数であったが、自分の家の前に引っ越してきて取り入ったような態度を見せた森嶋氏を京都大学コンソーシアム(京都の大学が連合した共同組織)から中途採用し、大学の根幹である教学部や、また今日の重要課題である国際部などの現場も経験させずに総務担当常務にしたりするなど人物評価・人事政策においては根本的な欠陥を露呈した。」(「再生」152ページ)と書いている。
  鈴木元氏は、川本理事長あってこその鈴木元氏の役職であることを理解せず、川本八郎氏の理事長退任にあたっては、「四天王の一角」に自分が位置付けられることを彼は期待していたと思われる。(こんな奴らが立命のトップを構成してなぜ私が採用されないのかという鈴木元氏の口惜しさが滲みでた文書である。)

(3)鈴木元氏の自己弁護と反撃

 彼はこの「四天王」がしでかした不始末(一時金カットと慰労金問題)で巻き返しを図り、自らが立命館大学のトップに躍り出ようと画策している。鈴木元氏が盛んに言う、「命をかけて立命館を守った同志」という言葉は、命をかけた闘った戦友よりも、外人部隊(京大の森嶋氏)を重視するのですかという川本八郎氏への圧力(脅し)の言葉でもある。
 「再生」の15ページで鈴木元氏は、川本八郎氏の失脚は鈴木元氏も同罪という批判に対して先制攻撃を行っている「鈴木元氏は総長理事長室長として、川本八郎氏を支えてきた事を自己批判すべきである」とする意見があるが、この主張は間違っていると反論をしている。(注2)その主要な内容は、川本八郎氏の功罪論であり、私(鈴木元氏)は、川本八郎氏の「罪の部分」については、気が付かなかった、あるいは見逃してしまったと自らの責任を回避し、川本八郎氏の「功の部分」を支えてきたと演出している。
 例えば「私の前では言わなかったが、(という説明をつけて)職員の前で日産のゴーン氏を褒め称え、「重役といえども泣かすまで詰めているとか」「お前らの代わりはいくらでもいる」「辞めたい奴はいつでも辞めろ」等の暴言を吐くようになって行った。」と書いている。(「再生」:66ページ)

注2:本題からずれるが、この文書の中にも鈴木元氏の人柄がうかがわれる。
               ―138−
 鈴木元氏は末川先生を引用する際「『末川は』と呼び捨てにしている」(「再生」:31ページ)ところが自分の引用には『鈴木氏は』と敬称を付けている。通常自分の引用には敬称をはずし『鈴木は』と書くべきである。些細なことであるが周りが見えなく、自己中心的にしか物が見えない典型的な事例だ。

3.川本八郎前理事長の「罪」の部分のさらなる検証

(鈴木元氏に責任はないのか)
 鈴木元氏は、川本八郎前理事長の「功」は自分と命をかけた闘いを掲げ、「罪」の部分は一時金のカット及び慰労金の問題を挙げている。
 鈴木元氏はいつから、一時金のカットを反労働者的行為と自覚したのか、また慰労金問題を何時から私物化と位置付けたのか、全く分からない。本文ではこの両方とも川本八郎前理事長の立場を支持している。

(1)一時金問題

 例えば、再生:128ページに「1977年の夏の一時金に「年間6.1か月プラス10万円」という額を聞いて、私は改めて「これは問題である」と思った」(貰い過ぎ)と書いている。さらに「再生」:129ページで、「私は、予てから、一時金の月数を減らし、減らした分を何らかの形で再配分して、年棒は維持する工夫をすべきでないかと思っていた。」と書いている。さらに、「再生」:130ページでは、「私は、基本給プラス研究や教育の実績に基づく評価を支給するという考えは一般的には必要だと思っていたし、現在もそう思っている」と書いている。

(2)慰労金問題

 つぎの慰労金の問題であるが、「再生」:150ページに「政策には絶対的真理などない、相対的真理である。私は一般論として長田氏、川本八郎氏にそれぞれ4000万円、1億2000万円の退職慰労金を支給することが「絶対的に間違いである」とは思わない。」と書いている。
 また「『退任慰労金』問題については、『川本八郎氏の功績を考えた場合、1億円ぐらいはあえて高すぎるとは言えないのではないか。手続き的には常勤役員の報酬並びに慰労金は理事会で決めるものであるから、あえて違法とは言えないだろう』と語っていた」(「再生」:153ページ)
 このように鈴木元氏の書いた川本八郎前理事長の「罪」は、鈴木元氏もすべて承認していた案件である。一時金のカットと評価制度の導入などはまさに鈴木元氏の主張そのものであり、鈴木元氏は否定しているが、鈴木元氏の案が採用され
                 ―139−
たのではないかとすら思われる。(鈴木元氏が川本八郎氏の耳元でささやいたのを、川本八郎氏が取り上げたのではないかと思っている。)

