資料集11ー2


    立命館100年史 第三章「大学紛争」と立命館学園の課題
   第一節 一九六〇年代後半の政治・社会状況と「大学問題」
     四 六七年「同和教育」問題    

 部落解放同盟からの「申し入れ」/大学の「告示・声明」/解放同盟の糾弾、大学の見解と学友会等による批判/立命館大学と部落問題研究所/部落差別の認識をめぐって−『大学教育と部落問題』の改訂/「同和教育」から「人権教育」へ

 この立命館100年史を読めば、鈴木元氏の指摘する、朝田善之助と末川氏があらかじめ合意して推し進められたという主張が、鈴木元氏の捏造であることがよくわかる。以下100年史が何を書いているか、時系列で追っていきたい。

1118 [部落解放同盟からの申し入れ書]
            (1966(昭和41)年5月23日)
1966年5月23日
      部落解放同盟京都府連京都市協議会
        議 長  杉 原  進 
立命館大学総長
 末 川  博 殿

1119  [部落解放同盟からの申し入れ書への対応]
             (1966(昭和41)年5月31日)
     第364回(臨時)大学協議会(昭和41年度)
  日 時 5月31日(火)

1120  [部落解放同盟との話し合いの大学の態度]
             (1966(昭和41)年6月25日)
     第366回大学協議会(昭和41年度)
  日 時 6月25日(土)

参考:これは記載されていなかった。しかし産業社会部の教授会見解はこの小委員会結成に際しての見解を正すというものであったので敢えて追加記載する。
○○○○  立命館大学第380回大学協議会
              (1967年(昭和42年)3月29日)
      「同和教育に歴史的経緯と担当者選定の基本方針」を決定 
       
  1967(昭和42年)3月 解同22回全国大会
朝田善之助を中央執行委員長に選出

1121  [同和教育]担当者に対する産業社会学部教授会の見解
              (1967(昭和42)年5月2日)

1122  [1・2部部部落研の公開質問状]
              (1967(昭和42)年5月12日)
      立命館大学当局  殿

1123  同和教育に関する件[小委員会設置]
                (1967(昭和42)年6月24日)        

1124  [大学告知]
                (1967(昭和42)年6月24日)
            立命館大学

1125  [学生部長訴え]
                (1967(昭和42)年6月30日)
      学生諸君に訴える
              学生部長 加 藤  睦 夫

1126  [各学部長、二部協委員長告示]
                 (1967(昭和42)年7月7日)
      告示−同和教育推進のために
              各学部長、 二部協委員会

1127  [同和教育の総括と今後の方向]について
                  (1967(昭和42)年7月26日)
              教学担当常務理事 高 橋  良 三

1128  [部落解放同盟中央委員会委員長宛、末川書簡]
                  (1967(昭和42)年8月22日)
            立命館大学総長  末 川   博
       部落解放同盟中央執行委員会
         委員長 朝 田  善之助 殿

1129  [「同和教育」の専任教員担当]
                  (1967(昭和42)年9月9日)
       第393回大学協議会議事録

1130  部落研究室の設置について
                  (1968(昭和43)年7月9日)

1131  [部落問題小冊子編集委員会設置]
                 (1965(昭和40)年8月21日)
        大学協議会議事録

1132  [『大学教育と部落問題』第二次改訂方針]
                  (1975(昭和50)年3月29日)
 第560回大学協議会議事録

1933  [大学で学ぶことと人権]の発刊にあたって
                  (1989(平成1)年5月)
      「大学で学ぶことと人権」の発刊にあたって
         立命館総長・大学長  谷 岡  武 雄

1134  部落問題研究室の発展的改組
                  (1992(平成4)年3月14日)
第892回(1991年度17回)

1135  [「同和教育」の発展的廃止と「現代と人権」の設置]
                  (1993(平成5)年9月17日

 と歴史的に報告されている。    

 この立命館100年史を見れば明らかなように、立命館大学における「同和教育」方針は、末川氏一人が朝田善之助氏と決めたような事実はなく、1965年以降解放同盟の申し入れに基づき各級機関で話し合われ、ここでは産業社会部の教授会だけが取り上げられているが、実際はすべての教授会で議論されている。  
なぜ産業社会部だけが取り上げられているのかは、この産業社会部の見解が、解放同盟を怒らせ、彼らの導入を招いたとされているからである。以下この「見解」を紹介する。
3月29日第380回大学協議会においての「同和教育の歴史的総括と担当者選定の基本方針を明らかにする」ための小委員会を設置するという決定に対して5月2日の教授会は、次のような討議を行い見解をまとめた。
1.本学部教授会は、「善処せよ」という形で人事問題に介入されることは、次項にのべることからも研究教育の自由、大学自治の侵害になると考えるが、大学協議会はこの点についてどのように考えられるか明らかにされたい
2.同和教育をめぐる現状の評価において、根本的検討を要するとの見解を表明しているが、当教授会は、相当明確な形で、本学の教学方針の中への部落問題の位置づけ、および人権意識を高め差別を許さない学生を育成する同和教育の方針がつくられていると考えられる。
3.本教授会は同担当者が不適格だとは考えない。この点で大協討議の中で同担当者は不適格だという意見があったと聞くが、その根拠を知りたい。

 この産業社会部教授会の見解は、文学部のN教授によって解放同盟に持ち込まれ、産業社会部教授会に対する糾弾が行われる。立命館100年史はこれを捉えて産業社会部に対して批判的見解を示すが(注1)、当事者であった須田教授は、この産業社会部の見解こそが正しく、よく言ってくれたと評価されるべきだとニュース39号で主張されている。
注1:「資料11-1」で成澤 榮壽教授はこの辺の事情を以下のように表現されている。
  本書(立命館百年史)は、産社教授会「見解」を「大学の自治を尊重する点で当然のこと」とした上で、「解放運動内の対立のなかでのいわゆる朝田理論をめぐる状況について認識には甘さがあり、総じて解放運動内の一方の側の」「動きを加速させた」と記述している。
 こうした事態は「いわゆる『民主派』が多数を占めることとなった」昼間部学生で構成する「一部学友会」の活動を皮切りに克服されていく。その後の経緯を本書の叙述で示す。」 と書かれている。

 立命館大学は、解放同盟に屈し、末川書簡などは「朝田理論」そのものであるが、さらに、見過ごすことができないのは、このような事態を招いた原因のひとつに産業社会部の見解を上げている。以下その部分を引用する。
 本年5月以降の本学が招いた事態に、産業社会部教授会が中間的に出した5月2日付の「見解」の内容が一定の影響をもったことを否定できない。と書いている。

 しかし、立命館大学は、この「朝田理論」からの呪縛を取り払う努力を、その後一貫して取り組む。(この点は他の大学とは大きく違う。)先に引用した成澤
榮壽論文は、この点について「「いわゆる『民主派』が多数を占めることとなった」昼間部学生で構成する「一部学友会」の活動を皮切りに克服されていく。その後の経緯を本書の叙述で示す。」と書いている。
 上記百年史1132にあげた、[「大学教育と部落問題」第二次改訂方針](1975(昭和50)年3月29日)にそれはあらわれる。以下具体的に示すと
  @差別意識の問題に偏重している。
  A部落解放への展望が不十分である
  B部落差別原点論=基底論についての再考
  C基本的人権、民主主義の問題全体との関連が不十分である
 などの問題点を主要に改訂しており、・・・・

1967年に朝田理論に屈服した立命館大学は、その8年後には朝田理論の呪縛から逃れるための基本方針を打ち出している。これは行政がその克服に40年以上かかったことをみれば、相当早いテンポで脱却を図っている。