高野悦子さん




  平成26(2014)年11月3日
                                               ー1−
はじめに

立命館大学闘争を飾った二人(高野悦子さんと鈴木元氏)

 1967年から1969年は立命館大学闘争が最も高揚した時期である。この闘いを通して、政治改革の必要性を感じ、その後も政治活動を続けている者、あるいは権力に近づいた者もいれば、闘いで傷つき自殺した者もいる。青春まっただ中の、大学の改革や社会の改革を願い闘った立命館大学での最も有名人二人(高野悦子さん・鈴木元氏)に焦点を当てて、この立命館大学闘争とは何であったのか見ていきたい。

高野悦子さん

 私は、この同時期立命館大学に在学し、この闘争の真只中にいた。その活動は主に部落問題研究会(以下「部落研」という。)であった。今日の時点から見て当時の「部落研」の活動を「高野悦子さん」の検証を通じて問題点やその意義を見直したい。
 この中で取り上げる高野悦子さんは、1967年4月に立命館大学文学部に入学し、5月10日「部落研」サークルに入部している。しかし、翌年の4月13日に退部している。さらにその翌年の6月24日に学生運動に行き詰まり、恋に破れて鉄道自殺している。この彼女の死後(昭和46年5月)新潮社より刊行された「二十歳の原点」(彼女の日記)はベストセラーとなり、三部合わせて(「二十歳の原点ノート」(以下「ノート」という)、「二十歳の原点序章」(以下「序章」という)、「二十歳の原点」(以下「原点」という))350百万部売れたという。
 この二十歳の原点三部作を中心に彼女は何を考え、どう行動してきたのか、とりわけ立命館大学の学生運動を中心とする様々な流れの中で、彼女がなぜ生き抜けなかったのか検証してみたい。

鈴木元氏

 鈴木元氏は学園民主化闘争の指導者であり、彼の指導で立命館大学の学生運動は「いわゆる『民主派』」(以下『民主派』という)が多数を占めるまでに成長した。その彼が「立命館の再生を願って」(2012年2月10日)風濤社発行という本を出版し、大きな反響を呼んでいるという。しかし私は、この本はあの当時の我々の思いを代表しておらず、鈴木元氏の自分史的になってしまっていると見ている。我々が青春をかけて闘った学園闘争が、このような形で総括されることには納得がいかない。鈴木元の「立命館の再生を願って」の問題点の整理と指摘をおこなっておきたい。
 
                            ―2−

なぜ高野悦さんを取り上げたのか

 高野悦子さんについては、私の「部落研」の一年後輩で大東市の共産党の市会議員K氏(注1)が最近インターネット上のサイトである「高野悦子さん『二十歳の原点』案内」(以下「案内サイト」という)に登場して(2013年6月1日付け)語っているが、その内容は、世間一般に流布されている「部落研=民青」という批判に「理がある」かのような発言に終始している。
 しかも、その内容は事実誤認に基づくものが多く、正確ではない。例えば、高野悦子さんの立ち位置も、「『部落研』というよりも、民青の周辺にいた真面目な支持者だった」という説明は、明らかに間違っている。また彼女が農村調査(8月)の後、まもなく辞めたというのも事実ではない。(高野悦子と「部落研」の関わりを意識的に小さく見せようとしているのではないかと思われる。)
 彼女の日記からも明らかなように彼女は「部落研」の会員としてほぼ1年間、いろいろ悩みながらも、学生生活(一回生)の大半を「部落研」活動に費やしている。(注2)
 民青と高野悦子さんとの関わりは、同じ日本史専攻の仲間からオルグされていた関係であったに過ぎない。彼女の日記からみれば、「部落研」をやめようと思い、それとほぼ同時に民青に入る決意を行っている。(注3)

注1:K氏の肩書きは、インタビューを受けた時点のもの

注2:1968年4月15日の日記(退部2日後)に以下のような記述がある。
   「「部落研」に所属し、地域活動をやり農村調査をやり、日常の討論に参加
  し、また同和教育闘争をやってきた体験を大事にすべきだと思った。そういう
  状態の中で感じ、思ったことを大切にして、これからの生活の中で生かしていく
  べきである。それにしても私の平凡な19年間で、あの期間は非常に多彩で
  豊富な時であった。私は「体験」が少ない。積極的にいろいろ体験を求め
  て行くべきである。(序章)

注3:「部落研」「退部決意」前後の彼女の心の動き
   ★67年12月3日(日):2日―クラブ(「部落研」)をやめる気持ちから抜けきれ
     ないまま学校へ行った。  (  )内は、筆者が補記した。
   ★12月13日(水):1月2日に、未来を生きる人間として民青同盟加入を決意
     したい。
   ★68年1月2日:何の感動もない19歳の誕生日。およそ20日前、佐藤さん
     に同盟に入ることをすすめられたころは、19歳を輝かしいものにしよう
     とはりきっていた。
                          ―3−
   ★1月10日(水):部落研、退部の決意 
   ★1月11日(木):5月以来の部落研活動を精算的に否定しているだけだ。や
     はりこの1年の部落研活動を総括する必要がある。その上にたって他の活
     動をやらねば何の進歩もない。

  また、高野悦子さんが、「わだつみの像」の破壊(69/5/20)に関して直接関係していなかかったようにK氏は主張しているが(希望的思いを語っているのではないかと思われる)、私は彼女の日記から、この時点で、彼女は「わだつみの像」の破壊に積極的に加担(意識的には)したと見ている。(注4)
  直接彼女が引き倒したところを見たわけではないが、「わだつみの像」破壊後、彼らが広小路キャンパス内をジグザグデモしていた(勝利の雄叫び)中に彼女はいたと記憶している。
  以上の点からK氏の主張は、高野悦子さんの実像が正確に描ききれていないと思う。(最も「案内サイト」がK氏の発言として書いた内容は、「案内サイト」側から編集して出されており、彼がこのとおり言ったかは疑問があるが・・・)  
  K氏は、インターネット上で、高野悦子問題を自分のブログで取り上げ不用意な発言を行い、「部落研=民青」責任論の立場の人々から批判され、過去に炎上したと聞いている。その点から考えて見ても、彼は真実を語り、「部落研=民青」責任論の誤りを指摘すべきであったが、彼の「案内サイト」上での主張は、この批判を容認し、自己の責任回避にのみに、この「案内サイト」を利用したようにも見える。
 そこで、「部落研=民青」責任論についても整理して批判しておく必要性があると思い、「部落研」と高野悦子さんの関係について当時の状況を詳らかに書く事が、不当な批判に反論し、当時の「部落研」の活動の果たした役割や問題点を見出すために、この文書を書いた。

注4:★1969年5月1日の日記(原点)に、授業料64000円を払うのをやめた。
   メモ:私の行った「建造物破壊及び器物破損」に対して卑小なる怒りを感じて
   いる教授会の諸氏殿
     私は教授会諸氏及び教授会が益々その無能ぶりを発揮しようとするなら
    ば、再び「建造物破損」を行うであろうことを言明し、その無能ぶりが暴露さ
    れることを恐れ絶えず学生との大衆団交を拒んでいることに対し、私は学
    生の大衆団交権が確立するまで授業料の支払いを拒否することをここに明
    らかにします。
                 立命館大学文学部日本史専攻三回生 高野悦子

                        ―4− 
  このメモにある「建造物破壊」とは、大学の破壊のみならず「わだつみの像」の破壊も予告しているとも読み取れるのでは?

★5月8日の日記(原点)では
   「本当にお先真っ暗だなあ。だけど自殺なんてする気は毛頭ないよ、死ぬなら機動隊に殺されたいね。いや、殺されたくないよ。殺してやりたいよ。」
とも言っている。

 既にこの時点で彼女は、ホテルマンとの恋に破れ(これについては「第6章 高野悦子さんは鉄道自殺で自らの命をたった」で詳しく述べる)、学生運動というよりも、やぶれかぶれになり、アナーキズムに走り、完全に自暴自棄に陥っている。「自殺願望」は昔からあったが、この段階では彼女の主張が「自殺」でなく「殺す」という言葉が主流になっている点にも注目する必要がある。
 
 この文書では、鈴木元氏の「立命館の再生を願って」(鈴木元氏の学生運動論)の批判と、高野悦子さんの「部落研」での姿や、その当時の学園の状況や、彼女の持っていた弱点、及び「部落研」の持っていた弱点なども見ながら、我々がなぜ、高野悦子さんを救えなかったかを見ていきたい。

 なお全編を通じて「引用文など」において筆者が補記した部分は「青色の文字」を用いて書いている。

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第1部:高野悦子さん


 第一章 高野悦子さんと「部落研」活動


はじめに(大雑把な概要)


1.立命館「部落研」に入部(67年5月10日)

 高野悦子さんは、1967年4月立命館大学文学部に入学し日本史学専攻であった。彼女がどのような経過で「部落研」に入って来たのか記憶にないが、5月10日に入部し、翌11日には地域の子ども会活動に参加している。この時の感想は、@卓球をやれて楽しかったこと。A子供たちがガサガサしていることの二つだったと日記に書いている。(序章)
 この年は新入生歓迎の取り組みが比較的成功し多くの会員を獲得することができた。とりわけこの年に入部した女性会員は6名おり、その中には今までの部員の雰囲気とちがう、世間の手垢に染まっていない中流家庭の純真なお嬢さんタイプの女性が数人いた。(高野悦子さんもその一人であった。(序章)の巻頭の彼女の写真も乗馬している写真(昭和42年8月 那須 南が丘牧場)である。彼女の日記からも分かるように夏は避暑地、正月には「温泉とスキー」に家族で出かけている。)
 1967年当時、部落差別はまだまだ深刻な状況であり、生活実態においても相当厳しいものがあった。まだまだ世間一般では「あそこに近づいたらアカンで」というような会話が堂々となされていた時期でもあった。
 私は中学時代に既に部落問題に関心があり、差別の実態を知るため、地域の中に入ってみたいという気持ちがあった。たまたま、中学の社会科の先生が病欠になり、臨時教員として採用された先生が、部落問題に取り組んでおられ、その影響で地域の子ども会(学習支援)に参加したことがある。
 今までの「部落研」の会員と言えば、どちらかというと、すでに高校時代から社会の矛盾に目を向け、社会変革をめざす者が、部落問題と関わることにより、自分の立ち位置を明確にし、自己変革と共に社会に貢献していくという者が多かった。
 当時立命館大学の「部落研」は、数十人の会員がおり、学内、地域、機関紙という3つのパートがあり、部員はそのどれかのパートに属するようになっていた。私は高野悦子さんより1年先輩で地域活動(子ども会活動)のキャップを務めていた。高野悦子さんも地域担当を希望された。
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  この「部落研」のサークルボックスは、学芸会館の中にあり、12畳位のスペース(?)があったが、まさにむさ苦しい場所であり、普通の感覚の女性が棲める様な空間ではなかった。このボックスには通常10人前後の会員がいつもたむろしており、いつ行っても話し相手に困らない状態であった。私などは立命館大学法学部に席をおいていたが、毎日このボックスに通い、ほとんど大学の講義には出たことがなかった。
 高野悦子さんは、会員であったが、このボックスに常にたむろするような活動スタイルではなく、たとえば地域パートの会議があるとか、子ども会に彼女が参加する日にボックスに姿を現すというような参加の仕方であった。

2.高野悦子さんの印象(世間の手垢に染まっていない純真・無垢で自己主張が苦手な人)

 私の彼女に対する第一印象は、純真で、フランス人形の様な可愛い女性だなと思った。まさに泥田に鶴であり、この過酷な環境の中で、彼女がどのようにして、みんなの中に溶け込み、一人前の活動家に成長していくのかは難しいなと思っていた。私が今までに接したことのないタイプの女性であった。
  (現代風に彼女のイメージを言えばENEOSのCMに水素ステーションを見学に来た 能年玲奈さん編があるが、あのリックサックを背負った雰囲気が高野悦子さんに良く似ている)
 会議においても、子ども会活動においても、彼女は常に控えめであり、自己主張を行わず、恥ずかしそうに笑い、首をすくめる癖があった。
 彼女が何か問題提起しても、誰かがそれに対する意見を述べた場合、彼女は笑顔で笑って首をすくめ、自分の主張を引っ込めてしまうのが常であった。彼女が自分の考えを堂々と主張し、相手と論争するというような姿は見たことがなかった。
 こうした彼女の性格は、彼女自身の日記にも自己分析がなされている、例えば「私はオドオドし過ぎていた。弱いからかもしれない。でも物事をやるには、それはマイナスだ。もっと自信をもってやっていこう。」(65年1月26日:「ノート」101ページ 高2)「私は知っている言葉が少なく、自分の言いたいことがどんなことであるか、どう言えばよいのかよくわかりません。」(同2月10日:ノート105ページ)「私の欠点―妥協しやすい。堂々としていない。」(同3月23日:ノート112ページ)「勉強、勉強、これだけだった。私はもっと奥深く、人間的ないろいろ(私が抱いている劣等感、淋しさ・・・・)のことについて話し合いたかったが、先生のあの固い冷たい雰囲気では言い出せそうにもなかった。」(同6月29日:ノート131ページ 個人面談で)等々。

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3、当時の「部落研」は活動家集団(立命館のサークル中で最も実践的戦闘集団)

 私は彼女の「二十歳原点三部作」を読んで彼女が様々な問題に対していろいろ疑問に思い悩んでいる姿を知って、あの当時の彼女のそのような実態に全く気づいていなかったことを反省している。彼女ともっと突っ込んだ話を行えば良かったと思っている。 
 私の目は、中流家庭育ちの彼女が、部落問題という日本社会にとって最も深刻な矛盾に突き当たり、自分の今までの生活との関連で消化しきれず、この問題と取り組もうとしながらも、自分が今まで生きてきた生活環境とあまりにも違う世界に戸惑い、もう一歩足が出ないのかと思っていた。
 彼女は、地域の子ども会にもよく通い、卓球部に入って子どもたちと卓球をやっていたが、運動神経もよく、卓球はうまかった。(中学時代は卓球部:「ノート」)また、子供たちからも慕われていた。しかしこうした活動が、部落問題の解決にどう結びつくのか、彼女なりの疑問や焦りがあったのだと思われる。週三回の子ども会活動への参加は、家に帰れば11時頃になり、学生の本分である勉学と両立することはむつかしい面があった。
 その当時「部落研」のボックスに常駐している常連は、みんな単位が取れず卒業の展望が見いだせない者も多くいた。当時の学生運動はこうした弱点を持っており、「部落研」というサークルもその例外ではなかった。ここで中心的に活躍しようと思えば、退屈な大学の講義と決別し、サークルボックスに常時詰めることが前提の様な風潮があった。(私自身もその一人であるが、私はこのサークルで、大学で学ぶ事以上の物を学んだと思っているし、現在の私を作り上げたのはこのサークルのおかげだと思っている。)
 高野悦子さん(序章)を読むと、彼女は部落問題に取り組む自分の姿勢に対しては一貫しているようにみえる。(ワンゲルの入部後は徐々に忘れられて行くが)今後の自分のやりたいこと、課題を書き起こしている際に必ず「部落問題」を挙げている。しかし彼女の退部の決意(68年1月10日)は、勉学との両立に悩み、「学習したい、学習しなければならない、このままではいけない」というものである。そして「退部して、学習活動を強めよう」という主張は、先輩たちの姿を見て、そう思うのも当然のように思う。ただ、彼女の退部の決意はこのような単純なものでなく、もっと深いところがあったように思われる。それらを「二十歳の原点」(三部作)から解き明かしたい。

4.「部落研」退部の決意(68年1月10日)〜退部を申し出(4月13日)

 彼女は、部落問題に取り組む視点を失ったわけではない。彼女は67年5月10日に「部落研」に入り、翌年の1月10日退部の決意を行っている。しかしサークルに正式にやめたいと言ったのは4月13日であった。しかし、その後も部落
                      ―8−      
  問題に対する課題を常に持ち続けている。たとえば入部後、約1年後の1968年5月7日の日記(「序章」)に、「井上清の『日本の歴史』と『部落史』をいつも携帯してヒマがあったら学ぼうと思った。わずかでも関心のあるところからアプローチしよう。また『現代社会』を知ることが必要である。」という記述がある。
 この日の彼女の退部の意思を聞いたのは「吉江」=私であり、この時、彼女の話を聞き、「部落研」で学んできたことを大切にし、今後の学生活動に生かして行くことが重要であるという話をし、退部した後どのような学生生活を考えているのか聞いた。彼女は「ワンダーフォーゲル部に入って活動しようと思っている」と言った。その段階で私は「高野悦子さんが「部落研」活動通じて成長してきていることを告げ、我々は高野さんが引き続き「部落研」で活動することを望んでいる」と引き止めたが、無理やり、彼女を「部落研」に留めることをせず、「ワンダーフォーゲルに入るという選択も、高野さんの山好きな性格からしてそれもいいかも」と答えた。(この時、私は無理やり引き止めなかった。高野さんと同じような境遇にあった人が、辞めると言ってきたときは、なぜ辞めるのかと厳しく言った覚えがある。この当時辞めるということは「裏切り者」というような感情が我々のどこかにあった。しかし高野悦子さんにはそのような対応をしなかったと記憶している。)(注1)
 私の個人的判断であったが、彼女が「地域の現実から学ぶ」という当時の「部落研」の基本的位置づけを自らのものとしていくには、彼女の生い立ちや生活環境から見て無理な面があるのではと思っていた。彼女にはもっと彼女の良さが発揮できる舞台があるのでは、その一つがワンダーフォーゲル部かもしれないという思いがあった。
 
注1:私が退部申し出を受けたのが4月13日。4月15日の日記(序章)には、この私
  の話した内容を受け(?)、「部落研」の活動を肯定的に総括している。
   (既にこの日記は、「はじめに」で引用したが、重要な文書であるので再度引
  用する。)
   「『部落研』に所属し、地域活動をやり農村調査をやり、日常の討論に参加
  し、また同和教育闘争をやってきた体験を大事にすべきだと思った。そういう
  状態の中で感じ、思ったことを大切にして、これからの生活の中で生かしていく
  べきである。それにしても私の平凡な19年間で、あの期間は非常に多彩で豊
  富な時であった。私は『体験』が少ない。積極的にいろいろ体験を求めて行く
  べきである。」

5.ワンダーフォーゲル部入部(68年4月24日)この決定が最悪の事態へ

 彼女の退部後、学園内で彼女とすれ違った際、「ワンゲルはどうかと」声をかけ
                       ―9−
たりしていた。彼女は「楽しいです。」と答えてので、私は「よかったね。」と声をかけたことを覚えている。(しかし、このワンダーフォーゲルへの入部が彼女の人生を変えてしまうことになるとは残念でたまらない。・・この点は後で述べる。)
 おそらく、彼女は「部落研」に所属し、子ども会活動を続けていく中で、学生の本分である学業が疎かになり、また学内に「部落解放同盟」の運動の分裂が持ち込まれ、「部落解放同盟」の運動論の押し付けに対して、「大学の自治を守れ」と言う者と、「大学の自治を守れという大義の下、部落差別の拡大は許されない」と主張する者が、学生運動内部でも、教授会でも二分され、騒然たる状況になっており(第三部 第一章 鈴木元氏の学生運動論(本文:148ページ)で詳しく述べる。)「部落研」に席を置いているということは、この闘いの最前線に押し出され、彼女にとっては荷が重すぎたのではないか?(注2)

注2:立命館大学では、同和教育の担当教官であった東上高志氏の雑誌「部落」
  (「1966年4月号」)に掲載された「東北の部落」が差別文書であり、そうした講
  師を有する立命館大学は差別体質を有した大学だ、と「部落解放同盟」(朝
  田善之助委員長)から攻撃を受け、この判断をめぐって学内で混乱していた。
  学生運動のセクト間の争いは、差別だと言う者と、「部落解放同盟」の干渉が
  大学の自治の侵害だと言う者に二分された。(後述するように彼女はこの学生
  運動の対立の狭間で悩んでいたと思われる。「(4)この状況を高野悦子さんは
  どう捉えていたか。」(本文:19ページ参照)

                       ―10−

第二章 立命館「部落研」での高野悦子さんの活動


1.高野悦子さんと現代社会の矛盾、日本史専攻と「部落研」

 高野悦子さんは、立命館大学入学後、比較的早く67年5月10日に「部落研」のボックス訪れ入会している。この彼女の加入は誰かのオルグによるものか、自ら彼女が一人できたのか、記憶は定かではないが、おそらく「序章」を読む限りでは、彼女は高校時代からすでに社会問題に目を向けており、奥浩平の『青春の墓標』(注1)などの影響を受け(奥浩平自身は、樺美智子の影響を大きく受けている)、何不自由なく家族の愛情に見守られ育った自分を自己否定し、社会の底辺の人達とともに歩みたいという気持ちを持っていたと思われる。

注1:彼女の基本的な考え方は、高校三年生の時に、ほぼ同時に手に入れた、
  「荒野のおおかみ」(ヘルマン・ヘッセ)『青春の墓標』―ある学生活動家の
  愛と死―(奥浩平)、さらには『人知れず微笑まん』(樺美智子)らの本の影響を
  大きく受けている。
    その中でも『青春の墓標』は、中核派の奥浩平が,革マル派の女性を好き
  になり、恋愛関係になるが党派間の理論の違いがゲバルト闘争まで発展して
  お互いに悩み、彼は彼女を追い求めるが、彼女は彼を受け入れられないように
  なり、機動隊の圧倒的な力の前に、闘争にも挫折し,自殺するという話である。
  この本には、『革命』『純愛』『自殺』の三つのキーワードが存するが、彼女の
  生き方のバイブルになっていったように思う。
   彼女は大学入学後も、自分の生き方を見失った際は、必ず原点回帰のよう
  に『青春の墓標』を手にとって読んでいる。

2.立命館大学に入学するにあたっての彼女の決意

 「序章」の中に、1967年3月27日立命館大学に合格し、京都に乗り込むにあたって彼女の決意が書かれている。
 「『わが大学生活に悔いなし』を読む。この本は三つの部分に分かれている。その最後の章の学生運動についての部分を読んだ。学生運動について考えることがたくさんあると思った。」
 「学生運動は、学生自治会によって推進させられる。だから、自治会に属する学生である私達は、その左翼運動をはっきりと自分の意思で見定めなければならない。」
 「特に立命館はそのムードに溢れているから、単なる雰囲気にのまれるのではなく、自分で納得のいく考えをもたなければならない。」
 「マルクス主義について知っていること。―歴史発展説をとり、それを動かし
                                   ー11−
ていくのは、生産であると考えている。」
  「現在の資本主義社会は、利潤の追求を目的とする資本家と、賃金の搾取にあえぐ大多数の労働者からなっているという。革命を起こしてこの支配層を消滅させなければ、人々の幸福はありえないと考えている。」
  「京都へ送る荷物の荷造りをした。」で結んでいる。
 
 この日記は、私の受ける印象は、「いざ出陣」という意気込みが読み取れる。

 彼女は明らかに大学入学前に、マルクス主義に接しており(奥浩平の影響か?)、その基本的立場を理解しており、学生運動を通じて自分のものにするため立命館大学に乗り込む決意をしていたことが伺われる。(あえて立命館大学を選んだ理由がそこにあったのではと思っている。)
  こうした下地があって、彼女は日本史専攻(奥浩平も「高校卒業の春には、歴史を専攻したいという明確な目的を持っていくつかの大学を受験したのだが、それなりの受験勉強を積んでいなかったので当然の結果として浪人することがきまりと、『青春の墓標』の「あとがき」で兄の奥紳平が語っている」)という自分の専門分野で階級的立場に立って研究するには、「部落研」に入部することが良いと判断したのだと思われる。(その当時、立命館大学の文学部日本史学科は、全国的にも有名で、その看板教授であった奈良本辰也氏、林屋辰三郎氏らは「公益社団法人部落問題研究所」の役員であったことも影響していると思われる。)

3.部落解放同盟(京都府連)の分裂と立命館大学への波及

  彼女が入った立命館大学「部落研」は、その当時の立命館大学の学生運動間の対立の渦に巻き込まれていた。(これが彼女にとって不幸であった。)
  彼女の入学した1967年という年は、戦後、「平和と民主主義」を教学理念として社会的認知度を深めていった立命館大学にとって最大の危機が発生していた。立命館大学の「同和教育」の担任講師であった東上高志氏が雑誌「部落」に執筆した「東北の部落」という紀行文が、朝田善之助氏が率いる「部落解放同盟」(この直前に部落解放同盟京都府連は分裂していた)から差別文書だと批判され、その差別文書を執筆した東上高志氏を抱える立命館大学は差別を容認助長する大学だと糾弾された。
  これに対する立命館大学「部落研」の見解は、「確かに全体として弱さはあるが、差別文書と言うべき文書ではない。この程度の弱さはそれぞれが指摘し是正すれば足りるものだという立場であった。」(これはもう一方の三木一平氏が率いる部落解放同盟京都府連の立場でもあった。)
  この東上高志氏の「東北の部落」が差別文書か否かで立命館大学は学内が完全に2分された。(教授会の中にも朝田氏の理論を支持する者がいた。たとえば
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先に挙げた奈良本辰也氏や林屋辰三郎氏など)
  「全共闘」系の各派はこれを差別文書だとし、「大学の自治の名のもとに差別を容認することは許されない」と叫んだ。これに対して、『民主派』の学生は、「これは「部落解放同盟」による大学の自治への侵害であり、部落解放同盟の分裂した一派が利権主義・反共主義に走り、民主主義の砦である立命館に不当な攻撃を仕掛けている。」と訴えた。 
  この闘いでは、学校当局は「部落解放同盟」の理不尽な暴力を伴った要求(注2)に基本的に屈服するが、学生運動では逆に学友会選挙で『民主派』が勝利する大きな要因になった。(この学生運動での勝利が、その後立命館当局の見解を変えさせる力になった。・・・参照:資料11-1「立命館百年史通史二」の解説 成澤榮壽)
  学生運動の闘いで勝利した学友会は、立命館民主主義の根幹である全学協同路線(学振懇)を活用し、大学当局の誤った方針の撤回を迫っていく。