(3)鈴木元氏は川本八郎前理事長の「罪」を暴き、なぜ批判し始めたのか

  鈴木元氏が敢えて川本八郎前理事長の「罪」について語ったのは、立命館から追い出された鈴木元氏を、もう川本八郎氏は後ろ盾になってくれない。今度は「立命館の教職員組合」や「考える会」の支持を取り付けひと暴れしようという魂胆があることが見て取れる。
 「再生」の168ページに(6)「迎合」ポーズというのがあるが、この指摘通りの間違いを犯している。

4.立命館学園を混乱に陥れたものは誰か

 以下「再生を願って」にもとづき、立命館学園を混乱に陥れた元凶は誰か(鈴木元氏はだれと主張しているか)についておさらいをしておく。
 鈴木元氏の主張によれば、2005年の一時金問題、2007年の慰労金問題で学園は混乱させられるとともに、@過去を清算していく傾向が生まれたり、混乱を作り出した人間が自らの保身のために、清算に迎合したり、A逆に「名誉回復」のために「成果」を急ぎ、ずさんな提起を強引に行い余計に学園に混乱をもたらした。(「再生」:107ページ)
 と書いて、今日の立命館学園の混乱をもたらした犯人探しをしている。

(1)清算主義に迎合したのは誰か、

「再生」:168ページに「迎合」ポーズという章がある。ここでは、まず森嶋常務が先頭に挙げられている。この部分を引用すると「森嶋常務が、「一時金」問題で組合の非公式な協議を始めるころから、森嶋常務などから組合ならびに「考える会」(総長選挙既定の改定を求めた人々がその後結成した任意組織)の一部の人々の言動に迎合する怪しげな動きがあった。すなわち過去の全否定的言動である。」(注3)

注3:この「考える会」の説明は鈴木元氏の独断的解釈である。「考える
     会」は、立命館大学に働いていた教職員の会であり、その目的は末
     川民主主義を基本にした学園を取り戻そうと言うものである。(鈴
     木元氏に都合の悪い「会の趣旨」を隠している)

 この鈴木元氏の主張は重要である。鈴木元氏の立ち位置を語ったものとしては
                 ―140−
っきり記憶にとどめなければならない。彼は森嶋常務が、組合と話したり、「考える会」と話したりしていることを「迎合」と批判している。さらにこれらとの話し合いは過去の全面否定になると主張している。ここに「再生を願って」の本質がある。
 鈴木元氏は、川本八郎相談役退陣後森嶋常務によって追放されるが、その後の彼の行動は鈴木元氏自身が否定した、教職員組合や「考える会」などに手紙を送り自分の考えを支持してくれるように話しかけている。自分の立ち位置をコロコロ変える者は信用できない。

(2)成果を急ぎすぎたのは誰か

  森嶋理事長が推し進めた「事務職評価」をさしていると思われる。「これは実施後5年たっても、「課長評価」制度も実施に移せてない事実上のはたんだ」と鈴木元氏は糾弾している。
 さらに鈴木元氏は「導入を強行した森嶋氏は総務担当常務失格だ」と言い切っている。(「再生」:134ページ)

