資料集4


    産経新聞  (2002年5月10日)  
         立命館研究 27 ― 立ちはだかる反対住民 ―

 平成9(1997)年10月、3年後の開学を目指して大分県別府市の山中で造成工事に入った立命館アジア太平洋大学(APU)。「真の国際大学を」という理事長、川本八郎氏(67)の理念とは裏腹に、その建設過程は、大学誘致に反対する地元市民団体との戦いの歴史でもあった。

 「もちろん多くの住民は歓迎ム−ドだったが、組織的な反対住民の声は日増しに強くなった。地元説明会で罵声をあびせられることすらあった」。当時、現地担当者として別府市内に派遣された常務理事、伊藤昭(60)=APU副学長=はそう振り返る。

 「一私立大に行政が膨大な公金を支出するのは税金の無駄遣い」「キャンパス予定地は希少生物の宝庫であり、自然破壊につながる」。反対住民らの主張は大きく分けてその2つだった。

 APUは、総事業費260億円のうち、県が建設費の150億円を、別府市が私有地の無償提供と、土地造成費など42億円を負担。周辺道路や水道などのインフラ整備も行政側が支出した。建設予定地にはイタチやイノシシなどの小動物や絶滅が近い植物種も多かったという。

 9年5月には別府市の主婦が市長を相手取り、APUに対する公金支出の差し止めを求めて大分地裁に提訴。翌年2月にも市議らが県を相手に訴訟を起こしている。運動の中心はいずれも革新系の市民団体で、主婦の裁判は最高裁までもつれた。

 「かつての立命館的な教育の前ではつらいものがあった…」。伊藤はそう漏らす。訴訟前にも、反対住民らは大学誘致の是非を問う住民投票を求めたり、住民監査請求を起こしたりしたが、いずれも県や市の圧倒的な力に抑えられた。キャンパスの起工式や着工式では反対住民らの横断幕が掲げられ、シュプレヒコ−ルが繰り返された。

 その志は別としても、「平和と民主主義」の立命館は、この地域に限っていえば、確実に“権力者 ”の側に立ってしまったのだ。「かつて京都の住民運動では、何らかの形で立命館の教職員や学生が必ずかかわっていた時期があった。『住民運動=善』という単純な認識(注1)がこの大学にあったことは否めない」。ある職員はその語る。

注1:『住民運動=善』という単純な認識というこの主張は、「鈴木元氏の本」の中で何回も出てくる、彼はこの論理(末川民主主義の弱点)で、教職員の役割や学生の要望等を踏みにじり、自分が権力側に立つ事を正当化している。 

 2つの訴訟は昨年春までに原告側の敗訴で決着したが、立命館のイメージに拭い切れない傷跡を残しただけでなく、地方自冶体が「町おこし」的に大学を誘致することの難しさをも露呈させたといえる。「私たちの目的は海外の学生に日本で学んでもらうことだけ。自然を壊してゴルフ場をつくるわけではないのに、地元の理解を得るのは容易ではなかった。反対運動の活動は一般住民にも次第に不安感を広げてしまった」。当時、APU担当の副総長だった坂本和一(62)=現APU学長=は振り返る。
 
 「びわこ・くさつキャンパス」(BKC)の移転問題でも中心的な役割を果たした坂本は、企業経営が専門の教授でもあった。「大学経営も企業経営の一つと考えるなら、新キャンパスの開発は学者としての実践の場だった。失敗したら教え子たちに顔向けできないと思った」

 (1999)年6月、坂本や伊藤らは「APUからの提案」と題した文章を地元の全世帯に配布し、地域への大学開放や外国語教育の提供、海外への別府市のアピールなど大学の理念や目標10項目にわたって提示した。建設工事でも産業廃棄物の軽減や自然環境に配慮した特殊な広報などを駆使し、小動物の専用道まで設けた。

 一連の交渉には、BKCの誘致に成功した草津商工会議所のメンバーらも協力。別府市を訪れて市民らに「大学のまちは面白い」と題して講演してくれたこともあったという。坂本は「立命館の考えに多くの人たちが賛同し、協力してくれた。だからこそ、私たちは当初の志を変えてはならなかった。APU建設は改革の集大成だった」。

 (2000)年4月に予定されていた開学は数ヶ月後に追っていた。反対団体の声は次第に世論から受け入れられにくくなっていった。建設中のキャンパスも徐々にその全容を現しつつあったが、残された大きな課題があった。 「本当に留学生が集まるのか」−。

用語解説
◇BKCとは
「びわこ・くさつキャンパス」(略して「BKC」)
◇APUとは
アジア太平洋大学=「Asia・ Pacific・Universit」(略して「APU」)