注2:この点については、学振懇に参加した高野悦子さんの日記(下記「4.部落
  研の会員として成長した姿が見える」の9月15日の日記(序章)参照)や、産業
  社会学部に対する糾弾闘争の様子を書いた立命館の民主主義を考える会の
  ニュース39号が詳しい(参照:資料12)

4.「部落研」の会員として成長した姿が見える(高野悦子さん) 

  この状況を高野悦子さんは、9月15日の日記(序章)で、「きのう(14日)の学振懇は、総括(主に昨年の5月以降の)を中心に十時間にもわたっておこなわれた。学校側はあたらずさわらずといった平穏な総括をのべるし、文自を中心とする分裂主義者は差別キャンペーン、差別キャンペーンとがなりたて、差別者は自己批判せよというし、出身学生同盟も(途中ですてゼリフを残して出ていった。)例のキンキラキンとした調子でがなりたて、はては解放同盟の綱領も否定するような矛盾した言動をはいた。その上またもや武藤氏という学外者が入り暴力もふるった。それを関は暴力の事実があったことを認めながらも、現象をとらえて本質をとらえないという論法で、暴力をも擁護する言葉をはいており、竹下はあれこそ部落民の怒りなのだと正当化、まさしく堂々と正当化していた。(これらはまさに朝田理論・・・朝田理論については本文:34ページ注944ページ参照)
  学校側は暴力事件の事実確認さえもさけようとするビビリ方、学校側がいかに部落問題に対して恐れをいだいているのかを如実にしめしていた。(暴力に屈服)部落問題の科学的認識とは何か? もう一度学校側におききしたい。」と書いている。
                      ―13− 
  (「(  )内」は筆者が補記した。)さらに9月17日(序章)の日記では、「学振懇で相当気分的にまいったが」とも書いていほる。この彼女の日記を見る限り、彼女は「部落研」の会員として一人前に成長している。私も当時、彼女のこの日記と同じ感情を持ったことを覚えている。

  しかし立命館民主主義の価値を否定する者との闘いは、過酷さを極め、我々本来の「部落研」の地道な活動を圧迫し、学生運動の争いや、「部落解放同盟」の不当な攻撃と闘うことが「部落研」の日常的な活動になってしまった。

5.活動に確信がもてず徐々に混乱に陥っていく(高野悦子さん)

 彼女は下記日記に見られるように成長を見せながらも、常に悩んでいた。

★1967年9月24日の日記「序章」では
  わたしに心の中に詩う心があったらなら、
  あたたかくきびしくつつむ詩うこころがあったなら
  自分のことばかりを考えずに
  他の人のことも考える心―
  淋しくて淋しくて仕方がないくせに
  虚勢をはっているわたしがきらいなくせに
  やっぱり みえをつくろっているー
  ばかだと思っているのに
  やめた方がいいと思っているのにー
そして
★1967年10月7日の日記「序章」には
  試験期間中、人に会うのがおそろしかった。見知らぬ人なら何でもないのだが、知っている人、クラスの友達、長沼さん、浦部さん、桑沼さん、西山さん・・・  
クラブの人達に会っても緊張して、とんちんかんな話をする。
 自分というからの城を出ていない。常に自分のまわりのかべを見ていて、客観的存在をみようとしない。自分の絶対性をこわされたくないので、自分を自分で身動きしないようにさせている。
 そして、家が恋しくなった。淋しくて私を暖かくなぐさめてくれるものを望んだ。自分を動かさずに(傷つけずに)求めるものだけ求めた。電話をかけたりした。

 もうひとりの彼女がここにいた。彼女は自己変革を求めながら、それを達成できない様々なしがらみ(弱さ)があった。
そして「部落研」入部8か月後の
                     ―14―
★1968年1月10日に退部を決意する。彼女は日記「序章」に、
 「部落研、退部の決意」
  「京都の立命館における大学生活は、およそ1年間たっている。その中でも「部落研」における活動が大部分を占めている。「部落研」の中で得たものは、意識されているもの、まだ意識されていないものなどたくさんある。それらを綿密に総括した結果、退部をきめたわけではないが、退部の決意を支えているのは、『学習したい、学習しなければならない、このままではいけない』という意識である。それだからといって退部の理由にはならないのは知っている。」
 「しかし私は決意する。退部して、学習活動を強めよう。」

★翌11日には、「5月以降の部落研の活動を精算的に否定しているだけだ。やはりこの1年の部落研活動を総括する必要がある。その上にたって他の活動をやらねばならない。」と書いている。

さらに
★1月13日「序章」(「部落研」退部決意の3日後)
  「部落研をやめることを決意したのは、単なる逃避からにすぎなかった。やめる、やめないは別として、総括を行う必要がある。ではどのような方法で、どのような意識から総括を行うのか。活動が行きづまってしまった現在、それを打破するにはどうすればよいのか。活動自体がまちがっていたのか。方向はよいのだが弱さがあったのか。ではどうすればよいのか、ということを、この8か月活動を通して考えることは重要である。」
  「では、どのような方法で行うのか、主体性、変革という二つの観点から、いくつかの期間に分けてやっていく。その際注意することは、『・・・とかかわってきた。しかしそれは他のところでもできたかもしれない』といって、事実から目をはなしてしまうことである。」と書いているが、結局はできなかった。

6.「部落研」退部決意後、またまた自殺願望がもたげ、『青春の墓標』へ逃げ込む

 1月15日には、「おとといの生活は、食べることと、ラジオを聞き流すことと、寝ることをやらねば、死ぬ(自殺する)よりは他にないという生活であった。退廃的な無気力なものが支配していた。牧野さん(彼女の唯一の信頼できる友達)が言っていたけれど、実際私は物事を真剣にまじめに考えていない。自分の言葉などもっていない。人の言うことを聞いてああそうかと思い、本を読んではそうなのだと思うだけで、いつも何かにほんろうされてフラフラしている。
(中略)
 「主体性というのは、主体的に自分は行動しているという自信、つまり思うこ
                      ―15―
とであると思った。本当に正しいことなんてあるのかな、人それぞれ違うのでないかと思ってしまう。けれどもまた『青春の墓標』をよめば、『革命家の正しさ』を正しいと思うのである。」
 自殺しようかな
 首つり(?)身投げ(?)すいみん薬(?)
 「自殺する勇気もないのに死ぬことを考えるのは何故か。自殺の論理も何もない。『自殺してもよい』そう自殺してもよいのだ。自殺するのではなく、してもよいのだ、私が必要なのは強くなることだ。」

 以上、高野悦子さんは、「部落研」サークルで活動しながら、自信がもてず、活動そのものが、「苦しい」(注3)と感じるようになり、「部落研」退部の決意を固めるが、その後の彼女の日記には、「自殺願望」が出てくる。さらに彼女は落ち込むと奥浩平の『青春の墓標』に逃げ込むことが常態化していく。この本こそが彼女のバイブルである。

注3:1967年10月12日 日記(序章)
   私に始めて連帯感が生まれた。
   私はすべての解決の方法をそとに求めるのではない。私の内部の闘いは社
  会によって規定されており、それを変えていくということをしなければ私という一
  人間の解決はないからである。
   飯島さんが「部落研の活動やってどうか」ときいた。私は「やりがいがあること
  だと思うけどいつもその苦しさにしりごみしている」といった。

7.二十歳の原点、一部の解説者の、「部落研=民青」=「悪玉論」の誤り

  インターネット上などに、二十歳の原点の解説を書いている者は沢山いるが、その中には高野悦子さんが立命館大学に入学して「部落研」に入ったが、その「部落研=民青」が彼女を死に追い込んだような主張をするものがいる。これは全くの言いがかりである。
  高野悦子さんは「部落研」で活躍していたが、「部落研=民青」であり、「部落研」の仲間から民青の勧誘があまりにも凄まじく、「部落研」を辞めるに至り、さらにそれが原因で彼女は自殺したような解説している者がいるが、これは事実でなく、「二十歳の原点」関係では、「案内サイト」が、この辺りを正確に書いている。(注4)彼女を民青に勧誘していたのは、同じ学部の活動家である。

注4:「序章」67年5月11日の日記に以下のような記述がある。
   「部落研の子ども会に初めていった。卓球サークルに入ったが、全体の感
                       ―16−
  じとしては卓球をやって楽しかったことと、子供たちガサガサしていることの二
  つを感じている。
    長沼さん、渡辺さん、桜井さん、松田さん、北垣さん達のグループはそれぞ
  れ民青の会員として活動している。いわゆるオルグ活動を始めた。ちょっと奇
  妙に思ったが、私も勢力地図(イヤナヒビキをかんじる)の一端にのせられオル
  グの目的人となっているのかな・・・」
   この彼女の日記を捉えて、「部落研=民青」であり、執拗に彼女を民青にオ
  ルグしたと主張いていると思われるが、「案内サイト」の<序章1967年4−5月
  >は、「この段落も5月10日の記述と同じく直前に出てくる「部落研」と文章上つ
  ながりがあるようにみえるが、長沼さん以下5人の「グループ」は「部落研」と
  直接の関係はない。日本史学専攻の同級生のうちの民青メンバーという意
  味である。」と書いている。

  私は当時「部落研」の地域部会のキャップであった。しかし高野悦子さんを民青の対象者として勧誘したこともなければ、そのような方針を他の会員に下ろした覚えもない。後で詳しく述べるが、高野悦子さんの自殺と民青とは全く関係ない。(「部落研」の中の民青同盟員であったものが、個人的に勧誘した事例まで否定するものではないが、「部落研」として組織的にそのようなことはしていない。)

                      ―17−

第三章 高野悦子さんは、「部落研」で自己変革を成し得なかった


 その原因は大きく分けて3つあると思っている。
  @当時の情勢が複雑過ぎて、彼女には荷が重すぎた。
  A彼女自身の問題(自殺願望と生活態度のプチブル性)
  B当時の「部落研」活動の問題と限界(これがこの文書全体の中心)
 

1.一つ目は、その当時の情勢が複雑であった。

 彼女が立命館大学に入学した1967年という年は、立命館大学始まって以来の激震が走った時期であった。
 この年、同和教育の担当講師東上問題が勃発、学内を二分した紛争になった。この闘争が異常であったのは、現在までの学生運動は基本的には、国家権力との闘いもしくは大学当局との闘いであったが、民主的な運動団体(と世間的に認知されていた「部落解放同盟」)から立命館大学に攻撃がかけられるという非常に複雑な問題であった。(誰の主張が正しいのか複雑であった。)

(1)部落解放同盟京都府連が分裂

 そもそも問題は、部落解放運動のあり方として、部落大衆の要求を基礎としながら多くの民主勢力と共同して部落解放運動を行うか、1965年の同対審議会の答申に基づき、部落の持っている個別要求を勝ち取っていくという闘争方針をめぐる争いが部落解放同盟内で勃発したことに端を発する。
 この路線闘争の最大の戦いの場が、京都であり、京都では部落解放同盟京都府連が二つ存在するという変則的な事態があった。(部落解放同盟京都府連で多数派を握れなかった朝田氏が1966年1月にもう一つ府連を作った。)
 この分裂した一方の府連(朝田善之助氏)が立命館大学に同和教育講義の担当教官であった東上高志の書いた紀行文「東北の部落」(雑誌「部落1966年4月号」に掲載)を差別文書だと言い出し、その差別文書を書いた講師を採用している立命館大学は差別を容認する大学だと、立命館大学に攻撃を仕掛けてきた。
 元々この雑誌「部落」は、部落問題研究所の機関誌で定期的に発行されていた。この部落問題研究所自身が、「部落解放同盟」の外郭団体的な組織であり、この研究所を「部落解放同盟」が攻撃するというきわめて不可解な事件であった。
 「部落解放同盟」の分裂が、この研究所の所員の勢力争いにも反映し、多数は三木府連の支持派であった為、朝田善之助氏は部落問題研究所の所員であった東上高志氏を攻撃することにより、研究所そのものを自らの配下に置こうとした。
 朝田氏の策動がこの範囲で終わっておれば、それほど問題でもなかったこの事
                              ―18―
件を、その差別文書を書いた東上高志氏を専任講師としている立命館大学そのものを差別に加担する大学と決めつけ攻撃(糾弾)を開始した。
 どう考えても理不尽な「部落解放同盟」からの攻撃(東上高志の解任や部落研の解散)に対し、当初は,立命館大学は大学の自治に関する問題であり、東上論文は、不十分さはあるが差別文書と言えるものではないと主張してきたが、「部落解放同盟」は一歩も引かず、暴力を背景にした交渉(糾弾)で大学当局は当時部落問題の担当教官であった東上高志氏と馬原哲氏の採用を行わず、学生の自主的サークルである部落研に解散要求を突きつけてくる。(注1)

注1:立命館大学への暴力的糾弾闘争は、(参照:資料12)に以下のような記述   がある。
   (前略)
   (1968年)8月5日、大学は7月6日と同じ出席者で「部落解放同盟」との「話し
   合い」をもった。僕(産業社会部教授須田先生)の記憶では、この席だったと
   思う。同盟側の一人が「またこんなことをやりやがったら殺したるぞ!」と罵
   声をあびせた。
    僕には衝撃であった。が、同盟の責任者からもだれからも、「いましめる」言
  葉葉は吐かれなかったし、大学側も誰も抗議することはなかった。(以下略)
   (文書の中の( )内は筆者が補記した。) 

(2)学園民主化を願う学生は、学校当局の無責任さと闘った。

 この状況下で、この朝田氏の主張はまちがっており(本文34ページ注944ページ参照)、部落排外主義で民主勢力の統一戦線を破壊するものだと立ち上がったのが、立命館の『民主派』の学生であり、「部落研」もその先頭にたって戦った。
 この闘いは学部教授会も含めて、立命館大学のありとあらゆる機関で論議され、立命館大学を全く二分する議論となった。教授会では、立命館大学の文学部教授会が奈良本辰也氏や林屋辰三郎氏や師岡佑行氏(専任講師)などが朝田氏側に立ち、高野悦子さんが在籍した文学部日本史専攻教授会では、朝田支持派が教授会の実権を握っていた。

(3)学生運動では、「部落解放同盟」の介入に反対し、学校当局の姿勢を正そうとした者が勝利した

 学生運動でもこの問題が最大の争点となり、学友会選挙で『民主派』が勝利するという成果があった。
 この複雑な状況の中で、「部落研」の最大の課題は、「部落解放同盟」の現在の
                      ―19―
運動が決して部落解放に繋がらず、民主勢力全体に大きな打撃を与えるものだという宣伝を学内外で行うことが最大の課題となった。
  高野悦子さんを始め、この年度に「部落研」に入られた方は最初から立命館大学の学生運動の対立構造に巻き込まれ、「研究会」というよりも闘争の最前線に押し出された。
 高野悦子さんの不幸は、この大きな戦いの渦に巻き込まれ、じっくり部落問題を学ぶ環境が保証されなかったことにある。

(4)この状況を高野悦子さんはどう捉えていたか

★1967年5月24日
  府学連、全学連そんなものはもうたくさんだ。私は私の生活、学生生活をもっとたいせつにしていかなければならない。お茶をならって、ギターを弾いて、静かに文学書をよむのが何故いけないのか。(これは父母の彼女に対する要求でもある。(68/8/28)彼女は一方ではこの市民社会の常識に反抗している)
 私にとって本当に社会変革が必要なのか。人間は社会の中にいてこそ人間でありえる。確かに人間は社会をはなれては存在しない。

  この日記に彼女の本音が出ていると思われる。学生運動の府学連、全学連それらの対立は、彼女にはおそらく理解できなかったであろう。こうした運動の不毛な対立(彼女から見れば)に彼女は疲れていたと思われる。

2.二つ目は、彼女自身の問題(自殺願望と生活態度のプチブル性)

 彼女が「部落研」で成長できなかった原因には、彼女自身の問題もあったと思われる。以下@自殺願望、A生活基盤の違い、B恋愛感について見てみたい。

『自殺願望』


(1)二十歳の原点三部作を貫く思想は自殺願望

  高野悦子さんの二十歳の原点は三部作あるが、そこに共通している思想は「死生観=自殺願望」と「生活態度のプチブル性」、さらには「孤独であり淋しい、愛されたい」という願望である。さらに付け足しに「革命」がある。
  彼女は何か自分が挫折すると、自殺願望が出てくる。とりわけ「部落研」退部後、彼女が新たに選んだサークル「ワンダーフォーゲル部」で、同じクラブ員の男性に半ば暴力的に関係を強いられ(注2)てからは(68年12月16日「序章」)、酒とタバコの生活へ逃げ込んでいる。(この件については別途詳しく述べる。(本文:38ページ参照))

                     ―20−
注2:この「暴力的」にという言葉には、複雑な心境が絡んでいる。12月18日の日
   記(序章)には、以下のような記述がある。「鏡に映る首筋のキスの跡をみるた
   びに、私は怒り、憎む。左足の、内出血の黒ずみを見るたびに、私の衣服を脱
   がせ裸にした暴力(それは私という人間の意思も感情も抹殺した)に憤りをか
   んじる。しかし反面、私は耳たぶの火照り感じると、あの愛撫がなつかしくな
   る。」とも書いている。

 彼女の自殺願望については、中学2年生ですでに語っており、高校三年のときに、自殺願望は「『もの心ついたころ』からある」と書いている。(注3)

注3:「ノート」
  ★1963年1月28日(中学二年)
    今、自殺してもかまわないと思っている。残念とは思わない。
  ★1966年11月26日(高校3年生)
    正直なことをいって、生きることはめんどうでたいへんなことだ。時々私は、
     自殺しようかなと思う。生きていることから逃避したくなるのだ私の場合、これ
     は中学生のころから何かいやなこと、苦しいことがあるとそう思うようになって
     きている。もの心ついたころからである。

  彼女の日記を読めば「死=自殺」が常に底流にあるが、彼女の日記がそれ一色かと言えばそうではなく、彼女自信が落ち込んだ際に、その思想に彼女が逃げ込んでいるというのが実態であると思われる。(注4)

注4:「だが、自殺者に固有なのは、その当不当は別として、自分の我を、特に危
   険な、疑わしい、危険にひんした自分の芽ばえと感じていること、また自分は極
   度に狭い岩の先端に立っていて、外からちょっと押されても、内からささいな弱
   みがおきても、それでもう空虚の中に転落するかのように、自分を極端に危険
   にさらされたあやういものと常に思っていることである。・・・  
     こういう気分はほとんど常に青年の初期にすでに現われ、その人に生涯つき
   まとうものであるが、その前提となるのは、特に生活力が弱いなどというもので
   はない。それどころか『自殺者』のあいだには、異常に粘り強い、精力的な、そ
   してまた大胆さが見いだされる。(「荒野のおおかみ」74〜75ページ)

(2)「仲間」とか、「連帯感」とか、「団結」という言葉が現れない。

 彼女がまがりなりにも、革命家を目指すなら、彼女の日記に違和感を禁じえな
                    ―21―
い。通常活動家と言われる者が文書を書けば、「仲間」とか「連帯感」だとか「団結」という言葉がよく使われる。ところが彼女の日記には、「独り」「孤独」「淋しい」「人間を信ずるな」という言葉が頻繁に出てくるが、「仲間」とか「連帯感」とか「団結」という単語は出てこない。
 「団結」については、上記『青春の墓標』の感想の中で「団結力のあるクラスにしようかな」という高校時代の記述が唯一である。しかしこれも「ナドトオモッタ」と茶化している。(1966年1月7日「ノート」)「連帯感」については、「部落研」の活動が軌道に乗った際、一度述べているが(1967年10月12日「序章」)その1か月後には打ち消している。「感激的連帯感などという偽りのベールははがされた」(11月4日「序章」)。またワンゲルでは、「ナタで割り、火を焚き、飯をつくる。クラブ員との共同生活。お互いの信頼のすばらしさ。雲取山でははるかなる深淵を感じた。しかしそれは一挙にして崩れ去った。(その翌日、「小林との関係」が発生する。)1968年12月17日の日記(「序章」251ページ)
 
 この日記の最大のテーマは、「仲間」や「連帯」や「団結」でなく、「独りであること」、「未熟であること」、これが二十歳の原点である。(69年1月15日「原点」)に「宣言」されている。
 

(3)彼女の自殺は『青春の墓標』をなぞらえたものではないか?