「評価主義」の導入が不団結を招いた!
  鈴木元氏は、いつの間に「評価主義」の批判者に転じたのか? 「再生を願って」では、「私は、基本給プラス研究や教育の実績に基づく評価給を支給するという考え方は一般的には必要だと思っていたし、現在もそう思っている。したがってこの議論が開始された当時、この考え方には『賛成』の発言もしていたと思う。」(「再生」130ページ)と評価主義導入賛成派である。彼の議論のずるいところは、「『賛成』の発言もしていたと思う」という曖昧な表現で逃げ、さらには「しかし日本の大学でそれを具体化することは容易なことではない」とまさに評論家の議論で自分の責任を逃れている。
 この場の議論は、大学における評価制度の導入の是非の論議がなされたのではなく、一時金のカットという中で(批判の中で)議論がされている。それなのに鈴木元氏は評価制度の導入に賛成の立場を表明しながら、「日本の大学で導入は難しいと頭の中で考えていた」と責任逃れの主張をしている。
 これが、成果は自分のもの、失敗は他人のせいにする鈴木元氏流の論理・主張である。
 彼はまた「私は川本理事長の『一カ月カット』と長田総長の『教育・研究への評価給の導入による再配分』をセットとした場合は『成り立つ論である』と考えていた。」(「再生」:136〜137ページ)と書いていたように明らかに、一カ月カットと評価主義の導入に賛成している。この自分の立ち位置を曖昧にしながらこの
                 ―141−
問題に対して批判的ポーズをとり、自らの責任回避に努めている

(3)「参加・参画」は民主化のためでなく、人気取りのためのスローガン

 さらに「参加・参画」の章で、「2008年の「総長・理事長声明」が一つの契機となって「参加、参画」が声高に叫ばれ始めた。一般論として「参加、参画」は間違いでない。しかし、この時期に「参加、参画」が叫ばれ始めたのは、意図的であった。すなわち「川本時代はトップダウンで強引に進められ、民主的でなかった。今後は「参加、参画」で民主的に進めていきます」という森嶋常務、長田理事長の自己弁護、そして川口総長の人気取りのための掛け声であった。」(「再生」:171ページ)
 あるいは「一般的な教職員の「参加・参画」で全学的な改革などできない。この点では、私は一部の人々と意見を異にする。」(「再生」:172ページ)と語っている。
 一般論として「参加、参画」は間違いでないと言いながら、もう一方では、「一般的な教職員の「参加・参画」で全学的な改革などできない」と言い切っている。こちらの主張が鈴木元氏の本音であろう。(極めて権威主義である)
 ここでも鈴木元氏の思想性が明確に出ている。この「参加・参画」は末川民主主義そのものであった。「全学協働路線」こそが、立命館民主主義を支えてきた。

(4)森島常務が主導した中途採用者を批判(採用と処遇の不明朗さ)

 鈴木元氏、52歳で採用された中途採用者である。自分の採用は合理化しながら、森島常務に対しては批判している。
「ところが森嶋常務は彼の元の職場である京都大学コンソーシアムから『T』という人物を中途採用し、たいした期間を置くこともなく次長に登用した。そして事もあろうに森嶋常務の推薦ですぐに評議員になった。しかしその直後に自分の部下に対して、皆の見ている前でさんざん暴言を吐いた上に『暴力的事件』を起こした。彼のいう評価とは結局、自分の意に沿うかどうかだけのものであり、彼の職場支配の道具にすぎず、止めるしかない」と主張している。(「再生」:134ページ)
  しかし、森島常務にとっての「T」の役割と川本八郎理事長にとっての鈴木元氏とどこが違うのか、おそらく、立命館の教職員から見れば、幹部は自分の子飼いを自由に雇い、それでもって職場の支配を強め自らの権力維持に努めているとみているのではないかと思われる。 
  立命館の職員として30年間働いてきたものが、昨日今日入った職員に使われるのは、サラリーマンとして一般的には同意できない人事である。T氏の採用も
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鈴木元氏の採用も職場のやる気を失わせる人事である。

(5)われわれの寄って立つ基盤は、川本八郎氏の成し遂げた立命館改革(川本八郎氏の神格化)

  川本八郎氏が成し遂げた立命改革によって、その存在が保証されていると学内の教職員に対して鈴木元氏はいう。
  「迎合」ポーズの中に@過去の全否定という章があるが、そこでも鈴木元氏の現在の立ち位置(思想性)が明確に語られている部分がある。以下引用する。
 「一部の人々が主張するように『川本独裁で強引に推し進められた』と全否定するような言動は、ある意味では第三次長期計画以来奮闘してきた多くの教職員の努力を否定するものである。」また現在在職している教職員の過半数を超える人々は、「この第三次長期計画以来の成果(本文:117ページ:参考:川本八郎氏が成し遂げた立命館改革)によって在籍していることも認識する必要がある。」(「再生」:169ページ)

  ここに鈴木元氏の現在の思想性が明確に出ている。この最後の2行はまさに経営者の論理である。「会社あっての個人」である。会社が合理化で給料削減を行っても、「会社あってのあなた方だから我慢せよ」「会社がつぶれれば、元も子もなくなる」と言って強引に賃下げを行う経営者の議論とどこが違うのかお聞きしたい。これは脅しの論理である。

(6)2006〜2008年に出された各種決議の重要性を無視(川本氏・鈴木氏)

     ◎2006 第2回全学自治会代議員会特別決議(7月14日)(参照:資料9)
     ◎2007 産業社会部自治会決議、(6月28日)(参照:資料7)
     ◎2008 立命館教職員組合連合、立命館学園一時金訴訟をすすめる会合
              同決起集会(6 月13 日)(参照:資料18)
     ◎2008 立命館の危機を克服し新たな学園創造をめざす大集会(7月15日)
             (参照:資料10)

  鈴木元氏は2006年〜2008年に立命館大学の危機突破に向けた、学生や教職員の集会で様々な決議が挙げられているが、これを全く無視している。
  例えば、2008年6月13日の「立命館教職員組合連合、立命館学園一時金訴訟を進める会合同決起集会」決議で、「学園指導部は、学生、教職員の圧倒的多数の批判の声に耳を貸さないどころか、各級協議機関での議論の回路を閉ざすという信じられな抑圧姿勢を露にしました。そうした管理運営手法が、学園内の協同の
                           ―143−
気風を破壊し、学園指導部への信頼を失墜させていることは明らかです。・・・今回の、このような事態を招いたことによる損失は、単に学園財産の毀損といった問題にとどまるものではありません。なによりも、本学園で働くすべての教職員、本学園で学ぶすべての学生・院生、そして退職された先輩教職員や卒業生、そして父母の方々の努力と支援によって築き上げてきた本学園の社会的信頼を失墜させた損失ははかりしれません。」としています。(参照:資料18)
 鈴木元氏は、学生時代はこうした学生の長であった。その彼が、学生・教職員などの決議等を全く評価しない立場に立ち、2006年の決議の中では「起草委員の一人から、質問した学生に対して、「あほ」「ばか」などの暴言が数度にわたって浴びた。「如何なる理由があろうとも、大学の正式な説明会の場で、このような暴言は許されるものではありません。」と指摘される側に回るとは歴史の皮肉でしかない。
 通常ここまで指摘されれば、自らの非を詫び、職を辞すのが当たり前の姿だと思われるが、鈴木元氏は、「立命館の再生を願って」という本を出版し、立命館を混乱に陥れたのは、森島乗務を筆頭とした「四天王」が元凶だと主張するが、学内の意見は、川本八郎理事長及び鈴木元氏こそがその元凶だと批判していることは明らかである。
 

5.鈴木元氏の傲慢さがわかる語り口調

  「再生を願って」(306ページ)の「最後に」という章で、かれは「私が立命館に来た時、長田氏は副総長であった。以来14年間彼と付き合うことになった。おそらく彼にとって私は最も安心して相談できる補佐役であったと思う。森嶋氏は私の部下であった、最も自由に動ける上司で仕事はしやすかったと思う。」(「再生」:308ページ)と書いている。  
  彼の口惜しさがにじみ出ている。私はこの「四天王」と同じ格があるし(森嶋氏は部下であった)、仲良く仕事をしてきたではないか、なぜ私がこの「四天王」組に入れないかと主張しているように読める。
 私の想像では、川本八郎前理事長と決別する意思を固めたのはおそらくこの時点だと思われる。もう川本八郎氏が絶対権力者でなくなった。今後どのように生きるのか彼は焦って川本八郎氏離れを起こし、他の理事にしがみついたけど、「時すでに遅し」であり、2008年夏休み後に森嶋常務が、「職場では「鈴木さんは、川本八郎前理事長の参謀として、この間、強引な改革を進めてきた。これからは参加・参画の時代であり、あのようなやり方は立命館になじみません」と言っています」と告げたという。(「再生」:172ページ)
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  これに対する鈴木元氏の答えが面白い。「へー。そんな話は初めて聞く。がだれと話したかは聞くつもりもないが、私の仕事ぶりが強引であったとしても、立命館に利益をもたらしこそすれ、被害を与えたことは無い。一時金や慰労金で全学に混乱をもたらし学園に被害をもたらしている君に、そのようなことを言われる筋合いではない」と話し、会話はおわった、」と書いて「私は心の中で『川本八郎氏を引きずりおろし、続いて私を降ろすつもりだ』と思ったが、あえて問題にしたりするつもりは無かった。」と書いている。(「再生」:172〜173ページ)
  この鈴木元氏の書き方は、森嶋常務に対して、「君」という言葉を使い自分の方が上だという印象を与え、さらに「立命館に利益をもたらしこそすれ、被害をあたえたことは無い」という主張をしているが、彼が言わんとする「利益・被害」とは、何を指しているのか定かではないが、まさにお金を指しているように見える。森嶋常務はむしろお金ではなく、鈴木元氏の仕事ぶりが立命館の民主主義を破壊し、立命館の良さを失わしたと指摘しているように見える。
  すでに鈴木元氏は立命館大学が誇りにすべき「平和と民主主義」よりも、産学共同路線の利益の方を優先しているように見える。なぜなら先にも述べたように、川本八郎氏・鈴木元氏路線は2006年の全学自治会代議員会特別決議や2007年の産業社会部の自治会決議で否定されているのに、これに全く注意を払っていない。ここに鈴木元氏という人間の本質が浮き彫りになっている。