 彼女の生活は乱れ、酒とタバコに月1万円も使い(69年4月15日「原点」)リストカットするような生活を繰り返し(69年2月1日「原点」)、思想的には、奥浩平の「青春の墓標」からさらにアナーキズムに憧れ(69年2月8日「原点」)、異性関係についても、若者の健全な恋愛というより、肉体関係を中心とした男女関係に引き込まれて行き(69年4月27日「原点」)、相手側が遊びであることに気づき、打ちのめされていく。
 思想的にも、単純な国家権力との闘い論に引きずられ、機動隊との格闘に憧れ、事実機動隊に殴られ、大きなショックを受ける。(69年6月15日「原点」)
 この行動が奥浩平の『青春の墓標』に酷似しており、奥浩平氏は1965年2月17日羽田で警察官と衝突、鼻を殴られ9日間入院、退院した数日後自宅で自殺している。
 高野悦子さんも1969年6月15日機動隊と衝突し鼻を殴られている。(自殺の2週間ほど前)おそらく奥浩平氏も高野悦子さんも機動隊との衝突を望み(4月14日の日記「原点」には、私は機動隊とぶつかりたい!)いざ衝突して圧倒的な力(暴力装置としての)の前に自らの存在の小ささを味わったのではないか。高野悦子さんは、『青春の墓標』を思い起こし、国家権力と闘ったという陶酔感と敗北感におそわれ、死への憧れの中で奥浩平氏と同じ道を歩いたという満足感が、
                      ―22−
彼女の自殺(6月24日)にはあったのではないか。(注5)

注5:高野悦子さんはこの『青春の墓標』に憧れ、この奥浩平氏の歩いた道を
 自分も歩いている錯覚に陥っているように見える。
   彼女の奥浩平に対するあこがれは、彼女の書く日記の中に英語表記が
  よく出てくるが、これも奥浩平の日記に酷似している
 例えば、1969年4月
  19日:鈴木はALL or Nothing
  22日:人間は醜い。ずっと前、横田君がいっていた。
   “I have my mother very much” 翌朝私は思った。  
     “My mother is ugly, my father is ugly"

『生活基盤の違い』


(1)革命家を目指すためにはプチブル性の克服が大きな課題であった。

  彼女は、自らの自己変革を求めていた、地域の子ども会を通じてそのことを実践しようとした。しかしそのことができなかった。そこには彼女の今まで生きてきた世界と全く違った生活があった。彼女はそれと闘い受け入れていく努力をしたが、現在も家族に守られている生活を放棄することはできなかった。
  彼女の生活費の話が書いてある場面があるが、1ヶ月40000円使ったということが語られている。「4月以来預金引き出しを統計しておどろいた授業料を除いて276,000(7ヶ月で)も使っている。」(67年11月14日「序章」)また、「3回生の時、酒とタバコ代に10000(半月で5000円)使った。」(69年4月13日「原点」)
  彼女がスト支援にいった市電の労働者の賃金は10年勤続で25000円(68年10月27日「序章」)、後にアルバイトに行った京都国際ホテルの従業員の初任給が18000円(69年3月29日「原点」)の時代である。
  彼女は、「家からの仕送りが25000円。彼女らの賃金(18000円)より多い。この矛盾!私だって家からの仕送りで生きていく方がよいのかもしれぬ。」(69年3月30日「原点」)と自ら書いている。家に帰れば十数万する晴れ着もつくってもらっている。(69年1月6日「原点」)さらに69年4月14日「家からの手紙、15万円送ったとのこと。嬉しかったぜ、おとっちゃんおかさん。」とも書いている。(「原点」)
  貨幣価値が違うのでこれを読んでもピンと来ない方がいると思うので、他の「部落研」の活動家がどのような生活水準であったかを記しておく。私が入学したとき立命館大学の初年度納入金は64000円であった。(平成2013年法学部の授業料は、1回生782,000、二回生以降は、 942,000円である。)私は浪人時代に
                      ―23−
アルバイトで12万円を貯めており、このお金で2年間の学費に使った。また5〜6千円の奨学金をもらっていた。サークル内では煙草を吸うものが多く、「煙草を1本くれないか」という会話がいつもされており、喧嘩が絶えなかった。(いつもせびっていると)。私はその状況を見てタバコには一切手を出さなかった。サークル仲間と、お酒を一緒に飲んだことも一切ない。(サークルの忘年会以外)誘われたことも誘ったこともない。お金が全くなかった。学校で食べるランチは55円の定食ばかり、シアンクレールでコーヒー(70円)は時々飲んだが(これは話し合う場所を確保するため)、コーラーなどの清涼飲料水は一切飲んだことがなかった。 
  活動が忙しくアルバイトも制限され、毎日帰りが遅いのに、新聞配達のアルバイトを行っていた。まさにどん底の生活であった。これは私だけの現象でなく、立命館の学生の多くは貧乏学生であった。(ちなみに私の父親の手取りは20000円であり、それで家族5人食べていた。・・・すでに姉は勤めていたが)
  彼女は、市電の運転手が10年勤続で25000円の時代に、月40000円を使っていたと日記に書いている。そして自分のプチブル性を認めながらも、この生活基盤から逃れられず、彼女が「地域の生活実態から学ぶ」と言ってもそれは難しかった。彼女自身の言うように「偽善者」という言葉が突きつけられる要素はあった。(注6)

注6:1967年11月23日(「序章」)
    「自己満足」―私はこの言葉を見てビックとした。まさに今までの地域活動
   が、自己満足のためのひとつにすぎなかったのだ。「現実の差別の実態を 
  学び、解放運動に寄与する」と、いくら何べんこの言葉をとなえていたにしろ、
   実際は自己満足を得ていただけであった。しかもその自己目的は偽善的なも
   のであった。生きていくには何かをやらなければならない。そのひとつが地域
   活動であった。子供達のことをいかにも考えているふりをした。しかしその中
   で、ただ単に満足(偽善的な)を得ただけである。
    地域には子供がいるのではないか。何かを求めているうるさい子供がい
  るのではないか。

(2)プチブル性の克服は彼女にはできなかった。(本文:60ページ「プチブル思考から全共闘運動へ」参照

  私はこの彼女の生活態度を批判しようとしているのではない。彼女にとってはむつかしい課題であったことを客観的に述べようと思っている。
  さらに彼女が最後に書いた「何かを求めているうるさい子供がいるのではないか」(67年11月23日「序章」)これについても、そう思ってしまったら、地域活
                     ―24−
動においても行き詰まってしまう。この数週間後に「部落研」退部の決意を行う。
  私はこの点については、当時の「部落研」の活動の限界があったのではないかと現在では思っている。この彼女の思いが自由に発言できる環境がなかった。この発言(うるさい子供)をしっかりとらえ議論していくことが重要であった。これは部落問題を取り組む運動自身がその当時抱えていた弱点だと思っている。(これについては「3.三つ目は.「部落研」活動の問題点(本文:28ページ)」で詳しく述べる。)

『恋愛観』


(1)革命と愛を求めたが、お互いに高め合う思想が無く破綻した。 

 彼女の恋愛観は、奥浩平の『青春の墓標』に憧れ、革命運動の中での恋を夢想した。しかし、日記を見ている限りでは、彼女は常に自分は美人であり、男はいつでも自分に引きつられて来るといううぬぼれが、一方にあり、もう一方に、自分はまともに自分の主張ができないという劣等感をもっている。
 彼女の恋愛観は、68年12月16日ワンゲルでの「小林との関係」後(これは後で詳しく述べる・・(本文:57〜59ページ))大きく変わっていく。ただ其の思想的基盤は革命と恋愛の一体感であり、同時に淋しいという思いから男を求めて行く。彼女の思想が12月16日以降酒とタバコとバリケードの中への逃避と退廃化し、アナーキズムに憧れるようになり、恋愛観も刹那的な男女関係を求め破綻していく。

<彼女の恋愛観の変化>
★67年10月27日の日記(「序章」)(純情編)
  三浦さんも10・26ストにきていた。あのぼさっとした感じと男らしさに引かれる。(中略)ストが終わって学生が集まったときジーパン姿の吉江さんを見て、その中に三浦さんのように戦闘的男らしさがあるのを感じた。(中略)のりの挨拶のとき、のりの視線に目をそらし、そのときこちらを何回となくみていたことから、私を好きなのかなあと思った。でも今考えれば、それは私の意識状況の反映(誰からも好かれるといううぬぼれと、彼もいいなという思い)であった。でも実際私はどうなんだろう。三浦さんにあこがれかも知れぬが、恋? 男らしさを感じたのは事実だし、相沢君のお兄さんにも感じた。(現在では大部うすれている)よく考えてみると、相沢君のお兄さんには人間的なあこがれ(説得力のあるあの声)を感じたが、男らしさは感じなかった。三浦さんにはそれがある。吉江さんにはある瞬間感じたのだが、それだけである。(この日以降三浦氏の名前が頻繁に出てくる。)

                     ―25−
★11月12日
  生協運動について勉強しよう。三浦さんに一歩でも近づくことになるから

★11月15日
  三浦さんもきっと民青に入っているのかなあー。
  帰り道、三浦さんがひょっと現れてきそうな気がして(ほんとうはきてほしかった)わびしかった。さびしかった。

★11月16日
 存心館前でばったり三浦さんにあう。(中略)三浦さんから生協の展示をやっているし。牛乳がただで飲めるし、見に来るようにいわれた。あんなに三浦さんがいるかもしれないし、生協運動についても知りたい(三浦さんが活動しているし)から見に行こうと思っていたのに、そっけなく冷たい感じで、じゃあ行こうかなーと言ってそのまま来てしまった。三浦さんはどういうつもりで言ったのだろう。ただ単に、一般学生に言うのと同じ意味でいったのだろうか。何でもいい。何かを話すために言ったのであろうか。

★11月18日
 私はこのところ続いていた気分的感情的な状態が最高潮に達していた。西山さんが、8時10分の汽車で消費者大会に行くと聞いて、思わず組織部の人はみんな行くの、と聞いてしまった。本当は三浦さんも行くとききたかったのだけど。三浦さんが行くような気がしてむしょうに見送りに行きたかった。

 11月の中旬までは、乙女心の可愛らしさが、にじみ出ているが、次の日記(12月1日)では懐疑的になる。

彼女の意識状態
◎11月4日感傷的連帯感などという偽りのベールははがされる時がきた。
◎11月23日:「うるさい子供がいるのではないか」「部落研」との決裂宣言


★12月1日
 私は三浦さんを好きなのだろうか、きらいなのだろうか、なんでもないのだろうか。

★12月20日
                     ―26−
 奥浩平を思い出した。真理はマルクス・レーニン主義の中にあるのか?

★1968年1月10日
 部落研退部の決意(この退部の決意の前に『青春の墓標』を読んでいる。また退部決意後も読んでいる。)

★1月11日
  長沼さんに三浦さんのことを打ち明けた(?)そして三浦さんに好きな人がいることをきいた。あまりショックをうけなかった。(やはりちょっと悲しかったことは悲しかったが)

★1月13日
  『青春の墓標』を読み

★1月15日
  本当に正しいことなんてあるのかな、人それぞれで違うのではないかと思ってしまう。けれどもまた、『青春の墓標』を読めば、「革命家の正しさ」を正しいと思うのである。

★1月21日
  ずいぶん時がたちました。友達と話していて、ふと三浦さんのことがでてきました。ずいぶん長い間忘れていました。話をしていて、なんとなく愉快な気持ちになりました。好きな人がいることを悲しく思いました。

★2月2日
  「三浦さんを好きだった」ということ、略して恋愛とすると、恋愛の時期と部落研活動の行きづまりの時期が重なっているが、行きづまりの解決として三浦さんに何かを欲したのか。三浦さんを好きだということが、どこまで本当なのかははっきりしないのだ。(中略)
  「愛されたい」ということは、相手を考えない、相手が望んでいるのか悩んでいるのかを考えない、全くエゴイズムなものであった。

★2月3日
  私は私の存在を否定したようだ。・・・三浦氏に対する恋心は終わる。部落研の行き詰まりとほぼ同時期である。

                     ―27−
  彼女は常に誰かに方想いし、日記にそのことを書いているが、具体的に恋愛に発展させていくことは出来ないでいる。
  入学当初は、三浦氏に憧れたが友達に「彼には彼女がいる」と言われ自然消滅していく、「部落研」退部後、ワンゲル部に入るがそこで林さんに憧れる(68年5月6日「序章」)さらに5月29日の日記(序章)には、「林さん、高山さん、三浦さんのことを考えている」の名前が出てくる。さらに7月1日「序章」には「片山さんのワンゲル論を聞いていると、高山さんよりも数段の厚みの違いを感じた」その後日記には恋愛の話は出ず、運命の68年12月16日「序章」「小林との関係」に遭遇する。その後、「全共闘」のバリケードに入り、京都国際ホテルのアルバイト(69年3月「原点」)に入ってからはホテルマンの鈴木氏を求め、さらにはホテルマン中村氏と關係を結んでいく。(これについては、第6章64ページで詳しく述べる)

★69年3月1日(「原点」):京都国際ホテルのアルバイト
 
<この頃から、「男を求める恋愛観」に変節>

★3月11日
  シアンクレールで渡辺のことをボンヤリと思い浮かべていた。(中略)9時、店を出て恒心館にいった。渡辺(新しい名前)が、もしいたらというか心細い幻想をいだいていて(「全共闘」系の学生か?)

★3月15日
  「アナーキズムT」を買ってきた。アナーキズム、それは恐ろしさを感じるとともに、また惹きつけられる。大体おまえは本当に自由であることを欲しているのか。フロムの「自由からの逃走」ではないが、自由であることに恐れているのではないか。(中略)
  アルバイト中、私はいつも夢を見ている。私の恋人になる人はあんな人かしら、こんな人かしらと。うえてるんだな。要するに。

★3月29日
  主任の鈴木(本文:65ページ参照)が余りにも私と似ているのに驚いた。小柄な骨ばった肩を左右にかすかに動かしながら歩いて行ったあの後ろ姿が何とわびしかったことか。機知とウイットに富んだやさしさと細やかさ溢れる鈴木は、孤独であることを知っているのではないだろうか。
  
 彼女は標的を「鈴木」に焦点を合わせた、この後積極的にアタックしていくが、
                      ―28−
鈴木は振り向かなかった。
  
  この時期(国際ホテルのアルバイトを始めた時期)彼女の恋愛観は、ワンゲルでの「小林との関係」という不幸はあるが、彼女の生き方との関連で恋愛を求めず、行きずりの男を漁るような恋愛を模索している。(注7)
  彼女になぜ恋人が立命館の学生からできなかったのか不思議でたまらない。私の感覚では、可愛らしすぎて手が出せなかった。ガラス細工のお人形さんのようであり、恋愛対象としては考えたことがなかった。おそらく学友たちも、可愛くて子供みたいな仕草をする彼女を恋愛対象とは見なかったのかも知れない。
  結局彼女は大学生活でいい恋愛ができず、プレーボーイ系の男性の餌食になったような気がする。そこには彼女自身の自己形成の弱さもあったのかも知れない。

注7:彼女はワンゲルでの「小林との関係」後、今後の恋愛についての基本的確
   認を行っている(12月17日の日記「序章」)しかし、この原則が守られず、後述
   するホテルマンの鈴木、中村(本文:66ページ参照)に対する「恋愛」は、単に
   男を求めている。

★12月17日(「序章」)(「小林との関係」ができた翌日)
  「私は男と女が肉体関係を結ぶには、双方の同意というより意思がなければならないと思う。相手が何を考え、何を悩み、何に関心があり、要するに何も知らないのにその関係を結ぶことは出来ない。知り、理解し、そして愛しているということ、そして双方の意思があることが必要だ。」

★1969年4月24日(中村との関係ができる3日前)
  私は、ファザーコンプレックスはますますひどくなった。いつでも男を求めている。

3.三つ目は、当時の「部落研」の活動の弱点

  私自身の反省から言えば、高野悦子さんにとっては、地域の子供が必ずしも良い子に見えず、子ども会活動を行っていく上でいろいろ問題を抱えているのに、「地域から学べ」と言われても何を学んでよいのか分からないという状態に陥っているのに、「部落研」はそれに十分対応できる体制(システム・マニュアル)は取れていなかった。
  また彼女が自分の今の生活環境や生い立ちと、部落の現実のギャップから、現在までの自分の生き方に甘さを感じ、自己嫌悪に陥入り、「かわいそう」というような感情ではなく、自分自身のものとして捉えるという「部落研」の先輩の言葉
                     ―29−
の重さに、悩んでいると思いながらも、彼女と突っ込んだ話ができなかった。 
  それは、我々自身が会員全体の成長に十分配慮できる力量も余裕もなく、また、彼女が常に笑顔で答え、首をすっこめ、ごまかしてしまうため、次の会話に発展させていくことが難しかった面もあった。

(1)「部落研」サークルの中で仲間を作らなかった

 二十歳の原点(序章)を見ていて不思議なことがある。彼女は入学後(5月から)8か月間、「部落研」活動が彼女の生活の中心を占めていたと言いながら、「部落研」のサークル活動に対する記述が極めて少ないことである。ここにある日記は彼女のお父さんに選択されて編集されていて、実際の内容はまだまだ裏に隠されているのかもしれない。
 まず、サークル内の彼女に対する働きかけが皆無である。日記の中には友達との会話あるいは民青にオルグされた話などがよく出てくるが、すべては日本史専攻の仲間からに見える。同期で入った6名女性会員とどのように接していたのか、あるいは先輩の会員や、男性の会員ともどのような話をしていたのかが全く見えて来ない。この日記の不思議なところである。彼女はこのサークル活動が自分の生活の大部分を占めていたと言いながら、仲間ができた、あの話に感動した、地域に入ってこんなことに驚かされたとか、そうした記述が極めて少ない。
 夏休みには京都府の農村調査に7月20日〜8月1日まで入っている。これは2週間ぐらい地域の子ども会を組織し、地域の青年団と話をしたり、地域の方々との接触を行いながら、農村における部落の現状から学ぼうとする活動である。
 2週間「部落研」の会員が寝食を共にし、共同の作業を行うこの合宿は、サークル員の団結を固める上でも貴重な体験である。しかし彼女の日記には、日程以外には、自分の感じたことなどの記述が一切ない。
 私は彼女と同じ時期に農村調査に参加していないが、前年に参加している(一回生の時)。その際、地域の青年が、「我々は部落を捨てることができない、貴方たちは、いつでも捨てることができる。この地域で活動をするなら、この問題と一生闘うという姿勢を示してほしい。単なる見学ならお断りする」と言われ、身が引き締まった思いがした。さらに2週間の生活は、仲間という感情が深まり、私は大学生活を「部落研」活動にかけようと決意したのはこの時であった。(それまでは参加していたがお客さんであった。)彼女に一律に同じ感情を求めるものではないが、どう感じたのか日記に何の記述もないのが不可思議な感じがする。
 彼女の日記の中で、「部落研」の会員について語っているのは唯一1967年10月27日の日記(「序章」)10.26公務員スト支援の記述の中で、吉江に対する人物評である、「ストが終わって学生が集まったときジーパン姿の吉江さんを見て、その中に三浦さんのように戦闘的な男らしさがあるのを感じた。最初に感じた「よ
                      ―30−
うわからんけど」に象徴されるひ弱さは、謙虚さ、素直さ(私のと違って内に見え、外に優越感を含まない)であったが、それと反対の性格のような戦闘的男らしさというものが吉江さんにあった。」と私が批評されている。吉江(私)としては、その当時の私がこのように見られていたということは嬉しい限りであるが、私も気の弱い、駄目な人間であった。
 この日記を書いたのが、10月27日、そして「私は始めて連帯感が生まれた。」が10月12日で、この辺りが「部落研」活動に対する彼女の一番高揚期であったが、10月30日に12000円を紛失する事故にあい、この後連帯感を否定していく。(11月4日)・・・これについては次に詳しく述べる。(本文:30〜32ページ)

(2)彼女はなぜ「部落研」をやめたのか


<気になるのは、日記が三つある>


@第一が、
★1967年10月12日の日記(「序章」)である。(彼女一回生)
  私に始めて連帯感が生まれた。
  私はすべての解決の方法をそとに求めるのではない。私の内部の闘いは会によって規定されており、それを変えていくということをしなければ私という一人間の解決はないからである。
  飯島さんが「部落研の活動やってどうか」ときいた。私は「やりがいがあることだと思うけどいつもその苦しさにしりごみしている」といった。飯島さんは「やりがいのあることだというのはいい傾向ですね」と例の調子でいった。
 私はその後、ああちょっとうそをついたなと思った。しかし今はうそであるとは思っていない。すばらしいやりがいのあることだと思っている。
  ふと民青に入ろうかと思った。しかし、もう少し自信がついてからにしよ思い返した。
 
  私は、この文書の中の「いつもその苦しさにしりごみしている」という発言に注目している。この日の日記は彼女にとって一番精神的な高揚期にある。「私は始めて連帯感が生まれた」で始まり、部落研活動を「すばらしいやりがいのあることだと思っている」で結び、最後には「民青にはいろうかと思った」とまで書いている。
  しかし一方では「その苦しさ」という表現をしている。この「苦しさ」がなんであるかが重要である。おそらく彼女に突きつけられてプチブル的自分の生活態度の変更が求められ(部落差別実態が)、そのことを断ち切きれない苦しさだと思う。
                     ―31−  
A第二は、10月30日(月)の日記と11月4日(土)の日記の関連

★10月30日(月)の日記(「序章」)
  「おろしたての貯金12000円をなくしてしまった。土曜日に同志社近くの食堂でたべたときには確かにあったのだが・・・・アルバイトをしていつかは返そう。ギターをかうことはこれでフィ!残念!」
  「しかし一体どこでなくしてしまったのだろう。ふと隣保館のことや、佐藤さんのことを思いうかべてしまう。非常に侮辱だ。また私の邪心のあらわれを示す以外の何ものでもない。こんなことをいうのは大変恥ずかしい。しかしこのノートには何でも思っていることを書くのだ。思い切って書いた。ものすごい罪だとじぶんでも思う。」

★11月の4日(「序章」)(10月30日の次の日記に)
  感覚的な「時」はすぎ去った
  思考による 論理的思考による行動
  それをおこす「時」がきた
  感激的連帯感などという偽りのベールははがされるときがきたのだ
  理性による緻密な論理的思考
  そして それによるエネルギッシュな行動
 と書いている。(以下省略)

  彼女が「私に始めて連帯感が生まれた」と書いたのは、10月12日であった。ほぼ一ヶ月足らずで、彼女は「感激的連帯感などという偽りのベールがはがされたのだ」(11月4日)と書いた。これに10月30日の12000円の紛失が絡んでいないであろうか?・・・私はこの点が気になっている。(この12000の価値であるが、彼女が最初にアルバイトした(67/7/1)日本写真印刷の日給が8時間労働で900円であることから判断すれば、彼女の失ったお金は、現在の価格に直せば10万円前後かと思われる)
  彼女は、紛失の原因が、隣保館でないかとふと思うが、その自分の思考の「犯罪性」に悩み、自己嫌悪に陥っている。この件の事実関係は全く分からないが、今になって思うのは、地域に入る場合、地域活動の心得みたいな物をしっかりオリエンテーションしておく必要があった。
  彼女は5月10日に「部落研」に入部し、何の準備もなく、翌日には地域に入っている。(何しろ「地域から学ぶ」を最大の課題にしていた。)
  高野悦子さんの場合、不用意に大金を持ち歩き、それを紛失した際、その原因がわからず、ひょっとして隣保館でという疑念が頭に浮かぶ。その際、自分がそう思ったことに自己嫌悪に陥り「非常に侮辱だ。また私の邪心のあらわれを示す
                      ―32−
以外の何ものでもない。こんなことをいうのは大変恥ずかしい。しかしこのノートには何でも思っていることを書くのだ。思い切って書いた。ものすごい罪だとじぶんでも思う。」(10/30)と書いている。
  彼女はこの段階で自分が思ったことを否定し、同時に自分のやったことが「大変恥ずかしい。地域に対する侮辱だ。ものすごい罪だと思う」と書いて自己批判しているが、何か割り切れないものが残ったのではないか。それが大金紛失5日後の11月4日の日記、「感覚的な「時」はすぎ去った。」「感激的連帯感などという偽りのベールははがされるときがきたのだ。」という形で現れたのではないかと推測している。(10月30日の日記から10月4日まで日記は書かれていない。・・大金紛失後の最初の日記)
  私がここで言おうとしていることは、地域でなくなったということを主張しているのではなく、彼女の11月4日の日記がその影響を受けてというのも全くの私の想像でしかないが、もしそうなら、そのような疑念が起こらないような環境設定(大金を持ち歩かないなど)を事前に整えておくべきだったという反省である。
  ただ、貧乏学生であった我々には、そのような大金を持ち歩くことが想像すらできなかった。(この年には割と裕福な家庭の子どもが入部してきた。)

B第三に注目すべきは(実質的な退部決意・・彼女が日記に書いているのは1月10日であるが)
★11月23日の日記である。(「序章」・・これは重要な日記である。)
 この日記に、高野悦子さんの本音が書かれている。

  まず、@「義務的、宿命的な気持からBoxにいった。」(中略)A「自ら積極的に生きようとせず逃避的に生きている」私にとって、B「部落研は私の生活の一部になっている。」そこは、C「逃避的な生き方など全く許されず、「生きていく」場所なのだ。」(中略)D「その作業は私にとって非常に大変なことだ。「生き」なければならないから。」(中略)
   「自己満足」−私はこの言葉を見てビックとした。まさにE「今までの地域活動が、自己満足のためのひとつにすぎなかったのだ。」F「現実の差別の実態を学び、解放運動に寄与する」と何べんこの言葉をとなえたにしろ、G「実際は自己満足を得ていただけであった。」しかもHその自己満足は偽善的なものであった。」生きていくには何かをやらなければならない。I「そのひとつが地域活動であった。子供のことをいかにも考えているふりをした。」しかしその中で、Jただ単に満足(偽善的な)を得ただけである。
 K地域には子供がいるのではないか。何かを求めているうるさい子供がいるで
                     ―33−
はないか。この日記の中に彼女の本音が出尽くしているのではないか。(番号は筆者が補記した)

  彼女は「部落研」の活動を「やりがいがある」と答えた。しかし同時に「苦しい」(注8)ともいった。しかし彼女は前向きに捉え、自らの自己変革のためにも「部落研」活動を積極的に捉えようとした。
  しかし、彼女は「差別の現実から学ぶ」この「部落研」の基本方針について行けない事実にぶつかったのではないかと思っている。それが12000円の紛失ではないのかと思っている。彼女はこの時点で「ひょっとしたら地域でなくしたかもと思い」そのことで、自分の中における「差別性」がある。自分は「部落研」で活動しながら、何ら変革を遂げていないと、自分を責めたのではないかと思っている。
  自分は、地域の現実から学ぶという方針を受け入れ、この間努力をしてきたが、お金が亡くなった時に、ふと直感的に思った自分の心の中の差別性に自らおののき、その時点で、自己否定を行うために、彼女は今までの活動が偽善であったということで、部落問題から背を向け、この苦しさから解放されようとしたのではないか。
  同じように子ども会の子供たちとの「連帯感」が生まれていたのにも関わらず、敢えて「地域には何かを求めているうるさい子供がいるではないか」と表現し、この間の「部落研」活動が「偽善的なもの」と自らを卑しめることにより、「部落研」活動から手を引くことを合理化していったのだと思われる。
 
注8:この「苦しい」とは何を指しているのか難しいが、
      11月23日の日記(本文:32ページ)がその回答だと思っている。
    彼女の生き方の原則は、A「自ら積極的に生きようとせず逃避的に生きてい
   る」私の生活はB「部落研は私の生活の一部になっている。」その部落研は、
   C「逃避的な生き方など全く許されず、「生きていく」場所なのだ。」そしてD
   「その作業は私にとって非常に大変なことだ。「生き」なければならないから。」

 これが彼女の「苦しい」という中身だと思われる。「部落研」の提起する「仲間を信じ、前向きに生きる」という姿勢を理解し、連帯感が生まれたと表現したが、何らかのことで、その連帯感がウソだと感じ取り、このような表現になっていると思われる。
  さらに、E「今までの地域活動が、自己満足のためのひとつにすぎなかったのだ。」F「現実の差別の実態を学び、解放運動に寄与する」と何べんこの言葉をと
                       ―34−
なえたにしろ、G「実際は自己満足を得ていただけであった。」しかもH「その自己満足は偽善的なものであった。」I「そのひとつが地域活動であった。子供のことをいかにも考えているふりをした。」しかしその中で、Jただ単に満足(偽善的な)を得ただけである。(注9)
  この自分の「部落研」での8か月間の活動(生活)をただ単に満足(偽善的な)を得ただけであると自虐的に総括し、その苦しさから逃げようとしている。

注9:自らの心の中における差別性の問題は、部落問題をはじめとする差別問題
   を取り組む時に必ずぶつかる問題である。朝田善之助氏はこの世間一般にお
   けるこの悩みにいち早く目を付け、「差別する者」「差別される者」という構図
   を描き、部落外の者に対して、その心の中の差別性を暴くという闘いを組織し
   ていく。三木一平氏率いる京都府連は、このような差別論は部落解放には全く
   役にたたず、国民大衆の分断と反発を招き、部落解放にとっては有害な理論
   だと主張され、国民大衆の中の遅れた意識については、糾弾闘争で暴くという
   ようなやり方でなく、対話と説得・学習を通じて克服していく方法を提示されて
   いた。我々学生「部落研」も、朝田氏の差別論には批判的であったが、彼女
   が悩んだ心の中の差別性の克服の議論がサークル内で十分議論できていな
   かった。

  この事件(12000円の紛失)は、彼女が報告しておらず、議論のしようもなかったが、彼女がこの問題を相談できなかった雰囲気があったのだと思われる。(この問題は、次の「部落研」の問題点で詳しく触れる。)

(3)彼女の子供に対する見方は間違っているのか?