6、この当時の状況を表すものとしてマスコミは立命館大学をどう伝えている

  以下は、2008年7月28日(火)新聞赤旗の記事(参照:資料2)である。
  この赤旗記事がすべてを語っている。「再生を願って」にはこの視点が全くな
い。「再生を願って」にあるのは、立命館の「四天王」が学園を私物化したと告発し、この四人と一緒に仕事をしてきた、鈴木元氏はそれにかかわっていないと言い訳をして、産学共同路線のさらなる拡大を如何に行うかで彼らと対決し、私の案が優れていると主張しているだけである。
  多くの学生や教職員が求めているのは、行き過ぎた産学共同路線の中で立命館民主主義が破壊され、トップに対する信頼感がなくなってしまった。ここは一度拡大路線を止めて、もう一度原点に返らないか。立命館が最も大事にしてきたことは「平和と民主主義」であったし、学校運営は全学協働路線であった。さらに学費が安く庶民の大学と言う位置づけもあった。ここへもう一度立ち戻らないかと言うのが、多くの学生や教職員の願いである。
                           ―145−
 このことに全く気付かなくなって、お金の話ばかりする鈴木元氏は、すでに立命館の改革の旗手でなくなっている。あくまで川本八郎独裁体制の旗振り役でしかない。もう退場しかあなたには選択肢がないことに気付くべきだ。
 上記新聞赤旗は、「立命館大学では七月十五日に京都市内で、『立命館の危機を克服し、新たな学園創造をめざす大集会』が開かれました。約五百人の学生をはじめ、教職員、卒業生、市民など七百五十二人が参加し、活発な意見交換が行われました。
 この間、『拡大路線のひずみ噴出』(「読売」六月二十一日付)、『改革再生へ正念場』(「毎日」同二十九日付)、『学生軽視』背景に(「京都」同二十一日付)など、立命館大学で生起した諸問題がいま社会的に大きな注目を集めています。」
 この集会については赤旗だけでなく、読売、毎日、京都新聞も報道している。しかし「再生を願って」にはこの話は全く出てこない。つまりこの集会で語られていることは鈴木元氏にとっては都合が悪いことで、それは立命館がなぜ「真っ黒」になったと言われる所以が書かれているからだ。(「真っ黒」はウソとホントサイトの指摘)
 ここで最初に指摘されているのは、「学生軽視に不満です。」(川本八郎氏が「学生が見えなくなったら終わりだ」と口癖のように言っていた事が、立命館大学で恒常化していることの告発です。
  ここで言う学生軽視の新たな兆候は、「大学が学友会費の「代理徴収」の廃止を突然提案した」ことだ。これも「再生を願って」にはまったく出てこない話であり、具体的に誰が提案したか分からないが、とんでもない提案だ。最も反動的な人が行う手段である。
  この発想は橋下市長と瓜二つである。橋下大阪市長は、各法律で認められている便宜供与の廃止や、労使協定についても全てリセットし、更新しないことを記者会見や市会答弁、報道発表などで繰り返し発言し、市従からの組合費のチェックオフの廃止提案もこの流れに沿ったものである。
 これと同じことを、立命館大学が提案しているのです。それについて鈴木元氏は何も発言していない。これだけ見ても鈴木元氏は民主主義の否定者であることが分かる。
                                                     ―146−

7.貴方が立命館大学でやったことは、「赤化」か「白化=赤色を抜く」OR「黒化」この回答が問われているのだ!