 彼女は1967年10月23日「序章」には、「電車の中で、時代祭の帰りらしい親子連れが何組かいた。確かにマイホーム的な楽しいムードが彼らにあった。しかし子供のちから強さ、雑草のようなたくましさがない。」と書いて、逆に部落の子どもたちには「ちから強さ、雑草のようなたくましさがある」と評価している。
 この彼女の地域の子供たちに対する評価は、11月23日「序章」の「何かを求めているうるさい子供」という評価と180度違うように見えるが、そうではなく、この両面を子供たちは持っていたのである。しかしその当時の活動は、「地域から学ぶ」、「地域に寄り添って自己変革を勝ち取る」というのが主要な論理であり、彼女の見た「うるさい子供」がいるという評価はタブーであった。彼女は澄んだ目で事実を見て、思ったことを発言している。しかし、これを我々が受け止めることができなかった。
 おそらく彼女自身は、この自分の見た感想(うるさい子供)が、地域子ども会
                      ―35−
に対する裏切りと捉え、自らを偽善者と語り(注10)、自虐的思考の中に自らを追いやっていく誤りを犯している。当時の「部落研」活動の弱点については、次に書く。

注10:上記にも述べたが、「偽善者」と自らを卑しめ、「部落研」活動から脱会する
   ため、自分を納得させるための「合理化」を行ったものと思われる。
    ただ彼女の思考は、完全に整理されたものでなく、その日によって違う意思
   を表している。

(4)1967年11月23日以降1月10日(「部落研」退部決意)の間での彼女の心の揺れ。

  彼女の退部の決意は、日記上は1968年の1月10日(序章)であるが、思想的には、前年の11月23日の日記(序章)で退部の決意を行っている。この日記には、多くの「重要なキーワード」があることは先に述べた。(本文:32ページ参照)

★11月25日(「序章」):
「どうしてそうしなくちゃいけないの」(見出しは筆者が加えた。)
  「人間、生きるか死ぬかでしょう。私には生きようとする意思がないのよ。だけどもそれにもまして自殺する勇気はないの。だから仕方なく生きているのよ」
「自分の弱さがあったら、その弱さを動くこと活動することによって克服していく。そのことによって進歩するじゃないか」・・以上谷崎さん(この人が誰だか特定はできていない)の説得
  けれども私はやっぱり言う。「どうしてそうしなくちゃいけないの。やらなくてもいいんでしょう」自分の弱さを認めまいとし自分は完全であると思いこもうとしている。自分の居場所は絶対安全。くずれおちないものと思っている。エリート的プライドをもっている。それがもともとの意志薄弱とつながって、高慢ちきにも『どうしてそうしなくちゃならないの』と豪語させている。」

  下宿に着いてフト思い出した言葉
  樺美智子の「徹底的学習と闘争の中でのみプチブル性はなくなっていく」
  私にとって必要なものは徹底的学習だ。

★11月28日:先週の反省・・生活の乱れ
  この1週間でたいへんかわったと思う。クラブの中で自分を表現することを覚えてきたし、自分の弱さもわかってきた。生活は不規則であったが、考える
                     ―36−
生活をしだした。その反面まだまだ総括とそれに基づいた行動という点では弱い。総括作業自体が行われていないときもあったし、行動という点では、特に学習活動(部落問題、日本史、身近な問題)がほとんど行われなかった。
  この日記の書き出しは「学校に行ったのが5時半。家に着いたのが夜中の12時。このところ不規則な生活が続いている。5時になると11月末なのでもう寒い。三条大橋を歩いていて生活が乱れているなあとしみじみ思った。先週の目標である規則的な生活がちっともよくならず、それどころかよけい不規則になっている。内容的にみればこの1週間は苦痛と甘えに満ちたものであった。」

  11月23日に実質的に「部落研」退部の決意を行っている。(日記から)その後の1週間の生活を書いている。退部後生活が不規則になっている。
私は、彼女と同じ「部落研」に所属したが、帰りが12時になることはなかった。市電で家まで帰らなければならず、最終電車までには必ず帰っていた。立命館大学から歩いて家に帰った記憶は一切ない。またタクシーで帰るお金は持っていなかった。彼女の12時帰宅が何によるものか不思議である。

★11月29日:今週の目標(5つ)  
 ・部落研活動の任務を果たす

★11月30日「雨の三千院」に出かけた
  部落研学習会とやることがあったけれど、「雨の三千院」に出かけた。
  
 23日には実質上の部落研退部決意を行い、28日の日記には「この1週間は苦痛と甘えに満ちたものであったと」総括し、29日の日記には今週の目標(5つ)の中に「部落権活動の任務を果たす」と書きながら翌日(30日)には、「雨の三千院」に出かけている。(彼女の苦悩が伺われる)

★12月3日:ロマンチックなニヒリズム
  2日―クラブをやめる気持ちからぬけきらないまま学校へ行った。(中略)
    私の生活が「ロマンチックなニヒリズムの上にたった生活」であることを、そし
  てそこからあのすてばちな気持が出ていることを知らざるをえなかった。

★12月6日:部落問題は、二大支柱の一つ
  大学生活をおくる中で、私は部落問題に関心を持ち始め、今では部落問題の研究は「学問する」ことの二大支柱のひとつになっている。

                      ―37−
★12月13日:民青加入を決意
  キヨも言っていた。「部落問題をまだ自分のものにしていないなあ」といった。同盟に入るのは自分であり、自分の生き方をきめることである。
 (中略)
  1月2日(19歳の誕生日)に、未来に生きる人間として同盟加入を決意したい。  
  この日記に彼女は「未来に生きる人間」という言葉を使っていることの大いに着目する。この言葉、「未来に生きる人間」これこそは末川民主主義を表す言葉であり、2008年7月15日の立命館の危機を克服し新たな学園想像をめざす大集会で「歴代学友会中央常任委員長による声明」の中に「未来を信じ、未来に生きる」学生を多数輩出してきた大学」という表現がなされている。(参考:資料10)

★12月20日:このごろ「部落研」活動はやっていない。(奥浩平氏が出る)
  部落研活動はこの三日間全然やらずに過ごした。
  (中略)
  このごろ部落研活動をやっていない。活動から遠ざかっている。クラブを辞めたいと思っている。どうしてであろうか。大学入学以来不安定であったが、それにもましてこのごろはよけい不安定である。
  (中略)
  1.民青加盟によって自分の立場をはっきりさせることの恐れ、不安。
  2.行動に対するけだるさ
  3.集団の中で自分を位置づけることができないことから起こる疎外感
  4.学習
  5.文学書を読むこと。遊びをすること、旅、バイト・・・・やりたい。
 
  原点にもどって考えてみると、私は部落研の研究をやりたいのだろうか?部落史をやるならば、部落問題の研究は前提である。
 
   奥浩平を思い出した。真理はマルクス・レーニン主義の中にあるのだろうか?

★12月31日:この一年間をふり返ってみると(10個羅列)
  ・知らぬまに学生運動をやってずっときてしまった
  ・大学のクラブ生活ってあんなものかなあ
  ・夏休みの農村合宿
  ・団交
                      ―38− 
   ・週三回の地域子供会
  
  「でもこれまでの18年間とおなじように『確立された自己』とはほど遠い。どうせ新しい年、つまり明日がきたってだめなんだ、と思った。」(10個の内5個は「部落研」の問題)

★1968年1月2日:民青加入予定日(12月13日の日記に記載)
  何の感動も感激もない19歳の誕生日、およそ20日前、佐藤さんに同盟に入る
 ことをすすめられたころは、19歳を輝かしいものにしようとはりきっていた。

1月10日:部落研、退部の決意
  退部の決意を支えているのは「学習したい。学習しなければならない、このまま
ではいけない」という意識である。それだからといって退部の理由にならないのは
知っている。
 この退部の決意で、私が納得できないのが、12月13日の日記(序章):民青加入を決意の行である。
 「部落研」を自分のものにしていないという指摘を受け(キヨから)、それを受け止めながら、一方では19歳の誕生日に民青に入る決意を行っている(実際には入っていないが)彼女にとっては、「部落研」の活動が「全くの自己満足欺瞞であった」と総括しながら、「民青に入る」ということが全く矛盾していないことに違和感を禁じえない。彼女にとっては、「部落研」がダメなら今度は民青だという次元で捉えているのかよくわからない。
  1月10日の日記での退部の決意は、「学習をしたい」が最終決断になっているが、彼女が「部落研」をやめて学習に集中できたかというとそうではなく、結局は酒とタバコ中心の世界に堕落していく。(「部落研」退部後ワンゲル時の彼女で詳しく述べる、)

  参照ページ:
   本文53ページ(酒)
   本文55ページ(タバコ)
   本文57ページ(酒を飲み酔っ払い旅館に連れ込まれた。)(68/12/16) 
   本文43ページ(生活の乱れ)  
   本文22ページ(酒とタバコ代)

                    ―39−

第四章 当時の部落問題に取り組む運動の混乱と限界

<はじめに>
 高野悦子さんの問題を語る際、彼女は67年5月10日から翌年の4月13日まで「部落研」の会員であった。その彼女を我々は一人前の活動家(学生)に何故成長させることができなかったのだろうかという視点で総括する必要がある。我々「部落研」活動に弱点はなかったのかを点検してみたい。
 当時「部落研」は大学だけでなく、高校「部落研」の活動も盛んであった。私は子どもの頃京都市の東九条に住んでおり、近くに七条部落という京都最大の部落があった。代替え教員が配置され、その先生が部落問題に取り組まれていた。そして七条で子ども会を組織されている話を聞き、そこへ参加したのが部落問題との最初の関わりであった。また学校全体としてもそのような雰囲気があり、「人間みな兄弟」―部落差別の記録―という映画を学校で見せられたりもしていた。
 私は高校に入り2年生の時、友達数人と「部落研」サークルを作り、当時の生徒会長と2人で、香川県琴平で行われた部落解放同盟主催の全国的集会に参加した。(学校の予算で)その時、船で四国に渡ったが、船の中で竹田部落の青年団(20人位)が、歌(歌の題名は忘れたが、「部落解放を目指し、みんなの胸を叩いて回ろう」という歌詞であった。)の練習をしていた。その時の歌声の力強さに感銘したことは今でもはっきり覚えている。

1.活動の中心は「差別の実態から学ぶ」であった

  当時、高校の「部落研」は多くの学校に存在し、部落問題研究所の石田真一先生などがまとめられていた。その当時の「部落研」の活動(大学においても)「地域の実態から学ぶ」が最大のスローガンであり、地域の子ども会などを組織しながら、地域の人たち生活実態や話から学ぶことを主要な柱としていた。
  つまり部落に寄り添うことにより、自己変革を勝ち取って行くという活動スタイルであった。このことは高野悦子さんの1967年11月23日の日記(序章)で彼女が「現実の差別の実態を学び、解放運動に寄与する」と何べんこの言葉をとなえたにしろ実際は自己満足を得ていただけであった。」と書いているところから見ても、当時の基本的立場であった。(彼女もそう受け止めていた。)
  部落解放運動は、1965年以降、同対審方針への対応を巡り内部対立が激しくなり、「同和利権」に特化して行政闘争を重視する朝田氏率いる「部落解放同盟」に対して、部落の解放を統一戦線の一翼を担う中で、日本全体の民主化運動の中で解決すると主張した三木府連との間で、政治的に対立していくが、当時は部落外の人間が解放運動に携わる形態が確立できていなかったのではないか。
                     ―40−
部落の解放は部落住民の課題であって、あくまで部外者は部落に寄り添い、部落から学ぶ対象でしかなかった。 岐阜大学の藤田教授が「同和はこわい孝」(1987年:阿吽双書)という本を出版され、お互い(部落の内外の者が)に乗り越えることが大事との問題提起がなされ、そこに多くの研究者が集まり、「差別とは何か」に始まり、部落外の人間の同和問題の関わり方まで幅広く論議を重ねられてきた。私はこの中で、住田一郎氏の「被差別部落民の内面」という論文に注目している。(「部落の過去・現在そして・・・」阿吽社:1991年)以下少し長くなるが引用する。

2.住田一郎氏の問題提起に学ぶ


(1)住田一郎氏の問題提起「共に育ち学び合う」

 彼は、「おまえはそれでも部落民か!」と父に一喝されながら、父の言葉をヒントに、部落問題は“光輝く”部落解放運動だけでなく、多くは地域内での被差別部落大衆の具体的な日常生活(拝金主義、子育て放棄、活字文化との遮断、学歴不要論)に色濃く反映している部落差別の影=被差別部落大衆の「低位性」についてのものであった。
 私が今日の部落差別の実態として被差別部落大衆の「内面的弱さ」に注目するのも、遠くはこの父の一喝によっているのである。(中略)
 20数年も以前にすでに指摘されていた永年の部落差別による被差別部落大衆自身の生活に色濃く残された「内面の弱さ」の克服を私たちは以後の運動の中でどのように具体化してきたのかが問われている。
 (この内面的弱さ)は、捉えがたいだけに、ややもすれば部落大衆にとって素通りされやすい事実である。ましてや出身者以外の人々にとっては、「内面的弱さ」は部落差別の否定的な結果なのだから、その責任を部落大衆に押し付けることはできず、ストレートに指摘できないとして、気づいてもオープンには指摘しにくい課題でもあったのではないか。出身者でない人は、「自主規制しながら、『部落解放運動に連帯する』、『部落差別の現実(実態)に学ぶ』をスローガンとして掲げ、部落大衆を一方的に『学ぶ大衆』としてのみ客体化し続けたのである。」ただ、この出身者以外の人々の配慮が部落大衆にとって決してプラスになってこなかった現実は、あまりにも多く見られる。
 この善意の配慮が結果的に部落大衆の「目を見つめる」、つまり自己改革の芽を摘んでしまったのではないか。
 その結果、部落大衆の多くは、このような解放運動の中で、出身者以外の人々との連帯のありようを、部落大衆への「限りない歩み寄り(寄り添い)としてしか理解できず、対等・平等にともに成長し、ともに歩む連帯運動をイメージできなかった。自らと異なった生活を背負った出身者以外の人々から学ぶべき内容は
                     ―41−
数多くあり、その機会もなかったわけではないにもかかわらず、これまでの部落解放運動は「ともに育ち学びあう」視点を軽視してきたために、部落の大衆の多くは、部落内での「狭い生活体験」のみに安住し、それからの脱皮を自らの課題とすることすらしてこなかった。」以上で引用終わり。

 この論文の執筆者である住田一郎氏は、私と同年代であり、学生時代大谷大学の「部落研」に席を置いていた。現在は(この論文執筆時は(財)西成労働福祉センター職員であり、部落解放同盟大阪府連合会住吉支部支部員)であるが、学生「部落研」がとのような立場性で子ども会活動をやっていたかはよく知りうる立場にある。

(2)「地域の実態から学ぶ」は、随伴者の域を出ない。

 彼の指摘している部落の「内面的弱さ」について触れてこなかった運動(とりわけ部落外からの参加者)は、「『「共に育ち学び合う』という視点を軽視して来たため、部落の大衆が、部落外から持ち込まれる生活習慣や文化・価値観を学べる機会を失い、結果として部落内での『狭い生活体験』のみに安住し、それからの脱皮を自らの課題とすることすらしてこなかった。」と部落大衆の「内面的弱さ」の克服が不十分だったのは、部落外からの参加者が部落大衆を一方的に「学ぶ大衆」としてのみ客体化してきたことにも原因があると住田氏は、指摘している。
 我々学生「部落研」は、「地域から学ぶ」を最大のテーマにして「部落研」活動(地域活動)を行ってきたが、「共に育ち学び合う」という視点が弱かった。子ども会活動においても、地域の子供の良さを見ていこうとする立場が優先し、地域の子供の持っている弱さ弱点を客観的に見ていく視点が弱かった。部落差別と闘う中で自らの弱点も克服されるという考えのもと、差別と闘える子どもを育てていくところに視点があったと思われる。(学力の向上などは軽視していた。)事実差別に目覚める中で地域の青年が生き生き育ってくる姿もたくさん見てきた。
 部落解放同盟が、狭山差別反対を掲げ、子供たちにゼッケンをつけさせ、登校拒否するようの運動に接して、その誤りに気づいて行くが、子供の正常な発育にとって何が大切かを十分議論せず、「差別と戦う」ことに重点をおいた子ども会活動を行ってきたきらいがある。住田氏が指摘する「部落外から持ち込まれる生活習慣や文化・価値観を学べる機会」という役割が我々にあるという意識は極めて弱かった。

3.高野悦子さんが育たなかったのは

  我々自身の中に「共に育ち学び合う」視点が弱かったのでないか!
  高野悦子さんはなぜ「部落研」で成長できなかったのかという命題を立てた場
                      ―42−
合、我々「部落研」の運動論の持っていた弱点(共に育ち学び合う視点の弱さ)が関与していなかったのかの総括が必要だと思われる。
  彼女の子供に対する評価の変遷の中にそのへんのカギがあるのではと思っている。先に見たように、最初の高野悦子さんの感想は、「子供たちはガサガサしている」(1967年5月11日「序章」)であったが、10月23日の日記「序章」で、電車で見た親子連れに対して、「確かにマイホーム的な楽しいムードは彼らにはあった。しかし子供の力強さ、雑草のようなたくましさがない」という表現で地域の子供には、「ちから強さや、雑草のようなたくましさがある」と評価している。ところが、11月23日の日記「序章」には、「何かを求めているうるさい子供」という評価になった。
 
  「地域から学ぶ」、「地域に寄り添って自己変革を勝ち取る」というのが主要なテーマであり、彼女の見た「うるさい子供がいる」という評価はタブーであった。彼女は澄んだ目で事実をみて、思ったことを発言している。(日記に書いている)これを我々先輩が受け止めることができなかった。(実際は、彼女は発言していないが)彼女自身もこの自分の見た感想が、地域子ども会に対する裏切りと捉え、自ら偽善者と語り、自虐的思考の中に自らを追いやっていく誤りを犯している。
 
  彼女が10月30日に12000円を紛失して、一瞬「ひょっとしたら」という彼女の発想が、必ずしも彼女の差別性を表すものでなく、お金等がなくなった場合、すべての可能性について点検するのは通常の行為である。しかしその当時の地域活動は「地域の実態から学ぶ」をスローガンに掲げており、一方的に学ぶ側に我々は位置づけられていたため、彼女は一瞬疑ったが、その後自ら明確に否定しながらも、そのあと自分は罪深い人間だと自虐的な総括に追い込まれている。 
  この時点で彼女が誰にも相談していないので、我々はどうしようもなかったが、この問題を相談できる雰囲気を我々は持っていないという弱点があったのではないかと思っている。(注1)

注1:実は私も同じ様な経験をしている。私はその当時、地域に隣接するある会社
   の宿直のアルバイトをしていた。夜になると私の宿直室が地域の青年の寄り集
   まりの場所にもなり、多くの青年が出入りしていた。
    あるとき会社の社長に呼び出され、社員の机の中の小銭が全てなくなって
   いる。と指摘された。しかしこの宿直のアルバイトは一日交代で、もう一人も「部
   落研」の会員であった。社長はこの男を疑っていた。私は、この男の素性をね
   ほりはほり追求されたが何とか乗り切ったことがあった。
    なぜ、私より彼が疑われたかは、彼のほうが一般的にいって顔が怖かった。
   (これは全く私の主観であるが)問題は、私はこの話を、サークルにも報告
                       ―43−
      せず、私だけの問題として処理したと思う。(記憶は定かではないが)これも
   事実関係は全くわからない。しかし宿直のアルバイトをしながら、泥棒にはいら
   れていたとしたら問題である。この会社の扉の鍵をしっかり施錠していたか、あ
   るいは青年が来るので施錠を疎かにしていたか、全く覚えていない。(犯人は
   会社の社員の中にいたのかも知れないが。)
    なぜ、私がこの問題を誰にも相談しなかったのかであるが、やはり事実関係
   が全く明らかで無いのに、「ひょっとしたら」という問題提起は、「差別的思考の
   持ち主」として批判される恐れを抱いたからと思う。(この判断は全く私の独断
   であり、みんなに相談していたら、地域の青年とも話し合い、お互いの理解を
   深める上で良い結果を生んでいたのかもしれない。)

4.部落大衆の「立場絶対化」・・・「優位性の確認」は間違っている(住田氏)

  この辺の問題を先に挙げた住田氏はこのように語っている。「最近よく強調される言葉に「部落の優しさ」がある。各種の同和教育研究会の報告レジメの一つや二つは必ずこの言葉が含まれている。多分、使っている人は(教師が多い)善意に違いない。だが部落民である私から見ても特別に「優しい」とも思えず、世間一般でも当たり前のことが何故「部落民の優しさ」として賞賛されるのか。うがった見方をすれば、彼らは部落差別を受けてきた悲惨な部落民がほんとうは「優しい」はずがない。にもかかわらず実際に家庭訪問や識字学級で接してみると「優しかった」、この事実に驚き、「部落民の優しさ」を必要以上に強調しているのではないかと思う。」と書いている。
  さらに、この立場から議論を続け最後に「部落大衆の立場の絶対化」(部落出身者の部落出身者以外の人々への優位性の確認)を部落・部落外の双方から補強していることを示している。この状況のまま、残念ながら今日の部落解放運動は停滞しているのではないか。もし私たち部落民がこの状況に安住し続けるなら、私たちは自らの「内面的弱さ」=「低位性」に気づくこともなく、向き合うこともなく、自己変革の課題も見い出せないことになるだろう。」と書いている。
  この住田氏の指摘を読めば、当時の「部落研」活動の持っていた弱さ、部落の解放のために地区外の人間がどのように関われるかの定式化が不十分であったと思わされる。
  住田一郎氏の問題提起は極めて重要な問題提起だと思っている。高野悦子さんはこの辺に違和感を持ちながらも、それを提起するだけの自ら確信も発信力もなく、敗北感を持って「部落研」を去っていったと思われる。
 
 実は高野悦子さんが抱いた問題、自らの差別性(「ひょっとしたら」と考えたこ
                      ―44−
とが自らの差別性の表れ)という問題の立て方は、東上問題で争点になった「何が差別か」という問題でもある。そもそも東上高志の「東北の部落」という紀行文が差別か否かが最大の争点で立命館大学が揺さぶられていたが、「部落解放同盟」は、東上氏の「東北の部落」が差別文書だと糾弾した。 
  朝田氏の差別論は、「差別する者」「差別される者」と国民を真二つに線引きをし、部落民以外は「全て差別者である」というのがその前提になっている。まさに個々の人々の「内心の意思」にまで入り込み、あなたは差別者だというレッテルを貼り、自らの要求を勝ち取るという利権あさりの運動を行ってきた。
  三木一平氏率いる部落解放同盟京都府連は、国民大衆の中におけるそういう不十分さは、話し合いや説得・学習で解決すべき問題であり、とりわけ内心の意思にまで差別論を拡大せず、あくまで国家権力などが不正や不当な差別を行うことを批判していく立場をとっていた。
  つまり東上問題で問われたのは「差別とは何か」でありながら、身近なところで朝田氏が指摘する差別論が我々自身の中にも浸透していた事例でもある。彼女は自ら抱えている疑問をサークル内に打ち明けず、自分のこれまでの活動が「自己満足の偽善だ」という形で「部落研」を去っていったのではないかと思っている。(私も同じような問題にぶち当たっていたが、私自身は誰が、あるいはどこに問題があったのかと思い再発防止策を考えたが、善し悪しは別として、自己の差別性という問題の捉え方はしなかった。)


                   ―45−

第五章 「部落研」退部後の高野悦子さん


1.「部落研」をやめる決意前後とワンゲル入部(ここで大きな事件が起こった。)

 彼女は「部落研」をやめようと決意したのは、1968年1月10日であった。しかし「部落研」に彼女が正式に退会を申し入れたのは三か月後の4月13日であった。その決意の後「部落研」を完全にやめるまでの葛藤を見てみたい。

 まず、「部落研」退部の決定は、彼女が2回生になるということもあって家族とも相談した結果だと思われる。

★1968年3月17日の日記(「序章」)には、「父の私への要望」というのがある。
  1.勉強すること、講義に出席して先生の話を聞くこと。
   2.お茶、おはな、料理のうち二つ、それに運転免許をとること。
   3.「部落研」活動に十割の力を入れないこと。
 
 これら三つのことを、やらずにすごすならオマエのために、大学をやめて家に帰った方がシアワセだ。(だからそうしてもらう) ⇒絶対的な支配者としての父親の顔が見える。

★3月21日
  嵐山に行って下宿の最終決定をする。(これは彼女の一番の友達である牧野さんの下宿しているところ)

★3月25日
  どうしてこう、おどおどとして、何事においても自信がないのだろう。私は生活の強さというものがない。(中略)
 自分に対しての自信、そして正しい意味のほこりを私はもっていない。中・高とクラブも途中で全部やめてしまったし、現在も「部落研」をやっていない。一年前、入学時に思ったものだ。自分に自信がもてるようになりたいと。どのようにしたら、「自信」が生まれるのかと考えてみた。小さなことでも一つの目的をもち、手段を考え、それをやりとげていく中で、だんだん自分への自信が深まってくるのだと思う。

★3月28日
  大学生活をどのようにすごすかという、きのうの問題を再び考え続けた。(中略)飯田さんと一時間程度話した。(中略)将来どのように生きていくのか(職
                      ―46−
業)。学生として(史学徒として)何を学ぶのか。私は厭世観とかニセの虚無感にひたりやすい。与えられた世界で受身の生活、順応の生活をしてきた。いや、そうだろうか。高校時代は反発をしていたじゃないか。全校体育でバレーボールをやったり、バスケットクラブで毎日8時頃家に帰ってきたり。(中略)二回生は去年の経験を土台にして、部落史をやろうと。そして将来については、通訳と教師という二つの職業のどちらをやろう。(注1)

注1:ここでは飯田さんの問題提起を受けて、彼女は珍しく、将来の生き方(職業)
   について語っている。

★1968年3月30日
  飯田さんとあってこれまでの生活をほとんど全面的に批判され、勢い発奮した。今週の一番の収穫は、これからの学生生活にメドをつけたことである。

2.大学での唯一の友人牧野さんの存在
  全体を時系列で見ようとしているが、ここでは彼女の唯一の親友である牧野さんとの関係に限定して時系列で見ていく。(牧野氏の存在は大きかった)

(1)下宿を牧野さんと同じ下宿に(心機一転、二回生への新たな決意)

 二回生を迎え、彼女は身辺整理を行い、心機一転大学生活をやり直そうとする。これには、上記3月17日の父の要望も影響していると思われる。彼女が行ったこと。@「部落研」へ退部の申し入れ(4月13日)A下宿を牧野さんと同じ下宿にかえる(4月2日)

68年2月7日(「序章」)
 牧野さんのところに行く、11時半ごろから6時ごろまで

★2月11日
 田端の牧野さんの家に泊まる

★2月14日〜18日 スキー

★2月19日:姉の下宿

★2月22日:2月20日から3月19日まで西那須野に在住(?)
  嵐山に下宿をかえることの承諾を父から得る。
                     ―47−
★68年4月2日
 原田宅に引越(学友牧野氏の嵐山の下宿、原田方に移る。)

★4月12日
 下宿をかわって牧野さんと身近に接していると、いろいろ勉強になる。目立つことのきらいな彼女は、あまり自分を出さないが、ひょっと彼女は、”いいナァ”と感じさせる。 

4月13日:部落研退部申し出
 心機一転、唯一の友達である牧野氏と同じ下宿に引越し、牧野氏との関係で精神的には安定した学生生活に浸ることができる。

★9月12日:
  サテンで牧野さんとワンゲルについて話したら自分に自信がついたのか、気分が晴々として勉強もはかどった。

★11月25日
  牧野さん永井さんの三人で安保問題の学習会を開くことになる。(中略)牧野さん。彼女は私を独立した一個の人格として取り扱う。私は一般的には人からは従わなくてはいけないという無言の圧迫を感じるが、彼女は決してそんなものを感じさせない。かえってそれは彼女の反発するところだ。そういう点で、彼女は私の発展にとり有益である。

 この11月25日の日記は大事で、ワンゲル活動への一定の疑問を感じ、学生運動回帰へ思想が生まれてくる。(安保問題の学習会)同時に生活も乱れてくる。

★12月3日
  牧野氏が私の部屋を見ていった言葉「まるでゴミの中にいるみたい」

★12月10日:桂駅で、
  名古屋から帰ってきた牧野さんとパッタリ会う。 会うなりやせたねと言われる。そうなんだ。このところ煙草をのんで食欲もなくなり、生きることに不誠実になっていたんだ。やっぱりわかってくれるのは彼女なんだと思った。彼女と私の友情は、私が独立した人間として生きている限り、永続していくものだ。(中略)友人に期待している。今まで期待さえももてなかった。しかし、牧
                     ―48−
野さんには期待している。

◎68年12月16日:「小林との関係」・・・これが彼女の今後の生き方に大きく影響を与える。
   
★1969年2月5日
  「独りである」ことは、何とさびしいことなのだろうか。自殺でもしようかと思った。そのまま眠ってしまうのが一番よかったのかもしれない。
 でも、その解決を酒に求めた。葡萄酒を二杯のみ酔えそうにもないので、八木さんからからプレゼントされたレッドの角びんを借り、一杯のんだ。酔いながら牧野さんのところにいく。
  あくまで自分の荷は自分で背負うべきだとおもったが弱かった。その後、はき気を催して、お手洗いにいった。気儘に吐き散らして、そこに座り込んだ。しばらくたって気分が落ちついたらそうじするつもりだった。彼女が塩水をもってきてくれた。そして私を部屋に連れ戻し掃除をしてくれた。感謝した。  「シッカリしろ! 悦子」と叫んだ。私はそのまま寝ていた。彼女は強い、私は弱い。

★1969年3月25日:家からテレ。今の下宿に落ち着けという母
 下宿を変わろうとしている。彼女は新たな決意を行っている。(牧野さんからも離れようとしている。)

(2)牧野さんのいた下宿を離れる決意を行う

  彼女は2回生になったとき、下宿を牧野さんのいる下宿に変えた、今度は三回生になるにあたって、牧野さんがいる下宿から、孤独に身をおくべく別の下宿へ引越しする。これは牧野さんと喧嘩別れをしたのでは無く、彼女は国家権力との闘いを先鋭化しようと決意し、牧野さんや「下宿先に」迷惑がかからないように、引越ししたと思われる。

★69年4月4日(彼女三回生)
  煙草もきれてなし、酒も金がなく買えず、酔うこともできずにいる。この近くには菓子屋は沢山あるが、八百屋はまったくなくい。不便!質屋が2軒もあるので、これから何やらお世話になるだろう。明日は給料日。煙草とウィスキーを買ってゆっくりと楽しもう。

 「引越しをしている。」この件を高野三郎氏(父)は「原点」の巻末で。「高
                     ―49−
野悦子さん略歴」の中で、「家族的な下宿を離れ友人と別れて、孤独に身をおくべく下宿を丸太町御前通りの川越宅に移す」と書いている。
 この日記を見ても、彼女が「革命家」としての資質を備えているのか疑問に思う。彼女の最大の「友」は酒と煙草である。
牧野氏の下宿から引越しを行っているが、彼女が唯一の友達だということに変化は無い。これ以降も牧野氏と時々会い、彼女を頼りにしている。

★4月10日:今牧野からテレ。京都に帰ってきているとのこと。
 早速会いに行こうっと。(中略)私は1カ月彼女(牧野)のいない世界で暮した。(中略)彼女が再び京都にき、私自身の姿がはっきりしてきた。彼女は、人間は独りであることを知っている人間だからである。彼女は最も私を理解している人間である。

★4月11日:牧野とデート。
 朝おきて、すべてがつまらなく感じていたとき彼女からテレ。

★4月16日:本当にこれからどうなるかわからない。
 ふと真剣に(これは大ウソ)自殺を考える。牧野氏と会いたいでござる。

★69年4月18日(この日記は重要)
  彼女(牧野)からテレ。ちょうど人間は信じられないと思っていたところだ。人間、偽善家―彼女にあっても何も話すことはないし、話しあう気も起こらなかった。
 「独りである」とそう思い込んでいるだけなんだよ。と誰かがいった。昨日、四条大宮からホテルまで牧野と歩きながら必死になって話したとき、彼女は困惑、軽蔑、恐れ、敵意の表情を見せたではないか。私の全力をうちこんでいる行動に対して、彼女でさえも、そうであったのだ。私が力んで話せば話すほど、彼女と私の距離は離れていくばかりだった。ALL or Nothingのつまらぬ、さびしがりやのFatherコンプレックスの人間なのだ私は。

ここでも彼女は自分のことを「革命家」と言わず、「さびしがりやのFatherコンプレックスの人間」と規定している。

 彼女は唯一の友達であった牧野氏とも、この段階で基本的には決裂する。おそらく牧野さんは彼女が益々過激になる姿を見て、彼女は大丈夫なのかと思ったことが、彼女に見破られてのだと思う。(4月18日)
                     ―50−
★5月2日:1時から文闘委(「全共闘」)の集会に出て(注2)3時ぐらいに彼女(牧野)と会い、バイトにゆき、夜は勉強しよう。今という瞬間をいきなければ人は死ぬのだ。( )内は筆者が補記

注2:「文闘委」へ4月28日から正式に参加(彼女は4月27日に中村氏との肉体
   関係を結び、「革命」運動へと本格的に「全共闘」へ参加していく。)
    中村氏については、あとで詳しく述べるが、バイト先で知り合った恋人

 日記では、5月2日以降(牧野さん)は出てこない。4月27日の中村との関係からこれ以降の日記は中村一色なる。

3.ワンゲル時代の彼女の行動

 高野悦子さんは68年4月13日(彼女2回生)に正式に「部落研」の退部の申し出に来るが、実際は3月17日の父の説得、4月2日の下宿の移動の際、決意していたと思われる。ここでは「部落研」退部決意後の彼女の行動を追いかけてみたい。

(1)2回生の高野悦子(ワンゲル活動が楽しかった時期)

 すでに述べたが、彼女は明らかに立命館大学に学生運動を求めて入学してきた。彼女の選択は、日本史専攻という自分の専門分野との関連もあり、「部落研」に参加し、学生運動に参加してきた。彼女の入学した年の立命館大学の学生運動の最大の課題は、「部落解放同盟」による大学の自治への介入反対の闘いであった。
 彼女はこの戦いに積極的に参加してきたが、67年11月23日の日記によれば、「部落研」活動の破綻を語っている。それはただ単なる満足(偽善的な)を得ただけだと総括した。(詳しくは、「(2)彼女はなぜ「部落研」をやめたのか<気になるのは、日記が三つある>」本文:30ページ参照
 2回生に入り、心機一転してワンダーフォーゲル部に入り、そこでは「部落研」では経験しなかった安息の場を手に入れたが、学生運動から自分が遠ざかることに、対して自己嫌悪に落ち込んでいく。(注3)

注3:いかに自分を欺いているのかをきのう知り、偽善的動作・態度を取るまいとし
   た。
    最大の偽善、それは私が活動をおこなっていないということである。去年は
   同和教育の重要性を説き、部落の解放を願っていた私が「部落研」をやめた
   から、ワンゲル部に入りましたというのである。山に親しみ自然に親しみましょう
   というのである。部落に生きる人々への侮辱であり、軽蔑である。
                     ―51−
     まだあの同和教育推進の運動を行ったものとして、学友への無責任を端的
   にあらわしている。
   今日は、反帝反植民地デーとして府学連の第一波統一行動であった。
  (中略)
    ワンゲルに入っておどろいたことは、彼らが明るいということである。三回生
   の細川という人にそのことをいったら、「単純なのよ」といった。そうだ単純な明
   るさなのだ。「若もの」のもつ明るさとはちがうものだ。私はどちらの明るさを望ん
   でいるのか。ワンダーフォーゲルということ自体、プチブル的なものだ。
    私は活動をやるべきだといいながら、活動をやらずにいる。(4月24日)

★1968年4月8日(2回生に入って彼女が、最初にやったこと)
  三・二八の宣言(注4)を実践していない。史学徒であること。将来の職業を通訳、教師のどちらかに決めること。(中略)
 大学とクラブ生活についてー「部落研」の総括はとうとうやらなかった。残る三年の学生生活をどのように私はすごすのだろうかと思う。ワンゲルに入って山歩きをしたいナァーとか、古美術研に入って感覚と感受性を養ってみようかナァと思う。(中略)
  「部落研」を離れた生活を四ヶ月間やってきた。しかし今でも、「部落研」に相当とらわれている。敗北ということが頭に浮かぶのである。「部落研」をやめた(BOXに行っていない退部届けは4月13日:筆者が追加)のだから、もっとそれから脱却した心を持たなければならない。「部落研」をやめたことは敗北ではないはずだ!

注4:私は学生である。とにかく大学時代に歴史学を徹底してやろう。そしてこの二
   回生は去年の経験を土台にして部落史をやろうと。そして将来に ついては、
   通訳と教師という二つの職業のどちらかをやろう。(68/3/28)

★68年4月13日:部落研退部正式に申し入れ。
 退部を決意したのは1月10日、実質的な決意は67年11月23日(日記より)

 彼女は、学生運動をやろうと思って、立命館にきた。この思いは断ち切れていない。

5月6日の日記:「環境順応性ホルモン過多による自己喪失症?
  部落研にいるとき私は、部落解放の立場をとり、ベトナム戦争反対の立場をとった。それが私であった。ワンゲル部において部落解放の、そしてベトナム戦争反対の立場を取らなかったなら、”私”はどこにあるのだろう。その中に私が存
                      ―52−
在したのだから、その中にいなければ私は存在しないのだ。ワンゲルにいると自己の立場を忘れやすい。」と書いている。
 
 彼女のよって立つ基盤は、『青春の墓標』、『荒野のおおかみ』『人知れず微笑まん』であり、この生き方とどう調整していくかが常に自己に問われている。この三つの本の基調は「革命」「恋愛」「自殺」そして根底には、「市民社会の秩序・規制」に反発がある。彼女は、この三つの課題を常に持ちながら、その時々で主要な課題が揺れ動く。ワンゲルでは、革命から遠ざかっている自己に対して、厳しい見方をしながらも、いつしか、「恋」に重点をずらしていく。

★4月23日の日記
  話の中心でありたい
  行動の中心でありたい
  みんなよりも優れた存在でありたい
  私は十九歳!(私の精神は未発達のまま十九歳になってしまった)
  気が小さくて臆病ものの私は
  ジンセイケイケンがタリナカッタのかしら
  卑屈になって優越感を感じ
  皮肉をもって相手を見下し
  にせのほほえみをなげかけ(偽善者め!)
  世界の中心にいるんだという十九歳のムジャキサをもち・・・

★4月26日
  自分をいつわるとはどういうことで、いつわらない自分とはどのような自分であるのか。
  愛 愛 愛 愛 愛

 彼女は、5月7日の日記で、やはり、「部落研」の活動から遠ざかった自分を、「今まで同情的な目でしか革命運動を見ていなかったのではないだろうか」と自己総括している。しかし「部落研」退部、ワンゲル入部の葛藤は、この時点で終わっている。
  5月13日の日記では「ワンゲル部で友達をたくさんつくるべきだと思った。入部して15日間しかたっていないが、お互いに理解ができる友達をつくろうと思う。」と切り替えている。「友達を作る」という言葉は、「部落研」で活動している間にはなかった言葉である。「部落研」時代の日記の中にサークルの仲間の話は全く言って良いほど出てこない。
                      ―53−
  さらに5月25日の日記で、「日本史の学習とワンゲル活動とが統一できるという仮説をつかんだ」と今後の見通しの明るさを書いている。

★6月11日、
  どうしてワンゲルをやっていくのか、
 人間を愛することができるために。
 ぐでんぐでんに酔ってみて、私の意識の底には、何もないのがわかった。
 ぐでんぐでんに酔っているときに感じる、むなしいさびしい気持。そしてそれに溺れて甘えている気持ち。でも、さみしかったなあー。

そして
★6月13日:久しぶりに『部落研』が顔を出す。(これは葛藤ではない。)
  「私は内気でおくびょうで弱虫であること。琴やお茶、能に興味があること。フランスの国を好きなこと。『部落研』をやっていたころの自分、そしてそういうものの考え方をすこしばかり身につけた私。十九歳の我がままムジャキ(自己中心性)をもっている私。男性コンプレックスであること。人間恐怖症である私。自意識過剰でへんなプライドがあること。本当はとても気の優しいかわいらしい女の子であること。詩が好きなこと、ヴァイオリン曲、ピアノ曲が好きなこと。うたがすきなこと。写真に興味をもっていること。」と自己分析を行っている。
 この自己分析の中には、「革命」、「市民社会にたいする反発も」ない。一般的な良家のお嬢さんである。これが本来の高野悦子さんの姿であると思われる。
 「お酒をのんでうさをはらすという消極的な問題の解消の仕方でなく、もっと積極的にこの無気力さを打破しなければならない。」で締めくくっている。

(2)ワンゲル活動に疑問を感じ始める。(学生運動との関連で)


★8月15日
  今では、学生運動の学の字もやっていない。

 その後はわりととりとめもない日記が続くが、9月22日の日記は少し気になる。★9月22日
  「この1週間、私はビクビクとした生活をした。人と話すときに自分の浅はかさやエゴイズムなところを出すまいとつくろい、それが出ると大失敗でもおかしたように、自分ではダメな人間だと思いこんだ。寝たり食ったりするだけに興味をもっている。精神的高潔さのほとんどないつまらないバカな人間であることは百も承知のはずじゃないか。失敗をおかしてしまったことより、失敗を成功に変ずることを考えるべきだよ。
 この1週間ワンゲルもやらずほとんど下宿にいた。(中略)
 その後『チボー家の人々』の引用がある。
 「ああ! 何としてもこうした心の涸れないように! おそれるところは、生活や心や感覚を硬化させてしまうことだ。僕は老いる。神、神霊、愛、そうした高邁な観念は、すでに昔のようにぼくの心に響きを立てない。そしてすべてをむしばむ《疑惑》はおりおりぼくをも食んでいる。おお議論をすてて、なぜ全身の力をあげて生きようとはしないのか? ぼくらはあんまりにも考えすぎる。ぼく
                    ―54―
のうらやむのは、あの青春の意気なのだ。つまりわき目もふらず、考えなおしたりすることなく、危険めがけておどりかかっていくことなのだ! ぼくは思う。いたずらにわれとわが身を反すうするかわりに、目をとじて、崇高なひとつの《思想》けがれなき理想の《女》に身をささげることができたら、と! おお、おそろしいのは行きどまりになった希望の数かず・・・・・」という引用があるが、この引用が彼女のその時の状況をすべて表していると思われる。
 
★10月20日
 「ノンタッチ派となった、記念すべき日」
 
 10・21の闘争のオルグを過去に好きであった三浦氏から受ける。このオルグを通して、彼女は三浦氏に対する幻想を捨て、心情的民青派を決別し、闘争から身を引く。
 彼女はワンゲルで、ひと時の癒しを得るが、しかし心の中は充実しておらず、寂しさから、愛を求め、同時に「革命」対する情熱も失っていない。

★11月9日
  「同大の工学部の、反代々木系の活動家と話し込む。」その彼に一定の興味を持ったが、最後に「反代々木系の諸派は昨年の同和教育闘争において、私達の活動を疎外したのである。」(注4)

注4:この日記の彼女の発言に注目する。10月20日に「ノンタッチ派の記念すべき
   日」と言った彼女が、この時点(11月9日)でまだ「部落研」が闘った同和教育
   闘争を支持してくれている。思想的にはまだ「全共闘」の一員にはなっていな
   い。しかし、男を求め、革命に関心がある姿が見て取れる。
  
★11月25日
  「4月に入会以来、山は私にとり闘争の場であった。知らない領域に足を踏み入れ、今までの自分の生活から逃避した。」

 この日の日記は重要である。彼女はワンゲルの活動の限界を感じ取り、再度
「革命」に興味を持ち始める。「牧野さん、永井さんの三人で、安保問題の学習
                     ―55−
会を開くことになる。週一回木曜日テキストは『1960年5月19日』日高六郎著」(11月25日) ワンゲルのこの8ヶ月間の生活を否定している。
 
★12月7日
  一人で考えることではなく、複数の中で一人で考えることが必要なのだ。
  タバコを飲みたい
  「白い恋人たち」がみたい
  Go Go 喫茶に行きたい
  パチンコをしたい
  眼鏡をかけてみたい
  そう、私には「神様」が欲しいのだ。(注5)

注5:「革命」を愛する彼女から、「神様」が欲しいという言葉が出てくるが、ここでも
   見逃されがちであったが、「荒野のおおかみ」にはこの思想がでてくる。彼女を
   支配していたのは、マルクス主義か小市民主義破壊かと見た場合、当初は
   「革命」論が重要であったが、「部落研」退部後は徐々に学生運動から手を引
   き、生活が乱れ始め、教育ママが怒りそうな課題(タバコを飲みたい、パチン
   コをしたい等)が、彼女のやりたい要求になる。そして最後は「神様」がほしい
   になる。この「神様」が欲しいは、どんなことでも恐れずに行動できる心、ハメを
   はずした自分の行動を許してもらえるものが欲しいと思ったのか、誰かに自分
   を見ていて欲しい、自分の危険性を察知した上での言葉だったのかは、良く
   分からない。

★12月8日
 29日のコンパで煙草を2本すって以来、すいたくてたまらなかったが、とうとう前のタバコ屋でハイライトを買ってきた。立て続けに3本、ただ苦いのみだが・・・。(中略)
 眼鏡をかけることを本気で考えている。アルバイトをしてつくろうか。「かわいこちゃん」から「スポーティな子」へのイメージチェンジ。

 彼女は9月末以降、明らかにワンゲルにたいする失望感を漂わせている。しかし彼女は、1回生の時に闘った『民主派』の学生運動には興味を見せず、むしろ「全共闘」的な運動に共鳴を抱いていく。彼女のバイブルである『青春の墓標』は中核の学生であったし、『荒野のおおかみ』は「全共闘」的思想の原点であるような本である。この『荒野のおおかみ』は市民生活への反逆者として1970〜80年
                      ―56−
代の若者の怒りが爆発した時代、カウンターカルチャー(対抗文化)の時代にバイブルとしてもてはやされた。大ヒットした映画「イージーライダー」にも影響を与えていると言われている。
 彼女は、最初は奥浩平の『青春の墓標』に憧れたが、彼女の心を本当に捉えたのは、『荒野のおおかみ』であったと思われる。その分岐点は次にのべる「小林との関係」であった。彼女は、高校時代から行き詰まれば、必ず『青春の墓標』に帰っていたが、68年12月16日の日記を最後に、『青春の墓標』は封印される。
なぜなら『青春の墓標』はあくまで純愛路線である。彼女は「小林との関係」後、『純愛路線』は放棄し、肉体関係から恋愛を求めるようになる。

(3)「小林との関係」が発生・・彼女の人生観を変える事件


12月16日(重要な日記)
  山小屋コンパの翌朝の、あの感情。吐きながら飲んだーベートベンだのと知ったかぶりをしたー自分を律することができなかったー(中略)
 落ちるところまで落ちて思ったこと、「自分の行動に自信を持て!」ということだ。私のことを理解していようがいまいが、そんなことは恐れるな。自分の行動を大切にしろ。意志と行動を。そして自分をいじめることで快感を味わうな。卑下するな。

  『我々はすごく鋭敏な感受性が要求されているし、それは自然にでてくる訳でもない。そうした意味で、ぼくたちが面している現在は広範な問題意識を養い、感受性を培うために、ものすごく多大の勉強と真面目さが必要だと思う』
                                    ―『青春の墓標』よりー
 
  独立抜きの愛情、愛情抜きの独立― 一方なくして他方の存在は考えられぬ。けれども独立と愛情のどちらかをえらばなければあらなくなったとき、私はどちらを選ぶのであろうか。いま私は「愛情」を欲している。愛情とは恋人のことだろう。
  その後彼女は、なぜ酔っ払ったかの説明を行っている。
  大人の真似をしたがっているだけなのかも知れぬ。ほんのいたずらのつもりで、子供がおっかなびっくりお酒を呑み、煙草を喫うように。
 私は女であるということから、社会から・・・するな、・・・・するなと言われている、そのことに反抗している。(注6)そういうものに縛られている自分の存在を感じるし、それをうち破りたがっている。ただ今のところは、それがほんの真似ごとにだけで終わっている。責任をもっていない。他の人に、私の行動から出て私に帰着するまで、迷惑をかけている。昨日の場合は、完全に自分自身を律していなかった。突発的に飲んでしまった。
                      ―57−
  私がこの日記で一番注目するのは、彼女はまず『青春の慕情』を引用し、自らを律している。しかし今の自分にとっては「愛情」が必要だと、「小林氏との関係」を認めている。(以下日記によく出てくる小林氏、鈴木氏、中村氏については敬称を省略する。ただし日記の引用の場合は、日記通りに引用する。)
  その後「荒野のおおかみ」の思想、小市民的な規制や概念を打ち破るという考えで自らの行動の合理化を図っている。
  彼女はこの日から、『青春の墓標』から『荒野のおおかみ』に逃げ込んだと思われる。
  
注6:いま私は宮部みゆきの「英雄の書」という小説を読んでいるがその中に「何々
   をしてはいけないという禁止命令は、いつどんな時代でも、子供の好奇心をく
   すぐる最高の呪文だ。」という行が出てくるが(新潮社版)上57ページ)これを
   読んでいて高野悦子の行動もこれに似通った面があるなと思った。「酒を飲
   み」、「煙草を吸い」、「パチンコに行き」、「エロ映画を見に行く」(注7)という彼
   女の行動形態は、「するな」という抑圧に対する単なる「反抗」でしかない。

注7:「これは『一人でエロ映画を見に行った』という私の噂が出ているらしいけど、
   そんなことはどうでもいい。『白い恋人たち』を見に行ったのは事実だし」(序章
   246ページ)と書かれている。
     実際は「白い恋人たち」は名画でありエロ映画ではない。18歳未満禁止の映
   画であったかもしれないが、その点は把握できていない。(その当時の世間的
   常識としては、若い女の子が一人で見に行くというのが珍しかったのかも知れ
   ない。)

★12月17日
  自分自身の行動が常に最上のものであるかを、常に点検すること。己を見失わぬこと。
  絶対に昨日のことは忘れるまい。要するに酔って旅館に連れ込まれたということ。でも滑稽だった。裸同士の男と女が、子供のぶきっちょさで遊んでいたということだもの。「これでも俺は、プレーボーイなんだ。お前を裸にしてみせる」と暴力的にムリヤリに服を脱がせた。お見事!
(中略)
  そんな部屋の中で、ベッドに入るのに、信頼していいかとプレーボーイ氏に聞くなんて、全くの子供。
  (中略)
                      ―58−
   怒りと不信
  絶対にクラブをやめるもんか。
  徹底的に孤独になれ!