  「ウソとホント」サイトは、立命館は今まで「赤」と言われていたが、理事長になった川本八郎氏が、立命館を他の私学に負けない有名校にするには、巷で言われている「赤」だという評判を払拭されようとしたのだと思ったが、鈴木元氏の登場でびっくりしたと言っている。
  私は、川本八郎理事長が鈴木元氏に会いに行った際、「『赤化』ではなく、『白=無色透明』にしたいと言われた」と思っている。(くだけた言い方をすれば、「立命館の改革をこれ以上進めようとしたら、学校内の共産党寄りの抵抗勢力が邪魔になっている、ここは、鈴木元氏が立命に入りこうした跳ね返りを押さえてほしい。」と頼んだと思われる。)しかし鈴木元氏は「功」を焦って川本八郎氏の「無色透明路線」を乗り越え、川本八郎独裁体制を築き、周りから見れば「真っ黒」なったと評価されているのだと思っている。
  つまり鈴木元氏の好きな「評価制度」に従えば超過達成で「○」だが、「過ぎたるは及ばざるがごとし」であり、「無色透明」にすべきところを、「真っ黒(独裁体制)」にしてしまった。「評価制度」で言えば「×」である。
 「再生を願って」に流れている思想は、「立命館民主主主義の否定」で貫かれている。鈴木元氏は気付いていないようだが、鈴木元氏の今の思想性が「再生を願って」を読むと手を取るように良くわかる。
 鈴木元氏の関心は産学共同路線で貯めこんで来た内部留保金1000億をどう使うかが結局は最大の争点になっている。そのために立命館の「四天王」をボロかすに批判している。しかも自分の責任回避ばかり行っている。
彼は、立命館民主主義の担い手である学友会つぶしを狙った代行徴収の禁止等の処置の重みなど全く理解していない。
 川本八郎前理事長が指名した森嶋常務や長田理事長や川口総長等の批判を盛んにしているが、元々川本八郎氏の任命で一番怪しいのが鈴木元氏の総長理事長室室長である。いくら自分の事は気が付かないと言っても、ここまでくればあきれる限りというほかない。
 私の見立ては、川本八郎理事長の鈴木元氏に対する要望は「赤」から「白」にしてほしいのであったのに、鈴木元氏は頑張りすぎて「黒」にしてしまい、結局は立命館もダメにしたし(注4)、川本八郎王国もつぶしてしまった。先輩に失礼だが、これが真実だと思っている。

注4:現在の立命館の社会的評価
    インターネットでは、「株式会社立命館と言われるように、超金儲け主義の大
  学だからです。1つの学部に受け方をいくつも増やし、日にちを増やし、受験料
  をたくさん稼ごうとしています。」
                                     ―147−  
  「金にものを言わせ、立命館の名前を全国に宣伝しまくっています。関関同立の中ではレベルは3番なのに知名度は関西学院より上で関西私大ナンバーワンの同志社と同じ知名度です。」と評価されている。

8.株式会社立命館と言われる超金儲け主義の大学へ変質(インターネット上での批判)

 「貧乏人のため大学」が「金持ちのための大学」に変わってしまった。「なんでそうなったの!」と叫びたくなる。(注5)これを成し遂げたのは、学園闘争で最も先頭になって闘った小畑力人氏、鈴木元氏、それに川本八郎前理事長だという事が嘆かわしい。
  学生運動の闘いの結果こうなったというから、怒り心頭に達する。三人(小畑・鈴木・川本)とも思想を変えた。あの学生運動は間違っていた。やはり世の中は金である。大学経営もお金が第一と言うのであれば、まだ許せるが、あの運動の延長線上の成果がこれだという鈴木元氏の主張は、自己の正当化のために、明らかに当時一緒に闘った仲間の人生に泥を塗っている。こんなものを求めて我々は闘ったのではない!怒りが爆発している。

注5:本文:96ページで私学の実態比較を行ったが、立命館大学の卒業率(75.
   6%)は、最高の京都産業大学に比べれば約10%劣る。奨学金制度などで他
   の大学より手厚い保護を行っているのになぜ卒業率で劣るのか、実態把握が
   必要であろう。