 この17日の日記と昨日(16日)の日記と違い、彼女は「小林との関係」を否定する立場に立つ。(これ以降否定的な見方が支配し、小林とのその後の関係は一切語られない)そして男女間の関係を持つ場合の原則を確認している。
  「私は男と女が肉体関係を結ぶには、双方の同意というより意思がなければならないと思う。相手が何を考え、何を悩み、何に関心があり、要するに何も知らないのにその関係を結ぶことは出来ない。知り、理解し、そして愛しているということ、そして双方の意思があることが必要だ。」
  しかし彼女の恋愛観は、この原則に帰ることはできず、肉体関係をまず求めるという形に変わっていく。(常に鈴木との肉体関係をもちたいと願っている。69/4/20)
  彼女はこの思想(肉体関係優先)を全面的に受け入れたのではなく、『青春の墓標』も心の中には残っており、この形にこだわり、その後破綻していく。(第6章「彼女は自ら命を断った」(本文:64ページ参照)

4.高野悦子さんの精神的堕落は、「小林との関係」によるところが大きい

 高野悦子さんの自殺に関しては、「部落研=民青」という見方から、民青が死に追いやったという情報がインターネット上で見られるが、私はこれに対して、「彼女が自殺を選んだ時点では「全共闘」の思想的影響を大きく受けていたので、その責任は「全共闘」側にあると見ていたが、今回二十歳の原点三部作を読み直して、彼女の自殺は思想的なものでなく、「小林との関係」が彼女のその後の生き方に大きな影響を与えた事が分かった。これ以降の彼女は退廃へと一直線に流れていく契機となった。

★12月18日
 16日以来、私のふるさとは崩れ去った。13、14、15の山小屋の生活において私はふるさとを感じた。薪を鋸できり、ナタで割り、火を焚き、飯をつくる。クラブ員との共同生活。お互いの信頼のすばらしさ。雲取山でははるかな深淵を感じた。しかしそれは一挙にして崩れ去った。
 ふるさとの象徴としてあったカマドの人と煙は、欲情の激しさ、暴力の狂暴さを表すようになった。桂川べりのたき火に傘を放りこんで燃やした炎は、めらめらと執拗に燃えていった。

                      ―59−
★12月21日
  「一六日の事件は、私の誤ちでもあったことを誠実に自己批判する。小林の暴力性がなかったら起こらなかったことは確かである。その点をおさえての、自己批判である。小林の暴力性については、絶対に許すべきものではない。私はその不信を、いつまでも持ち続けることが必要だ。あの動物的な暴力!」と書いている。
  「私の自己批判は、最上であるところで行動しなかったこと、小林と一緒にいる所で、自己を見失うまでに酒を飲み、酔ったことである。」
  (中略)
  「私は否定することで、自己を確認していこうと思う。反乱でもいい。反抗ならなおいい。それによって自己を主張していこう。
  私がいま危険な状態にいることは知っている。」

 この彼女の考え方の中に「全共闘」運動に傾斜していく思想性が現れている。
  
  彼女のこの事件は偶発的に起こったようにも見えるが、この事件の20日ほど前の11月25日「4月に入会以来、山は私にとり闘争の場であった。知らない領域に足を踏み入れ、今までの自分の生活から逃避した。」と書いている。ワンゲル活動で一定の充実感を得ながら、同時に学園闘争から手を引いた自分に対して自己嫌悪に陥り始めていた。この心の隙を小林につかれたような気がする。
  また彼女は、男性との飲み会で飲みつぶれたり(68年6月11日)、事件の前の13日14日15日の山小屋親ワンでリングでも「吐きながら飲んだ」と書いている。また、親友の牧野さん宅でも醜態をさらけ出している。(69年2月6日、)
  「小林との関係」でも彼女は、ベッドに入るのに「信頼していいのか」(68/12/17)と確認している。必ずしも一方的暴力と言えない側面がある。

  ただ彼女の不幸は、「部落研」においても、1967年10月12日「私に始めて連帯感が生まれた。」と書きながら、11月4日には、「感覚的な『時』はすぎ去った。」「感激的連帯感などという偽りのベールははがされるときがきたのだ。」と書いている。
  ワンゲルにおいても、彼女は1968年12月16日以来、私のふるさとは崩れ去った。13、14、15日の山小屋の生活において私はふるさとを感じた。薪を鋸で切り、ナタで割り、火を焚き、飯をつくる。クラブ員との共同生活。お互いの信頼のすばらしさ。雲取山でははるかなる深淵(注8)を感じた。しかしそれは一挙にして崩れ去った。(翌日)
 またしても、「お互いの信頼関係が生まれた」のに、12月16日の事件で全て
                       ―60−
が崩れ去ってしまった。「部落研」とワンゲルで「連帯感が生まれたと感じた」に
もかかわらず、それぞれそれを打ち崩す事件に遭遇し、彼女は、12月17日に書いた日記は
  
   怒りと不信
  絶対にクラブをやめるもんか。
  徹底的に孤独になれ

 この「徹底的に孤独になれ」という人間不信を今後の生き方の基調にしてしまった。

注8:この「深淵」という言葉は難しい。辞書では
  1 深いふち。深潭(しんたん)。
  2 奥深く、底知れないこと。「孤独の―に沈吟する」
     この言葉は、彼女の愛した「荒野のおおかみ」(ヘルマン・ヘッ
    セ)の中によく出てくる。
     例えば16ページ「それどころか、深淵のような絶望的に悲しい
    ものでした。」

  この後彼女はワンゲルを離れ、(「絶対にクラブをやめるもんか」と書いていたが)再び学園闘争に身を投げ出すが、その際、彼女は『民主派』系の運動ではなく、「全共闘」系の運動に参加していく。(その前提は、「小林との関係」で一時的に自分を見失ったかのような状態に陥入り、よりプチブル的思考が強く、破壊的行動に出る「全共闘」に憧れたと思われる)
  彼女が「部落研」で学んだ、地域の現実から学ぶ、社会の底辺の人々に寄り添いながらそこから闘うという思想を投げ捨て、プチブル的な思想から「全共闘運動」へ入っていくことを示した日記がこの間に書かれている。(68年12月21日(本文:59ページ)

5.プチブル的思考から「全共闘運動」へ

  正直いって、「部落研」から退部し、ワンゲルで成功していると思っていた私は高野悦子さんが、「全共闘」のデモの中にいるのを見たときはビクリした。一体彼女に何があったのかと。この原因のひとつに彼女のプチブル的思考があるのではと思った。


                     ―61−

(1)美しく着飾った婦人に嫉妬

 1969年2月2日(日)の彼女の発言の中に、やはり中流家庭のお嬢さんの顔が覗く。「一歩、自分の部屋から足を踏み出すや否や私はみじめになる。電車の
中で、繁華街で、デパートの中で、センスのない安ものの洋服を着た不格好な弱々しい姿をしているのに耐えられなくなる。美しく着飾った婦人に対する嫉妬、若い男に対しての恥ずかしさ、それらが次から次へと果てしなく広がり、みじめさはドンドン拡大する。
  眼鏡売場での鏡の中のその姿、顔はバサバサで不潔で眼鏡をかけた姿は滑稽そのものであった。同じ売り場に隣り合わせた中年女の舶来がどうのこうのという話を軽蔑しながらも、その堂々とした風格を羨ましく思う。店員の礼儀ある当たりさわりのない応対、どうして率直に『眼鏡をかけない方がいいです。そのままの方が美しいです。滑稽になります』と言わないのであろうか。眼鏡をかけた私の姿を笑って欲しかった。」
 (中略)
  「私は、私をいつわり続けて世界に対するふくしゅうの念をこめて、そして私は仮面をかぶっているという安堵をもって、顔がきれいだ男にもてるんだという幻想を打ち砕く清涼剤としてー。」
 どうやらこの眼鏡は簡単に取りはずすことはむずかしいらしい。(後略)

(2)優越意識と劣等感

★1969年2月12日
  私の顔は、目はパッチリと口もと愛らしく鼻すじの通った、いわゆる整った部類に属するが、その整った顔立ちというやつが私には荷が重い。眼鏡をかけると私の顔はこっけいでマンガである。眼鏡によって私は人のおもわくから脱れることができた。また私は眼鏡によって演技をしているのだという安心感がある、

★1969年2月18日
  「きのう市電の中で言葉使いの荒々しい部落の人らしいおばさんに向けた私の眼差しは一体どうであったのか。私自身軽蔑すべきまなざしをはなっていた。また私は京大生、東大生に対して劣等感をもっている。それに気付いたとき自分はいやな駄目なやつだと思った。優越意識をもちながら片方では劣等意識をもっている。被害者でありながら加害者であるのだ。「全共闘」の闘争の中に入っていくか、自ら「掃除婦」や「失対」(注9)に出なくてはこの意識をなくしていけないのではないか。

                       ―62−
  彼女のこの論理は、非常に幼稚である。「部落研」が「地域から学ぶ」と言っていたのは、大学を卒業して様々な分野で働く場合、常に「社会的弱者の立場に立って物事を考えていく、そうした思想が重要だ」と言ったのであって、大学で学ぶことや、それぞれの分野(例えば教師や公務員あるいは企業で働く場合でも)
で活躍することは否定していない。彼女の発想は自らのプチブル性の克服には、自分が「全共闘」の闘争の中に入るか、「掃除婦」や「失対事業」に従事することでしかできないと勘違いしている。
 これは、「全共闘」が大学を否定し解体を行うことが、日本の社会進歩に役立つような誤った主張を行ったが、これに影響されたのだと思う。世界的には中国の文化大革命やカンボジアのポルポト政権がこの過ちを推し進め、中国では下放と言ってインテリゲンチャを地方の農村に放り出した。カンボジアでは、200万人のインテリが虐殺された。(注10)

注9:失業対策事業の略。失業者に対し,地方公共団体や国が一時的に就業機
   会を創出し,賃金を支給することによって救済しようとする事業をいい,一定の
   労働に服することを条件に失業者の所得保障を行う制度である。失対事業は
   元来公的扶助的性格をもつが,事業運営の効率化が追求されると公共事業
   的性格を強くもつようになる。歴史的にはイギリスにおける1886年のチェンバレ
   ン通達が失対事業の最初であり,日本では1917年に六大都市が初めて失対
   事業を実施した。(1971年廃止)

注10:彼女の日記の中には、大学卒業後の自分の行き方が全く出てこない。
    それは、『荒野のおおかみ』で小市民生活は否定されており、また奥浩平は
    職業革命家を目指しており、卒業後の展望を語っていない。彼女はそれらの
    思想に影響されており、小市民生活を拒否している。そうした面でも将来に対
    する展望みたいな話が全く出てこない。これは「全共闘」自体が大学解体を
    唱えたことも影響していると思うが、「全共闘」の指導者で本気で大学解体な
    どを思っていたものは少数派だと思う。多くの者は大学を卒業し、大学卒とい
    う肩書きをもって、社会人として歩み始めたはずである。
    彼女は純粋すぎて、そんな器用さ(?)を持ち合わせず、未来を一切見て
    いなかった。

(3)「全共闘運動」に関わる基本的スタンス

★2月11日
 「私は要するに「心情的「全共闘」派のインチキ学生」であるのだ。
 
                   ―63−
  このように自己分析しながら、「授業料の納入拒否」など最も戦闘的方針を実施し自らの立ち位置を失っていく。インチキ「全共闘」派なら、憂さ晴らしに暴れるだけ暴れて(69年3月25日)、立命館大学卒という肩書きを得て就職し、社会的に貢献すべきであった。(こんなやつが沢山いたのに、真面目すぎた。)

                    ―64−

第六章 高野悦子さんは鉄道自殺で自らの命をたった

  彼女は6月24日未明鉄道自殺を図った。この自殺の原因が何かについては、それこそ本人のみが知ることであって、私にはわからない。にもかかわらず私がなぜこの章を起こしたのか、それは「はじめに」でも書いたが、高野悦子さんの自殺の原因が「部落研=民青」にあると実しやかに言う人がいる。これらの批判が全く的外れであることを、証明したかったからである。
  自殺の本当の原因はわからないが、彼女の日記から、その当時彼女の精神状態がどのようなものであったかは、ある程度伺い知ることができる。私は彼女が立命館大学で生き抜くために愛したキーワードは、「革命」「恋」「自殺願望」だと見ている。
  しかし1969年6月の中旬に「革命」「恋」の二つともが挫折したことによって、残されたキーワードは「自殺」しか残らなかったのではと思っている。以下彼女の日記に沿って見ていきたい。

1.「革命」・「全共闘」に対する失望 

 私は彼女の「革命」に対する情熱は、必ずしも一貫したものでなく、彼女の恋愛と相関関係にあるのではないかと思っている。彼女は自分の生き方を自分の生い立ちや経験から生み出したものではなく、高校時代に読んだ奥浩平の「青春の墓標」やヘルマン・ヘッセの「荒野のおおかみ」、樺美智子の「人知れず微笑まん」などから得た感情を大切にし、その生き方を実践しようともがいていたように思われる。この背景には、裕福な家庭や偉大な父親を持ったことに対する反発もあったように思われる。彼女の日記にはファザーコンプレックスという言葉が繰り返し出てくる。
  69年4月18日「さびしがりやの father コンプレックスの人間なのだ」、4月24日「私のファザーコンプレックスはますますひどくなった。いつでも男を求めている。」、また2月7日の日記で「父と母の眼前で煙草を吸って、両親と対決することができるだろうか。カミソリで指先を切るよりも、自分のほうを思いきり叩くことよりも、それは幾十倍の勇気がいることだろう。」とも書いている。

 大学入学と共に彼女は、「部落研」に入り、彼女の生きてきた豊かな生活と対極にあった部落の中に入りそこから、自分の生き方を見出そうとした。しかし立命館大学は京都の「部落解放同盟」の分裂に巻き込まれ、「部落研」もその紛争の真只中にいた。その年「部落研」入られた会員一人一人の援助を十分に行える状況になく、彼女はこの激動の時代を乗り越えられず、翌年(68年)の4月13日に
                       ―65−
退部している。
 彼女はこの段階で、学生運動から一定の距離を置き、ワンダーフォーゲル部で活躍を始める。この活動は彼女に新たなる刺激を与え、彼女としては、ときたま学生運動から手を引いた罪悪感も現れるが充実した生活を送っている。ところがワンダーフォーゲル部で最高の充実感を味わった翌日、「小林との関係」に遭遇し、彼女の安息の場であったワンダーフォーゲル部から抜け出すことを余儀なくされた。
  たまたま同時期に寮連合(「全共闘」)が中川会館封鎖(注1)を行ったことに触発され、学生運動への参加をしていく。この際、彼女は1回生の学生運動をきちっと総括して「全共闘運動」に参加していったというより、「小林との関係」で一時的に自分を見失ったかのような状態に陥入り、その感情の捌け口として「全共闘運動」に傾斜していったように見える。彼女は2月20日の機動隊導入以降、「全共闘」に全面的に傾斜していく。

注1:1969年 1月17日(金)寮連合(「全共闘」)が中川会館を封鎖した。
   これは、寮連合(立命館大学寮自治会連合)が掲げた八項目の要求団交が
   決裂したことを理由に表面的には封鎖された。(しかし、寮連合のバックにいた
   「全共闘準備会」(立命館大学全学共闘会議準備会)が、東大のバリケード封
   鎖などにならい「全国的封鎖方針」に基づき封鎖したと思われる。(以下「寮連
   合(『全共闘』)が中川会館を封鎖」という)

  しかし、その後は「全共闘」運動には参加せず、3月1日から京都国際ホテルでのアルバイトに力を入れ始める。これは春休みと関係があるのか、それとも自らのプチブル性の克服のため自らの生活費を稼ぐためか、その真意は良くわからないが、その後の日記の大半は、ホテルの主任である鈴木という男性をいかに彼氏にするかが中心になっている。(注2)しかしそれは上手く行かず、4月27日には同じホテルの「中村」(彼女の自殺に最も影響を与えた男(本文:62〜82参照)と関係をもち、それ以降は、彼女の日記は「中村」の話ばかりになる。(学生運動にはあまり関心を持っていない。主体的に闘おうとしていない。)(注3)

注2:鈴木との関係
★69年4月20日
 「毎日鈴木のことばかり考えている。鈴木と唇をあわせたり力強くだきあったり、やさしく胸(このちっちゃな)をさわったり、私は鈴木のやせた体やくちびるを愛撫したり、シンボルであるオチンチンを子供の遊びのように手でさわってみたり、常に鈴木との肉体関係をもちたいと願っている。」
                         ―66−
★69年4月22日
  「鈴木はどうしてわたしみたいなすばらしい女(ゲエッ←おう吐の音であります。)をほって置くのだろう。」

注3:中村との関係
      4月27日の中村との関係は、彼女にとってなにも得るものがなかった。
     彼女は、淋しさから逃れ、愛されることを望んだと思われるが、27日の件につ
  いては全く沈黙を守っているが、28日、29日、30日の日記を見ても彼女は何も
  得るところがなかったと思われる。日記に中村が登場するのは5月4日である。
   (中村にはデートをしている彼女がいた。・・・我に残るものは階級闘争のみ。)

★28日:シュプレヒコールを行う。叫ぶことが唯一の武器。
  「市役所の前につき、歩みをとめて一服喫った。足元のアスファルトは雨でぬれているし、頭には小雨が降り注ぐ。寂しさと無力感とがごちゃごちゃに混ざり合い、春雨のように、独りであることを、じっくり感じた。私は大声で叫びたかった。」

 彼女は前日新しい恋人ができ、肉体関係を結んだ。にもかかわらず、「寂しさと無力感」、「独りであること」に何ら変化は生じていない。
   
★29日:「隣の部屋の女のくだらないおしゃべり、ああ人間はくだらない。卑小だ。」「大ていの人間は、人間の人間たるを知らずして社会の中に埋没してただ生きているのだ。」
  「自由!私は何よりも自由を愛す。」

と書いているが、彼女の、「ああ人間はくだらない」という発言は、27日の自分の行為に対して自戒の面を含めて語っているのか、それとも「小市民は拒否する」(ハリーの影響?)という立場から発しているのか、よくわからない。いずれにせよ充実感が全くない。
  
さらに
★30日:「再びガランドウな空間があらわれた。疲労がとれたあとに明るくもな い暗くもない空間がノットはい出してきた。非現実感がふっとあらわれる。」

                      ―67−
 彼女には27日新しい恋人ができたが、そのことで彼女の意識は全く変わっていないむしろ前以上に、虚しくなっている。

2.彼女のプチブル性(金銭感覚)

  彼女の生活費がどうなっているのか良くわからない。4月7日「16000で生活を立て直せ」4月13日家からの手紙。「15万円送ったとのこと」4月16日「親からの金は住居関係費のみに使おう。今月はあと2000円」4月18日「15万円の預貯金はあてにするな」(それだけの決意があるなら燃やしてしまえ)4月22日「私のこれからの生活は。月6500円の親の金と、およそ15000円の賃金でまかなうこと」4月24日あと500余円で10日間を暮らさねばならぬ。今日も230円使ってしまった。この調子でいくと煙草代だけでも500円ぐらいになってしまうし、あと10日間生活できるかしら。今月は酒代に3500円ほど使ってしまった。煙草代もいれると5000円ぐらいになるだろう。浪費、浪費。」・・・このあとお金の報告はない。あと500円で10日間を過ごす。と言いながら、今日はすでに230円使った。あまりにも無計画である。

 この会計報告では、あと1日〜2日で破綻する。それをどうやって乗り切るかは全く書かれていない。4月16日以降お金の動きを書いていたが4月24日で止まってしまう。(このいい加減さも気になる。)

3.彼女が「全共闘」の一員として本格的に活動に参加する決意

  この決意は4月28日である。「日本史闘争委員会と行動を共にしよう。闘いはここにある!闘争勝利!」さらに29日には、「組織的行動の必要性をつくづく感じます。」と書いている。

 この4月28日は重要であり、なぜなら前日の4月27日に彼女は中村と肉体関係を結んでいる。彼女のあこがれである革命の中での恋を成就するためには、「彼氏は出来た、あとは『革命』だ」みたいな発想が彼女の中にあったのではないかと私は思っている。 
  私の全くの独断と偏見であるが、もし4月27日に中村という男が彼女の前に現れず、そのまま鈴木を追い求めていたら、果たして彼女は28日に同じ決意(「全共闘」の一員として闘う決意)をしたであろうか、おそらくしていなかったと思う。(彼女は、奥浩平の「革命」と「恋愛」を模倣し、自分の人生をそのレール上で走ろうとしていたのではないかと思っている。(注4)
 しかし、彼女の中村との恋は、革命の中での恋とは全く異質のものである。それにもかかわらず、彼女はこの恋をどうしても革命の中の恋と位置づけたく、後
                     ―68−
から理由付けを行おうと、必死に中村に革命思想の理解を求めるが(注5)、逆に中村から「かっこ(注:悦子さんの愛称)は自分を見失っている」とたしなめられる(5月26日)
 彼女が追い求めた、この「恋」と「革命」の両方とも、彼女の思惑どおりに行かず、直ぐに破綻してしまう。恋については、6月2日「中村とのリレーション。4・27、5・13、5・19、御所で2回あい、テレを数回。一体彼との結びつきはどんな関係であったのか。彼との結びつきは単に肉体のみであったのかもしれない。とにかく決別だ。」と書いている。(注6)
 恋愛と革命の関係については、中村の愛が本当でないと分かった時「私は疲れちゃったんだな、我に残るものは唯階級闘争のみ。」(5月4日)とも書いている。    
 この日記からも分かるように彼女は、「革命」「恋愛」が同時並行で実現することを願っていたと思われる。

注4:彼女の革命家としての資質を疑う発言であり、失礼であるが、(高野悦子フ
   ァンには抗議されると思うが)、私は彼女の革命家としての信念はこの程度だと
   思っている。後述する6月16日の日記に「私はいつまでもまじめで真剣である。
   そして純粋さももっている。」と書いているが、これは真実だと思う。しかし、彼
   女には本当の意味での革命はわからず、奥浩平の「青春の墓標」に憧れ、そ
   れをなぞって生きて行くことに価値を考えていたように見える。
      彼女が5月26日に書いた「3、4月の頃は、本当に自分自身がわからなか
   った。しかし4月下旬から(中村との関係4月27日)学園闘争を政治闘争を始
   める(日本史闘争委員会への参加28日)中で、前より次第にわかるようにな
   ってきたと思う。今、私は強大な国家権力の前で、いかにしたらそれをぶっつ
   ぶすことができるのかと、もがいている状態だ。己れの闘争の位置をどの位置
   に見出すべきかと(セクトのことをいっているのではない)そういう点、まだ己れ
   自身を発見していない。」を読んでもそのことは感じる。

   ( )内の青字は筆者が補記した。

注5:中村に対して「学問の私的所有」の状況を話そうと思った。(6月1日)
   さらに「中村との決別」とは、愛におけるエゴイズムとの決別でなければならな
  い。中村自身を発展させ完成させる愛を私はもたなければならない。(6月2
   日)(この発想は奥浩平そのものである。)

注6:この中村とあった日、本文の日記とは符合していない。日記からは4・27  
  は結ばれた日、その後5・15日「屋上で中村さんにテレし、府庁で待ち合わ
                     ―69−
   せ、御所で11時頃まで話す」、5・26「中村が来て、(ろくよう?)歩いて下宿まで
  帰る。」5・28「きのう中村にテレした。かぜをひいているらしい」

4.「全共闘」と決別(6月16日9・50AM 日記)

 「私はいつまでもまじめで真剣である。そして純粋さももっている。私は「歌を忘れたカナリア」であり、言葉をなくした人間だ。自分を表現するものをもたない悲しい存在だ。唇をついて出てくるのは深夜放送がよくかなでる歌ばかり。アジをやれば四角い文字ばかり使った。そしてセンテンスさえもおかしな言葉が出てくる。人を行動に促してゆくものはあのような客観的情勢とやらではないのだ。
 連帯とは、同じデモの隊列の前方で機動隊との衝突が起こったとき、己はそこへぶつかってゆくのか、それとも逃げ出すのかという状況によって始めて問われるものなのである。
 6.15立命「全共闘」カンパニア闘争(?)で得たものー立命「全共闘」の停滞。集会の混乱セクトの引き回しとしか感じられぬ「全共闘運動」。ベ平連など市民運動の多様性に対する共感及び学生運動の到達している質的な高さーそれらと、その運動に「参加」という形で加わっている私との違和感。
 これで言いたいことをすべて言ったのだろうか?わからないが、とにかくひとまずペンをおく。1時から6.15闘争報告集会がある。私はいかない。なぜ?すべてに失望しているから。アッハハハハハ。
 きのう鼻を機動隊に殴られ赤くはれている。人はまたどうしたのかときくだろう。うるさい人たち。それにしても右のほうのアザと、赤い鼻と、まるでピエロのようで恥ずかしい。(中略)
 学習の方向―戦後史、戦後詩、アナーキズム
  全く独りである。そこから逃れることができない。
  自分を強烈に愛するということ、それが私に欠けていないか。」 

  彼女はこの6月15日の集会を相当な決意をもって望んだと思われる。高校時代から彼女が愛した樺美智子さんが国家権力に虐殺された「追悼記念日」である。にもかかわらず「全共闘」各派はこの意味がわからず、それぞれの党派の主張を前面に出して争っていた。この実態を見て、「全共闘」に失望したと思われる。
  彼女は、「全共闘運動」の中に「革命」を求めたが、バリケードを築き、その中で破壊行動を行い、一時的には勝利感を得る。しかし、所詮は、映画「僕らの7日間戦争」的な彼らの運動は、バリケードがなくなれば、蜘蛛の子を散らすように逃走するというお子チャマの革命闘争であり、そのことに気づいた高野悦子さんは挫折する。
                     ―70―
  もう一点考えられる視点がある。彼女は国家権力との闘いを機動隊との激突と位置づけていた(4月10日:私は機動隊とぶつかりたい! 5月8日死ぬなら機動隊に殺されたいね、いや殺されたくないよ、殺してやりたいよ。)しかし、この日実際に機動隊とぶつかり、圧倒的な力の差に、彼女の革命へ確信が薄らいだのかもしれない。
  (高野悦子さんは学費の納入を拒否しその主張を貫いたが、多くの「全共闘」の中心的活動家は、レポートを出して卒業もしくは進級していった。)
 まさに彼女の「決めセリフ」=(「独りであること」)=「彼女は独り取り残された。」
彼女は4月下旬に手に入れた「革命」「恋」の二つがほぼ同時に崩れ去った。この挫折感は相当大きかったと思われる。

5.革命(「全共闘運動」)と恋愛


(1)彼女の自殺は、「革命」「恋」に破れたことが原因と思われる。

 彼女の自殺の直接の引き金は、中村との関係がうまくいかなかったことだと思われる。(京都国際ホテルの従業員(調理担当)駆け出しのコック・・・「案内サイト」から引用)中村と知り合う前日までは、彼女の日記は鈴木(京都国際ホテルの主任)に対する憧ればかりであり、なぜ鈴木が自分を求めないのかと嘆いている。69年4月27日に始めて中村と話し、意気投合して肉体関係を結んでいる。(一日で鈴木が中村にすり替わっている)彼女は、関係を結んだ後中村に電話をするが、連絡が取れなくなってしまう。
 彼女の6月2日の日記で「一体、彼との結びつきはどんな関係であったのか。彼との結びつきは単に肉体のみであったのかもしれない。とにかく決別だ。」「中村についても、中村を含めた己れ自身についても考えるな。」と書いている。
(おそらく彼(中村)は、別に彼女もおり一夜限りと割り切っていたと思われる。)
 彼女は6月9日の日記では、「中村との決別(6月3日)」と書いている。さらに「これからの学習の方向についてー状況を把握し方向を見出すこと。アナーキズム、弁証法・・・全く方向性が定かでない」とも書いている。(最初に彼女がアナーキズムについて書いたのは、2月8日の日記であった。(注7)その後3月15日の『アナーキズムT』を買ってきた」である)さらには「その一方で私のブルジョア性を否定して行かねばならない」とも書いている。

注7:1969年2月8日
  私は自分が恐ろしい。何をしでかすかわからない。すごくアナーキー的だ
                    ―71−
もの。お人好しと、気の弱さと、性急さ。非常に勉強の必要性を感じています。
 

(2)1969年6月16日は、彼女の「全共闘運動」の終焉の日である。

  彼女の「全共闘運動」への関わりと恋愛問題の整理をここで再度行っておきたい。
  元々は、彼女は「部落研」にいたときは、「民主派」を支持していたが、ワンゲルで成功し始めると、学生運動に対しては1968年10月20日に、ノンタッチ派宣言を行い、学生運動から手を引いている。その後は、ワンゲルで山に登ったり、そこで友達を求めたりしていた。
  1968年12月16日ワンゲルで「小林との関係」が生じ、その傷ついた心を癒すかのかのごとく、1969年1月20日(立命館大学に機動隊導入)以降、「全共闘」に引きずられて行く。(この間1か月間の空白があるが、冬休みで田舎に帰っていた)
 69年5月19日(立命館大学機動隊乱入前夜)以降「全共闘運動」に参加し、機動隊による武装解除が行なわれた以降も彼女は積極的に「全共闘運動」に参加していくが、「全共闘」の中心的活動家はバリケード崩壊(5/20)と共に消えてしまった。
 5月30日の「愛知訪米阻止」闘争参加のため彼女は、京大へ乗り込むが、しかし「そこには15、6人しか集まっておらず」、「その後、京大、同志社、立命『全共闘』の集会・ムードとして全然活気なし。」・・・「円山公園で開かれた円山で愛知訪米阻止労学総決起集会。すわっての参加200名ほど。」と「全共闘運動」の終焉を肌で感じ取っている。
 その後、6月15日に行なわれた「全共闘」カンパニア集会(1960・6・15 樺美智子は国家権力によって虐殺された。)「で得たものー立命「全共闘」の停滞。集会の混乱。セクトの引き回しとしか考えられぬ「全共闘運動」。」と書いている。同時に15日の日記には、「4.28のときと同じコースである。あのときと今では客観的情勢は違っているが、私自身もちがっている。現在では、はっきりと学園闘争を担っているし、職場反戦との連携ももっている。」と闘いに対する自信も書いているが、翌16日は、「全共闘」活動の限界を指摘し、これ以降「全共闘運動」には関わっていない。
 

6.「6月17日以降、6月22日(日記最終日)まで」は、中村一色の日記になる。

  6月16日に「全共闘運動」を総括し、残るのは、中村との恋愛のみになるが(?)、ここで革命家の恋という幻想を捨てて、中村との恋愛を追求すれば良かったが、彼女は未だに革命家の恋として中村に迫っていく。
                    ―72−
  これが17日から22日の彼女である。しかし23日、自殺前日の彼女は、ワンピースにハイヒールという姿であった。最後の最後で彼女は革命家の恋を諦めたとおもわれるが、それでも中村は彼女を受け入れなかった。(注8)
 
注8:彼女の思考は混乱している。彼女は5月4日、「私は疲れちゃったんだな、我
   に残るものは唯階級闘争のみ。」と書いている。つまり、恋はすでに5月4日に破
   綻し、階級闘争「革命」は、6月16日で終わったのである。恋愛も革命もすでに
   破綻した。しかし彼女は、改めて、6月17日以降中村を追い求めていく。
      「全共闘運動」から離脱した彼女は、今度はアナーキズムを持ち出し、中
   村それを理解させようと最後の挑戦を行うが、これが虚しく崩れてしまう。

7.彼女は最終日を意識してあらかじめ身辺整理を行っていた節がある。

 彼女は、「小林との関係」が発生して以来、彼女の生き方を大きく変えている。

以下その主なものを列挙する。
 
 @学生運動の立場を「民主派」から「全共闘」へ乗り換えた。(2月20日以降)
 
  ア.国家権力との闘いの意思を固めている。
         ・私は眼前のバリケードを見ながら、「闘うぞ」と思った。あのバリケードは
           国家権力の否定、自己のもつブルジョア性の否定のバリケードなのであ
           る。(2月20日)
 
   イ.「全共闘運動」の行き詰まりから、思想的にはアナーキズムに流れる。
         ・私は自分が恐ろしい。何をしでかすかすかわからない、すごくアナーキ
           ー的だもの。お人好しと、気の弱さと、性急さ。(2月8日)
         ・「アナーキズムT」の本を買ってきた。(3月15日)

 A「全共闘運動」で国家権力(機動隊)と闘うため逮捕を覚悟して
 
  ア.家族との決別を図る(5月31日)
   イ.下宿を変わる。(3月末)
  ウ.革命家として名前を決める「田川治子」(5月5日)
 
 B自殺願望が、リストカットなどに発展していく。(2月1日以降)
 
 C日常生活が破綻していく(酒と煙草の生活)
 
      ・お金を計算したら、半月で酒代とタバコに5千円ぐらい使っていた。(4月 15日)
      ・最後は、酒浸りで、ほとんどご飯を食べていなかった。(注9)

注9:「後でわかったことですが、亡くなる1週間前、訪ねていった私と朝ご飯を食
  べたのを最後に、あの子はほとんど物を食べてなかったんです。疲れ果ててい
  たんでしょうね」(桐山秀樹『夭折伝説』「Views1995年9月号」(講談社、1995
  年))と高野アイは話している。)・・(「案内サイト」から引用)
 
  D奥浩平の「青春の墓標」の真似を準備する。「革命」「恋愛」「自殺願望」
  
     ア.奥浩平は自分の革命思想を理解してもらうため、彼女に手紙を渡し続け     
                         ―73−
        る。高野悦子さんが中村にアナーキズムの本を渡そうとしたのは、この行
        為の模倣である。
   イ.自殺した際奥浩平氏の机の上には資本論が開かれていた。
     彼女はおそらく、「黒の手帳」(アナーキズム)を机の上においていたと思わ
        れるが、資本論も置いていた可能性がある。(資本論の購入5月8日)
 
   E母親にワンピースとハイヒールを買ってもらう。(6月19日・・自殺する5日前)

      これは死装束として買ってもらったのか、中村を引き付けるためかわからない。

  ただ彼女は家から送ってもらった15万円(4月13日)をまだ持っているはず(5月1日:授業料64000円払うのやめた)にもかかわらず母にねだって、ワンピースと靴を買ってもらい、さらにハンドバック代3000円をもらっている。おそらくこれは子供にかえり、母にねだってみたかったのと思われる。(5月31日家族と決別)

8.中村の裏切り(?)が分かってからの心の変化(自殺へ向かって)

 中村との関係ができた6日後(5月3日)彼女は中村の裏切り(?)を知ることになる。(中村には別に彼女がいた。)「私はつかれちゃったんだなあ。我に残るのは唯階級闘争のみ。それにしてはreadingしてねえんじゃないのかい。」

 この段階で中村から身を引けばよかったのに、不思議なことに、急に中村を自分の物にしようと焦り始める。
  彼女はワンゲルの小林との關係を持った際、恋のあり方の原則を確認している。(本文:58ページ 68年12月17日の日記参照
 その原則を自ら投げ捨てた。(「恋は目ではなく心で見るもの」という原則を。)
 インターネット上の情報では、中村は、アイススケートのスピードの選手で国体強化候補にもなったイケメンの人物らしい。

  精神的な理性と官能の欲望のあやうい均衡の間で人間は生きるという記述が「荒野のおおかみ」(81ページ)にある。彼女は中村の裏切りを知ったことで、心は大きく揺れ、理性的な精神と本能的な感情、この均衡が崩れ去ったのではないか

★5月5日
                     ―74−
 彼女は「権力に対する防衛として『田川治子』という名を使うことを、ここに決定する。カッコイーッ!・・ここで職業革命家ばりの決意をする。

★5月7日
  スキー道具一式を売って「資本論」を買うか。それとも・・・
 
 この間アナーキズムに憧れていた彼女がマルクス主義に興味を示す。しかしこれは、奥浩平が自殺した際、勉強机の上に「資本論」第一巻、商品と価値のページが読み止しのまま開かれていたことが影響していると思う。

★5月8日
 決意。私はスキー道具一式を売却し、その金で。「資本論」およびそのたの本を買うことを誓います。一九六九・五・八 高野悦子(田川治子・・・この名前は彼女の革命家としての名前)

★5月11日
 9日、中村は仕事の始まる前パントリーにいた。例のあの瞳でじっと見ていた。会えてうれしかったのに、私はそっけないそぶりをした。何故?何故?そのあと吉村君から中村氏にはステディな関係にある女の子がいるときいていた。相当ショック。 

★5月12日
  中村に恋人がいるなら、その事実を確かめ、はっきりと失恋することにします。(中略) (この日から「中村」と呼び捨てになる)
  名も知らぬ彼と
  男はどこでも ころがっているのに
  何故彼にだけ愛の幻想を試みようとするのか
  1年先には死んでいるかもしれぬ私なのに
  何故かれを欲しようと 
  むなしい試みをしているのか

★5月17日
  15日:三共闘集会。広小路で集会デモのあと京大へ。京大から円山ヘデモ。広小路デモ「全共闘」は少数者であるとしみじみ感じた。(中略)屋上で中村さんにテレし、府庁で待ち合わせ、御所で11時頃まで話す。(この日は中村に会えた為「中村さん」になっている)
                      ―75−
★5月19日
  中村よ
  私はいますぐにでもあなたに会いたい。きのうも一昨日もテレしたがあなたはいなかった。私はあなたに話したいのだ。憎き機動隊のことを。卑劣な民青のことを、闘う学友のことを。
  私はあなたの信念が、他人の誰からのゆるがせられぬものであることを知っている。そして、あなたは現在の仕事に生きがいをもってやっている。しかし、あなたは、その固い信念でもってよく考えてほしい。その仕事がいかに人間としてのあなたにとって矛盾に満ちたものであるかを。そして、その矛盾を止揚して闘ってほしい。会社側と国家権力。その壁にむかうとき人間は始めて真の人間となる。(後略)
 
  彼女の世間知らずさが出ている。20歳の新米の労働者に、こんな話をして、ハイそうですかというようにはならない。「うっとおしい」だけである。

★5月28日
 今日中村にテレした。かぜをひいているらしい。

★5月30日
 今日、東京へ行ってくる。姉と話し合い。家族との決別をつけるために。

★5月31日
 今日東京にて。姉と話す。父母と話す。決裂して飛び出す。八・〇〇PM京都につく。非常に疲れている。次第に自分に自信をなくしている。

★6月1日
  中村に対して「学問の私的所有」の状況を話そうと思った。私は今まで中村氏を、私の存在を認めてくれる存在としかみなかった。しかし私が中村にのぞまねばならぬこと、中村が私に望むことは、相互の徹底したぶつかり合いである。そのようなことなしには、独りである男と女の関係は無意味なものになる。

  これは、小林との関係の後の原則の再確認である。(12月17日:私は男と女が肉体関係を結ぶには、双方の同意というより意思がなければならないと思う。相手が何を考え、何を悩み、何に関心があり、要するに何も知らないのにその関係を結ぶことは出来ない。・・・彼女の独りよがりの考え、中村はこの考え方を求めていない。)
                     ―76−
★6月2日(この日記は先にも引用したが)
 中村とのリレーション。4月27日、5月13日、5月19日御所で2回あい、テレを数回。一体、彼との結びつきはどんな関係であったのか。彼との結びつきは単に肉体のみであったのかもしれない。とにかく決別だ。

★6月3日
  中村にテレをしたがいなかった。
  一抹の期待も抱いてはならないのだ。きっぱり決別しよう。

★6月7日
  中村さんは、とうに決別したはずなのに、その幻影につきまとわれている。前のように髪を肩のへんまで伸ばし、洋服も靴もパリッとかため、化粧に身をついやせば私は女になるかもしれない。しかし、何に対してそうするのか。中村さんも私がそのようにすれば、少し注目するだろうか。

★6月9日
  中村と決別(6月3日)

★6月14日
  「今日、中村はビヤガーデンにきていた。調理場でキュウリを切ったりカツをあげたりしている彼に、私はつまらないチッポケさを感じた。同時に、いらっしゃいませとお客にほほえんでいる私も、全くつまらない人間であると感じた。」

 6月16日「全共闘運動」と決別し、「革命」と「恋」という彼女の理想はくずれ去った。その後彼女の行動は、いじらしいほど悲しい闘いになる。なんとか革命家の恋という筋書きを達成するため。

★6月17日(「全共闘運動」との決別を決意した翌日)
 「中村の目の前で働きながら私は何もできなかった。中村にとり私がやっかいものの存在であるのは、私が中村に重苦しいものを求めているからであろう。」
「交通事故で怪我をしたら、新聞の紙面に一段ぐらいででるだろうか。それによって中村は私の怪我を知り、病院にくるだろうか。こないにちがいない。」と書いている。

                     ―77−
★6月18日メモ(1969・9・18)
 さようなら
 まずこの言葉をあなたに言います。(私がこの言葉をいうのに大きな勇気を必要とするのに対し、あなたがこの言葉をきいてなんの驚きも感じないこと、それどころか重荷を下ろした気分を抱くことを、私とあなたの関係がそれだけの事であるというくらいは、私はわかっているつもりです)
  この1ヶ月半は、私にとって非常に苦しい期間だった。あなたに会った回数は数えるほどしかなかったが、いつもあなたを中心に毎日が過ぎていた。」と書いている。

 しかし、彼女は、今後の二人の関係の確立が難しいことを悟りながらも、自分の思想的立場を彼に理解してもらおうと、アナーキズムの本を手渡そうとする。(会えなくてもこの本だけは手渡したいという姿は、いじらしすぎてかわいそうでしかない。)

★6月21日
 「アナーキズム思想史」買いに行く。さらには「その何とかいうやつにテレしたが、明日屋上に本をとりにくるということです。私は「本を渡したい」という、ただそのひとこと、それがいいたいことのすべてであった。相手に話をするひまも与えず切った。その何とかいうやつへの伝言文に「これは私が信条としたいと思っているアナーキズムについて書いてある本です」と書いたが、この文自体にうそいつわりはない。アナーキズムに人間本来のあるべき姿があると思うのだが、しかし、一切の人間を信じない独りの人間が一体闘争などやれるのだろうか。やれる筈がない。」と書いているがこの文書の最後に、「その何とかいうやつに『アナーキズム思想史』を『これを信条としたいと思っている・・・』と書いたのは史上まれにみる嘘である。」と書いている。

 彼女の日記にはこの手法が度々用いられている。自分で書いて否定する。それも先に書いたことは嘘であるという。彼女は、自分自身に確信が持てなくなっている。アナーキズムは自らの生活の破綻と思想的退廃の後からの論理付であり、胸を張ってアナーキズムを語れる立場にない。

★6月22日
  彼に会って本を渡したという記述はない。「机の上に重ねられた「黒の手帖」(注10)が淋しげにこちらをみている」と書いている。それよりも「睡眠薬を2錠飲んだ。20錠のんでも幻覚症状も何も起こらない。しいて言えば口と胃が
                    ―78−
重くなった程度。(中略)どうしてこの睡眠薬はちっともきかないのだろう。アルコールの方がよっぽどましだ。早く眠りたい2時30分、深夜。」彼女の日記はここで終わっている。

 (この後に旅にでようという詩があるがこれは全体の流れを考えて後で編集者(父)が挿入されたものらしい。)

注10:「黒の手帖」は、大沢正道編集・黒の手帖社発行のアナーキズムに関する
    論稿を集めた小雑誌である。不定期刊行で、限られた書店でのみ市販して
    いた。「黒の手帖第7号」(1969年6月)は200円(高野悦子さん「二十歳の原
    点」案内から引用)

9.彼女は中村にアナーキズムの本を手渡そうとした。これは何故か?

 彼女は、自己の思想性を理解してもらおうとしていたが、この男は単なる遊びであり、アナーキズムなど何の関心もない。彼から見れば、一夜を伴にしたからといって、変な思想を押し付けられ迷惑である。おそらく「ドン引き状態」であったと思われる。
  しかし、彼女には、プライドが高く、一夜の遊びという関係に納得出来ず、自分の思想性を相手が認めてくれた、その上で関係をもった。という自己満足が欲しかったのだと思う。(12月17日自らが確認した男女間の原則)
 自分の革命闘争の中での恋であって欲しかったのだと思われる。それは奥浩平の『青春の墓標』を愛した彼女の夢であった。(奥浩平氏の「青春の墓標」は革命と恋に生きた青春という内容がひしひしと伝わってくる)しかし高野悦子さんの恋は、革命とは何ら関係なく、淋しさを紛らわすため、単に男を求めた結果に見える。割り切った交際と思っていた中村に、自己の憧れである『青春の墓標』の筋書きを彼に求めることは無理であり、彼は逃げまくったため、彼女は大きく傷つき、自己破壊していく。

10.自殺前夜の彼女の醜態

 インターネット上に「高野悦子『二十歳の原点』案内」というHPがある。ここに高野悦子さんの関係者の取材を行い、日記の内容をさらに深めようとしている人がいるが、自殺前夜の模様を中村の同僚(京都国際ホテル従業員(用度担当)の男性(当時20))から詳しく聞いている。
 その様子は革命家の恋ではなく、単に行きずりの恋に破れて自己を見失った独りの女の姿でしかない。
 その同僚の話によれば、「グリル『アラスカ』で夕食をたべていたら、雨の中傘
                    ―79−
もささず、グリルのガラス窓から中を覗いている高野悦子さんを見つけ、中に迎え入れいろいろ話を聞いている。彼女はテーブルに顔を伏せて、だまっていた。  
 いろいろ話しかけてみたがやはり何も言わなかった。それから少したって、彼女が突然、顔をあげた。そして彼女の口をついて出てきた言葉に、私は一瞬、耳を疑った。『死にたい』この言葉に接し中村の同僚は驚き、いろいろ説得するが、彼女は何ら反応せず、『死にたい』、『死にたい』と呟いていた。」
 中村の同僚は彼女が中村に会いたいのだと思い、そのグリルから会社の社員寮に電話して中村の存在を確認したが、不在であった。(居留守を使ったのかも知れない。・・私の推測)彼女にその旨伝えたが、彼女は何も言わなかった。しばらく沈黙が続いたが、彼女は伏せたまま「連れて行って」と言った。
 彼はどうしようか迷ったが、(タクシーで行くか、ポケットの所持金が少なかったので)結局高野悦子さんを連れて歩いて社員寮に帰ったが、その途中彼女が寄りかかってきたので、肩を抱え支えたり、引きずったりした。彼女が覆いかかったり、「かかとの高い靴」が脱げたりもした。寮についたがやはり中村は不在だった。(逃げたのでは?・・これも私の推測)そこで彼女の様子が少しましになったので、大通りまで歩いて出て、タクシーを拾い彼女を乗せて帰らしたと証言している。(これは6月23日の記録であり、彼女が自殺したのは6月24日未明である。)
 この時点で彼女は、思想性に関係なく、彼女の取り柄である「可愛らしさ」で中村に接触しようとしたが、既に中村は完全に彼女を遠ざけていることを悟り、失意のどん底に陥り彼女の安息の場であるバリケードも既になくなり居場所を失って自殺したものと思われる。(注11)
 彼女は、自分が可愛いことを自覚(うぬぼれていた)しており、男なら誰でも自分を好きになると思っていた。(注12)(そういう自分が嫌いではあったが)、4月27日の一夜の恋は、彼女の可愛さがもたらしたものであり、彼女の思想性とは全く関係ない。そのことが突きつけられて、自己破壊したと思われる。

注11:彼女の逃避場所であったバリケードは、立命館大学においては5月20日機
    動隊の導入によりすべては取り払われ、「全共闘」派は学園内に入れない状
    況が築かれていた。(これは5月20日のわだつみの像の破壊が、多くの学友
    から見放された。「全共闘運動」の終焉である。)この後、彼女は京都大学の
    バリケードの中に入っている。
     5月30日の日記では、12時頃京大着。1時になっても15、6人しかおらず。2
    時位から広小路にて愛知訪米阻止の立命館集会を行う。20名ほどの隊列で
    学内でも(安保粉砕、闘争勝利)と集会。群衆は五,六十名位。京大に帰っ
    て文闘委の集会。
                    ―80−
  この彼女の日記から、「全共闘運動」の完全な破綻が読み取れる。(バリケードの中で戦争ごっこ的高揚感を持っていた「全共闘」がバリケードを失うと蜘蛛の子を散らすように去っていった現状がよくわかる。)

注12:1969年2月12日
     私の顔は、目はパッチリと口元愛らしく鼻筋の通った、いわゆる整った部類に
    属するが、その整った顔立ちというやつが私には荷が重い。大体人は整った
    顔立ちに対し、まるで勝手なイメージと敵意をもつ。

11.「かかとの高い靴」と「黒の手帳」(アナーキズムの本)

  彼女の死後部屋の机の上には「黒の手帳」が置いてあったと思われる。(「机の上に重ねられた「黒の手帳」が淋しげにこちらをみている」)と6月22日に書いている。『青春の墓標』では、奥浩平の勉強机の上には、「資本論」第一巻、商品と価値のページが読み止しのまま開かれていて、遺書はなかった。」と書かれているがおそらくこれをなぞらえたものだろう。
  彼女は奥浩平と同じように、自らも「恋と革命に自らの青春を捧げた」という思いを持って死んでいったのだろうと思われる。

  しかし、「高野悦子さん『二十歳の原点』案内」サイトの文書を読んで、彼女が自殺する前日「かかとの高い靴」を履いていたことを知って、私は、彼女は思想的には全く行き詰まり、彼女が一番嫌だった「独りの可愛い女の子」になって彼を引きとめようとしたが、完全に逃げられてしまったことを知った。(自殺を報じた京都新聞は、彼女の服装を「薄茶にたまご色のワンピース」と書いている。)彼女のワンピース姿も見たことがない。(注13)
  ここからは、全くの想像になるが、6月21日彼女は電話で、明日屋上(バイト先のホテル)で会い、『アナーキズム思想史』を手渡す約束をしている。しかし22日の日記にはこの話が全く出てこず、睡眠薬を20錠飲んだ話が出てくることから見れば、彼は屋上に現れなかったのではないか。
  そこで起死回生を狙い、彼女が最後にとった手段は、「女の子に変身し、彼女の可愛らしさの魅力で彼を取り戻そうとした。」(23日)しかし彼はそれもすっぽかした。その後酒を飲んでよれよれになり、グリルアスカを覗いていたと思われる。(中村の同僚がよくここで食事をしていることを知っていたのか、たまたまなのかは判らない。)

注13:6月19日:(自殺5日前)高野アイ(母)は「悦子がねだるので小さな店で薄
    茶色のワンピースと靴を買ってあげた」(『大学のある街─今出川にわた
                   ―81−
    る風8』「朝日新聞(大阪本社)京都版2006年」)。 
 
  自殺した際の服装は、19日母に買ってもらった物であることは、明らかであるが、おそらく靴も19日母に買ってもらったものだろう。・・・既に死を覚悟していたのか? それとも垢抜けした女性に変身し中村の気を引こうといたのか?
 
  その後、彼の同僚に助けられ、その同僚が寮に電話で彼の所在確認を行ったが、おそらくその情報は彼(中村)に伝わり、彼は寮から逃げ出したのだと思う。彼女は同僚に付き添われ寮まで訪ねて行くが、既にもぬけのカラであり、万事休すと悟ったのでないかと思われる。このあとタクシーで帰ることになるが、帰ったのか、夜の世界を彷徨いていたのかは分からないが24日未明に鉄道自殺している。(注14)

注14:6月24日(火)午前2時ころ、高野悦子さんは下宿から「チョット外出します」と
    声をかけて出た」(高野三郎『失格者の弁』「二十歳の原点」(単行本)(新潮
    社、1971年))(同「二十歳の原点[新装版]」(カンゼン、2009年))とされてい
    る。
 
  彼女には厳しいが、結局彼女は『青春の墓標』の奥浩平に憧れたが、全くちがう結末を迎えてしまった。彼女は革命家にはなれなかった。またなる必要もなかった。このことに彼女が、気がついておれば良かったが、もともと自殺願望があり、彼女が自分を見つめ直すことが難しかったのかもしれない。

12.「かかとの高い靴」は、何とも言えない悲しさを覚えた。

  私は中村の同僚が証言した中で一番注目したのは、彼女が「かかとの高い靴」を履いていたことである。私が見た彼女は常に運動靴のようなかかとのない靴を履いていた。(彼女だけでなく、当時、立命館大学の中でハイヒールを履いている女性を見たことがなかった。) 
  6月7日の彼女の日記に、「弱い人間、女なんかに生まれなければよかったと悔やむ。」(中略)化粧もせず、身なりもかまわず、言葉使いもあらいということで一般の女のイメージからかけ離れているがゆえに、他者は私を女とは見ない。(中略)前のように髪を肩のへんまで伸ばし、洋服も靴もパリッとかため、化粧に身をついやせば私は女になるかもしれない。しかし、何に対してそうするのか。中村も私がそのようにすれば少しは注目するだろうか。女は身ぎれいにしていないと、社会から端的にその人格を否定される。あーあ。そんな社会はこっちからお断りする。」と書いていた彼女が、「かかとの高い靴」を履いていたことには驚い
                  ―82−
た。結局は彼女の革命は幻想であり、「独りであること」、「未熟であること」それが二十歳の原点である。(二十歳の原点 1月15日二十歳を迎えて)と主張したが、ただ淋しいから愛されたいがその本質だとおもわれる。

  この「独りであること」自分を閉ざし人と社会のつながりを拒否するという完全に人間不信に陥った状態で生きる意味を見いだせなくなっている。
人生に訣別をつけたかのような重い内容を表すのが、69年6月19日(自殺直前の日記:「原点」)の彼女の詩「ティファニーにて」である。

    「ティファニーにて」 (1969/6/19)

    一切の人間はもういらない
    人間関係はいらない
    この言葉は私のものだ
    すべてのやつを忘却せよ
    どんな人間にも、私の深部に立ち入らせてはならない
    うすく表面だけの 付きあいをせよ

    一本の煙草と このコーヒの熱い湯気だけが
    今の唯一の私の友
    人間を信じてはならならぬ
    己れ自身を唯一の信じるものとせよ
    人間にたいしては 沈黙あるのみ

 
                     ―83−

最後に


1.『荒野のおおかみ』が高野悦子さんの生き方に最も大きな影響を与えた。

  彼女の基本的な考え方は、高校三年生にほぼ同時に手に入れた、『荒野のおおかみ』(ヘルマン・ヘッセ)『青春の墓標』―ある学生活動家の愛と死―(奥浩平)、さらには「人知れず微笑まん」(樺美智子)らの本の影響を大きく受けている。
  彼女はヘルマン・ヘッセから、「小市民否定」の哲学を学び(注1)、奥浩平、樺美智子からは、国家権力と肉体的に対峙することと、奥浩平からは特に「革命」と「恋愛」について学んだ。さらにはヘルマン・ヘッセと奥浩平から、「自殺」へのあこがれを抱いた。(注2)
  この三冊の本が彼女にどのような影響を与えたかであるが、彼女は高校時代から、落ち込んだ時には必ず、奥浩平の『青春の墓標』を読んで自らを律している事と、彼女が恋に破綻した際に、「我に残るのは唯階級闘争のみ」(5/4)というような勇ましい革命的言質から、奥浩平の『青春の墓標』が一番影響を与えたと見られがちだが、実際はそうではなく、『青春の墓標』は、彼女のあこがれに過ぎず68年12月16日「小林との関係」を最後に引用されなくなる。
  この16日の日記には、『青春の墓標』とともに『荒野のおおかみ』(ヘルマン・ヘッセ)の思想が語られ、これ以降の彼女のバイブルは、『荒野のおおかみ』がもっとも中心的役割を担っている。(注3)
 この視点から見ると、鉄道自殺で自らの命を断つたことも(彼はすぐに死によってのがれようという願いをよびさまされる。(『荒野のおおかみ』新潮文庫76ページ)、肉体関係優先した恋愛観(常に鈴木との肉体関係をもちたいと願っている。69/4/20)など、彼女の不可思議な行動がすべて理解できる。
 彼女は『革命』に憧れたが、彼女の非組織性や、「独りであること、未熟であること」二十歳の原点は、革命とは相容れず、彼女のやっていたことは、父母の価値観の押しつけ(父や母はお茶とお花とお料理をやりなさいという。卒業したら二十二歳。それから花嫁修業は遅いのだそうだ。4年生大学の女の人はそれこそいやがられているのに、何もそういうことが出来なかったら、それこそ大変だというのである。68年3月17日、8月28日の日記)に反発し、自己をごまかして市民的なものと妥協して生きようとはしない(授業料64000円の支払い拒否を貫いた)、市民社会の体制に同調できないはぐれ者・アウトサイダー的生き方であり、自己と体制とに反抗しようとする姿であった。(注4)

注1:「彼は、金のために富裕な生活のために、女や権力者に身を売ったことはな
   い。世間のだれの目からみても彼の利益と幸福であったものを、彼は百ぺんも
   放棄し拒否した。そのかわり自由を保持するためであった。職務を遂行し、
                      ―84−
   一日や一年の時間配分を守り、他人に服従しなければならないという観念よ
   り、いとわしい空恐ろしい観念はなかった。事務所、役所、執務室、それは彼
   にとって死のようにいとわしかった。彼が夢中で体験しえたいちばん恐ろしいこ
   とは、兵営にとらわれていることだった。あらゆるそういう境遇から彼は脱するこ
   とを心得ていた。そのためにしばしば大きな犠牲を払った。そこに彼の強みと
   美徳があった。(『荒野のおおかみ』新潮社72ページ)

注2:「彼は、自分にはいつでも死への道が開かれているという考えを、単に青春
   の憂鬱な空想の遊戯にするだけでなく、まさにその考えから慰めと支柱を築く
   のである。たしかに、彼の種類のすべての人間のように、衝動や苦痛にみまわ
   れるごとに、悪い生活状態に陥るごとに、彼はすぐに死によってのがれようという
   願いをよびさまされる。(『荒野のおおかみ』新潮文庫 76ページ)

注3:本文:56ページ★12月16日(重要な日記)参照

注4:「何かをたたきこわしたい。たとえば百貨店とか大寺院とか、あるいは自分自
   身をたたきこわしたい。あがめられているいくつかの偶像からかつらをもぎとると
   か、数人の反逆的な生徒たちに待望のハンブル行き切符をあてがってやると
   か、小さな少女を誘惑するとか、市民的世界秩序の数人の代表者の首をねじ
   ってやるとか。無鉄砲なばかなまねを犯したい。」(『荒野のおおかみ』新潮文
   庫 41〜42ページ)(この思想は、わだつみの像の破壊につながるのでは)
   女の「全共闘」への傾倒は、この思想が原点にある。

2.彼女は何を間違ったのか?

 まず、小市民否定という思想と革命の思想は相容れない思想であることを彼女は理解しなかった。革命を少数の職業的な革命家の役割と理解し、多くの国民大衆を小市民と位置づけ敵視した。(注5)

注5:「発育不全な感情によって、市民であることに執着し、市民らしい生活力の弱
   化にいくらか感染し、やはりなんらかの形で市民階級に踏みとどまり、それに従
   属し、義務を負い、奉仕しつづけている。市民階級にとっては、偉大なものた
   ちの原則とは逆な原則が通用するからである。すなわち『自分に反対しないも
   のは、自分の見方だ!』というのである。」
    そこで荒野のおおかみの魂を検討すると、彼は、高度の固体化によって非
   市民たるべき運命を負わされた人間であることを示している。―高度に行な
                     ―85−
   われた固体化はすべて自我に反対して、自我の破壊に陥入りがちだからであ
   る。彼は聖者にたいしても放蕩者にたいしても強い衝動を内にもっているが、
   なんらかの弱体化と惰性から、自由な野生的な世界に飛び込むことができ
   ず。市民社会という重い母なる大地に縛りつけられているのを、われわれは見
   る。(『荒野のおおかみ』新潮社 83〜84ページ)

★4月29日の日記に、
  「隣りの部屋の女のくだらないおしゃべり。ああ人間はくだらない、卑小だ。人間の人間たるをしらずして社会の中に埋没してただ生きているからだ。」
「自由!私は何よりも自由を愛す。」(上記「注4」で書いた思想「荒野のおおかみ」の影響)と書いている。
  しかし、同時に自分がいかに小市民であるかも以下に書いている。

★6月12日の日記に、
  「今日はお風呂に入っていたときのこと。他にもひとりいて、その人は水道の蛇口をひねり湯をぬるめた。湯はぬるかった。41度くらいだったなあ。私はその人に「もう水道を止めてもいいですか」と恐る恐るというさまでたずねた。他人を気にする弱々しい市民生活の私」という書き込みがある。

  私はこの後半の日記の方が高野悦子さんらしくて好きだ。本来の彼女はこういう人であったのに、ヘルマン・ヘッセの影響で、小市民生活を否定することを基調に据えてしまった。だから彼女の日記には、卒業後の人生設計が全く書かれていない。「就職し、結婚し子供を産んで幸せな家庭を築く」は、まさに小市民的な思考であり、彼女はこれを拒否した。そして奥浩平が目指した職業革命家みたいなものに憧れた彼女には、小市民的生活は否定すべき存在であった。

3.彼女は革命とは無縁な存在・・彼女が実践したのは革命ごっこでしかない

 しかし、彼女の勘違いは、すべての人間が職業革命家になる必要がないことに気がつかなかった。職業革命家に向いている人間なんて、1000人に数人もいればいい方である。彼女が歩むべき道は、大学でシッカリ学び、力をつけて社会人となって、その後も彼女が革命を求めるなら、日本の革命に貢献すべきであった。そのために学生時代に必要なことは、自分自身の生き方そのものを確立することこそが求められていたのであり、彼女のように生活全般が乱れ、自堕落に生活していくことは革命とは全く無縁であり、彼女は「革命」とか「恋」とか「自殺」とか「甘い言葉」に酔っただけである。
 彼女が「水道の蛇口を閉めてもいいですか」とオドオドした格好で、オソロオ
                    ―86−
ソロ申し出ている姿が目に浮かぶ。これこそが高野悦子さんの姿であった。 
もっとも職業革命家とは遠い位置に存在した彼女が、職業革命家に憧れても、それは全くかなわない夢であった。
  彼女には失礼ながら、本当は革命なんか全く分からなかったと思われる。彼女の生き方は、まさに反抗期の娘のような反発であり、裕福な厳格な家庭に育ち、(お父さんは京大卒であり、県庁の官僚でもあった。)おそらくその威厳さの前で反発できず、大学に入って反抗期のような振る舞いを、革命と関連付けて表したように見える。(注6)
  あるいは、彼女の日記の中にしばしば現れるファザーコンプレックス(4月24日)、や、エディス・コンプレックス(4月10日)にカギがあるのかも知れない。

注6:「対話しても、教訓じみた話ばかり。親は子を教育するものとして、固定観念
   でものごとが片付けられていく。父も母も矛盾を抱えた人間であることの片鱗
   すら見せない。・・・父や母は私を子供としか見ない。・・・認めようという心がな
   くて、私たちに仕事を求めることはナンセンスである。(68年12月24日)

4.『荒野のおおかみ』『青春の墓標』から抜け出せなかった。

  なぜ高校生で出会った『荒野のおおかみ』や『青春の墓標』や『人知れず微笑まん』などの作品が彼女にこれほど大きな影響を与えたのか不思議である。一時的にかぶれても、彼女はなぜそれを乗り越えることができなかったのは、本当に不思議でたまらない。(注7)
 彼女の生い立ちから遡って見ていかないと、わからないのではと思っている。彼女が「部落研」に入ったということは、これらの思想から乗り越えるチャンスであった。彼女が書いた「はじめて連帯感が生まれた」にその芽が見える。しかし残念なことにその芽は摘まれてしまった。当時の我々の「研究会」の弱さも絡んでいるかも知れない。残念でたまらない。

注7:「『自殺者』はーハリーはそのひとりだったが、―必ずしも死にたいして特に強
   い関係のうちにいきているとはかぎらない。死において特に強い関係に生きる
   ことは、自殺者でなくてもできることである。だが、自殺者に固有なのは、その
   当不当は別として、自分の我を、特に危険な、疑わしい、危険にひんした自然
   の芽生えと感じていること、また、自分は極度に狭い岩の先端に立っていて、
   外からちょっと押されても内からのささいな弱みが起きても、それでもう空虚の
   中に転落するかのように、自分を極端に危険にさらされたあやういものと常に思
   っている。ことである。この種類の人間たちの運命線
                     ―87−
   は、自殺こそ彼らの最も可能性の多い死に方であるということ、すくなくとも彼ら
   自身の観念ではそうであるということによって特徴づけられている。こういう気分
   はほとんど常に青年の初期にすでに現れ、その人に生涯つきまとうものである
   が、その前提となるのは、特に生活力が弱いなどということではない。それどこ
   ろか『自殺者』のあいだには、異常に粘り強い、精神的な、そしてまた大胆な
   性が見いだされる。ごくささいな病気にかかっても熱を出しがちな性質があるよ
   うに「自殺者」と呼ばれる、常に多感敏感なこの性質は、ごくささいな動揺を受
   けても、自殺の観念に強くふけりがちである。」(『荒野のおおかみ』新潮社74
   〜75ページ)
 
  革命の基本は組織された労働者であり、彼女の労働者に対する、見下した目は革命家としてはありえない。(本文:76ページ 6月14日付け日記)結局は裕福な家庭に育ったお嬢さんの革命ごっこの水準でしか彼女は革命を理解できなかった。 
それよりも根底には自らのプチブル性の克服に取り組んだが、それも叶わず、結局は生活破綻を来たし、自殺願望だけが残った。

5.なぜ、今頃高野悦子を取り上げたのか

 これは最初にでも書いたが、高野悦子の自殺は、「部落研=民青」が殺したというような誤った情報をインターネット上に流すものがいるので、それらの人に対して、立命館「部落研」に在籍していたものとして、責任ある回答をおこなっておくことが重要だと考えたからである。
  高野悦子さんの二十歳の原点を読めば、それらの主張が如何に事実に相違するかは明らかであるが、中にはこの誤った主張の影響をうける人も見受けられる。
  重要なことは、高野悦子さんは入学後67年5月10日に「部落研」に入部し、翌年の4月13日に退部している。その後4月24日にはワンダーフォーゲル部に入部し(二回生)その後学生運動とも手を切り(「今では、学生運動の学の字もやっていない。」68年8月15日)、山歩きの中に自分の生きがいを見出している。しかし、そのワンゲルの仲間に「半ば暴力的に性的関係を強いられ」(68年12月16日)それ以降、彼女の生き方が大きく揺れ動いて行く。
  再び学生運動に参加するようになるが、今度は「全共闘」のバリケードの中に入って行く、さらには、69年3月には京都国際ホテルのアルバイトを始め、ここで、男性との肉体関係を求める日記を多く書くようになる。鈴木との関係は幻想で終わったが、中村とは関係を結び「全共闘運動」にも本格的に参加していくが、中村の愛が本物でない事に気づき、「全共闘運動」の終焉を感じ取った彼女には生きる支柱がなくなってしまう
  このように時系列で見ていくと、「部落研」で彼女の成長を勝ち取れなかった
                      ―88−
ことは事実であるが、彼女が退部を決意し、我々もそれを了承し、彼女自身新たな学生生活のあり方を模索し、新たに生きてきたことに対して、最後まで「部落研」の責任だという議論は乱暴すぎる。
  彼女の日記を見ても、退部直後は、「部落研」を辞めたことは敗北だとか、総括をきちっとする必要があるとか、部落史の勉強をしようという話が出てくるが、ワンゲルで自分の居場所が見つかり出すと、「部落研」に関する書き込みは一切見当たらない。彼女は今後の生き方を、「部落研」で学んだ生き方と手を切り、新たな生き方を模索している。
 この文書の本編でも書いたが、彼女の退部申し入れは4月13日、その際私が対応したが、一定引き止めはしたが、彼女が「ワンダーフォーゲル部に入って活動したい」と話してくれたので、「高野さんにとってはそのほうが良いかもしれないね」といって退部を了承した。彼女の日記を見れば、その後数日は悩んだようであるが、彼女のワンゲルへの入部が4月24日であることを見ても、われわれは、彼女の意思を素直に尊重して受け入れた。(彼女がワンゲルに入ってから、「部落研に帰ってこい」というような働きかけはクラブとしては一切していない。)
 彼女は「部落研」退部を考えた68年1月10日(しかし実質的退部決意は11月23日:ただ単に満足(欺瞞的な)を得ただけである。)、そして民青加入の決意(1月2日19歳の誕生日に)を語っているのが12月13日、この思考はどこから来るのか私にはわからないが、少なくとも彼女の中では、「部落研=民青」とは捉えていない。
 彼女は「全共闘運動」に最初に参加したデモでは、「民青粉砕!闘争勝利!」のシュプレヒコールを叫ぶことはできなかったと書いている。(69年2月20日機動隊導入日)
 その彼女が、69年4月28日に「全共闘運動」に全面的に参加してから、5月19日「中村よ」で始まる日記(本文:75ページ)で「卑劣な民青のことを」話したいと書いている。67年の12月23日には民青に入ろうと決意していた彼女が、69年4月28日から「全共闘運動」に本格的に参加して、部落研や民青と思想的には完全に決別している中で彼女の自殺は行われている。
 彼女は「全共闘運動」参加する中で、「立命館民主主義とは安価な労働力商品を生産しているに過ぎず」(6月5日)と主張し、大学そのものを否定し、具体的には校舎の破壊に加担し、授業料の納入も拒否し、自らが寄って立つ基盤をすべて失った。しかもこれらを主張していた「全共闘」の多くの幹部は、自ら逃走し、大学をチャッカリ卒業する者も多くいた。
 こうした状況の中で、「全共闘運動」を信じ「真剣に闘った」彼女は、行き場を失った。6月16日の日記では「1時から6・15闘争報告集会がある。私はいか
                     ―89−
ない。なぜ?すべてに失望しているから。アッハハハハハ。」と自嘲気味に笑い飛ばしている。
 上記に述べた事実関係を正確に捉えた上で、なぜ「部落研=民青」に責任があるのかその論理建てをキチッと行い批判していただきたい。単なる憶測や思い込みの世界だけで我々を批判することは謹んでもらいたい。

6.当時の学生運動(部落研)は、彼女を救える理論的な深みがなかった

 高野悦子さんの最後の思いは「私はいつまでもまじめで真剣である。そして純粋さももっている。」のになぜうまくいかなかったのだろう。という思いであったと思われる。彼女は、確かに真面目に、真剣に生きた。しかし、彼女は自己の中の「おおかみ」を制御することができなかった。どこかで歯車が狂い、ボタンの掛け違いが起こってしまった。彼女の未熟さゆえに、この歯車の狂いを修正していく復元力を彼女は持ち得なかった。(注8)

注8:おおかみと人間、本能と精神との二分することによって、ハリーは自分の運命
   を理解しやすくつとめるが、この二分はきわめて大まかな単純化であって、この
   人が自分の中に見いだす矛盾、彼の大きな苦悩の源であると思われる矛盾
   に、もっともらしいが誤った説明を施すために、事実を曲げたものである。ハリ
   ーは自分の中に人間を、すなわち、思想や感情や文化や、仕込まれた高尚に
   された性質などから成る一つの世界を見だすが、同時に自分の中に「おおか
   み」をも、すなわち、本能や野生や残虐性や、高尚化されない粗野な性質な
   どがなる一つの暗い世界を見出す。

私は全国の高野悦子さんフアンの大きなお叱りを得るであろうが、高野悦子さんを神格化することには反対である。これは、樺美智子さんや奥浩平さんの神格化もおなじである。これらの人達を神格化し、褒め称えれば、それに憧れることにより命を失う者がまた発生しないとも限らない。もうこれ以上このような痛ましい死は避けなければならない。
やはり人生を語る書物は、「生きる喜びを伝えるものであるべきだ」と私は考える。彼女が嫌った小市民的考えだが・・・・
 同時代を生きたものとして、あの当時の学生運動全体の未熟さもあり、高野悦子さんという貴重な人を失ったことは残念でたまらない。